フアン・セスペデス・ウーリベイ・テーニャ(Juan Cespedes Uribe Tena, 1979年7月22日 - )は、ドミニカ共和国・出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。現在は、フリーエージェント(FA)。発音記号に基づく正しい読みは「ウーリベイ/ooh RE bay」である。にコロラド・ロッキーズと契約してプロ入り。4月8日のサンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビューを果たし、この年は打率.300を記録。12月2日にアーロン・マイルズとのトレードで、シカゴ・ホワイトソックスに移籍した。23本塁打を記録。高い守備力も含め、ホワイトソックスに欠かせない選手となった。のシーズンオフに、故郷のドミニカに帰国した際に、発砲事件を起こして逮捕されている。しかし、ウリーベ自身が発砲したかどうかは定かではない。は、前年オフに右腕エース、ジョン・ガーランドとのトレードで、メジャー屈指の好守の遊撃手であるオーランド・カブレラが加入。その煽りを受け、前年の井口資仁の放出以来、空席となっていた二塁手へコンバートされた。しかし、開幕から不振に陥ったのと故障、またアレクセイ・ラミレスの台頭もあり、内野のユーティリティへと格下げとなった。だが、後半戦からは、故障したジョー・クリーディの代わりに三塁を守るなど、一塁以外の内野をこなしてチームに貢献した。10月30日にFAとなった。1月29日、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約し、4月4日にメジャー昇格。11月5日にFAとなったが、1月4日にジャイアンツと1年325万ドルで再契約した。2010年は遊撃のレギュラーとしてチーム56年ぶりの世界一に貢献した。オフの11月1日にFAとなった。2010年11月30日にロサンゼルス・ドジャースと3年総額2100万ドルの契約で合意した。10月31日にFAとなったが、12月14日にドジャースと2年総額1500万ドルで契約に合意したことを報道され、12月24日に球団が発表した。9月28日、レギュラーシーズン最終戦のロッキーズ戦、ポストシーズンに向けて休養を取った監督のドン・マッティングリーより監督代行に指名されてチームの指揮をとり、チームを勝利に導いた。なお、本人の選手としての出場はなかった。は、移籍するまでに29試合に出場したが、打率.247・1本塁打・6打点・1盗塁という成績に終わり、イマイチ調子が上がらなかった。2015年5月27日にアルベルト・カヤスポ、エリック・スタルツ、イアン・トーマス、フアン・ハイメとのトレードで、クリス・ウィズロウと共にアトランタ・ブレーブスへ移籍した。5月25日から27日はドジャースの本拠地ドジャー・スタジアムでの3連戦だったが、25日はドジャースの選手として、27日にはブレーブスの選手として試合に出場した。ブレーブスでは三塁手のレギュラー格となり、46試合に出場。ドジャース時代からは一転して調子を上げ、打率.285・7本塁打・17打点・1盗塁・OPS0.817という好成績をマークした。三塁の守備は、持ち前の高い守備力が影を潜め、42試合で守って6失策・守備率.942・DRS -1という成績だった。2015年7月24日に、とのトレードで、ケリー・ジョンソンと共にニューヨーク・メッツへ移籍した。メッツでは44試合に出場し、9二塁打と6本塁打を放ってパワーを発揮したが、打率.219と再不振になった。三塁の守備は好転し、26試合でDRS +2を記録した。また、二塁手でも7試合で無失策だった。ドジャース時代からの通算成績は、119試合の出場で打率.253・14本塁打・43打点・2盗塁・OPS0.737という内容であり、2年ぶりの二桁本塁打クリアとなった。ポストシーズンでは、ディビジョンシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズとも出番はなかったが、カンザスシティ・ロイヤルズとのワールドシリーズでは、1試合に出場し、1打席、1打数、1安打、1打点、1得点を記録した。同年11月2日にFAとなった。2月28日、クリーブランド・インディアンスと1年400万ドルで契約を結んだ。開幕から三塁手のレギュラー格として起用されてきたが、8月1日にDFAとなり、5日に自由契約となった。パンチ力と広い守備範囲と強肩が魅力。ポジションは本職は遊撃手だが、近年は三塁手での出場が多い。他に二塁手・中堅手としてのプレー経験がある。
出典:wikipedia
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