日米関係(にちべいかんけい)では、日本国とアメリカ合衆国の二国間関係について述べる。日本とアメリカ合衆国はアメリカ合衆国の非常に強力な主導の下に政治的関係を築いている。北米から日本への間接的な交易は17世紀初頭の南蛮貿易の頃に始まった。しかし、日本と後にアメリカ合衆国となったヨーロッパの植民地との間には直接の接触はなく、交易は支配国であるスペインやポルトガルを介して行われた。ヌエバ・エスパーニャ(後のメキシコ)から出航した数隻のスペイン船は日本との接点を築き、クリストファーとコスマスのような日本人の船員は、スペインのガレオン船によって1587年にはアメリカ大陸にたどり着いていたことで知られている。1610年、田中勝介は20人の日本の使節団の一員として、ウィリアム・アダムスが建造し徳川家康により貸し出されたによるドン・ロドリゴの帰郷に同行し、後にアメリカによって併合された領域を含むヌエバ・エスパーニャへと渡った。翌1611年には田中勝介らとともにセバスティアン・ビスカイノが答礼使として日本を訪れ、現在のアメリカの州であるカリフォルニアと公式な関係を築くことを提案した。1613年、仙台藩がセバスティアン・ビスカイノの協力を得て建造したサン・ファン・バウティスタ号によってカリフォルニアのメンドシーノ岬にたどり着いた支倉常長ら慶長遣欧使節はヌエバ・エスパーニャ副王によって歓待され、1614年にアカプルコからメキシコシティを経て、ヌエバ・エスパーニャ大西洋岸のサン・フアン・デ・ウルアを出航しヨーロッパへと向かった。しかし、1650年に江戸幕府が鎖国令を施行し、日本におけるほとんどすべての海外貿易は終わりを迎えた。オランダ人と琉球人、朝鮮人、中国人のみが国内に入ることが許され、それも限られた人数のみだった。18世紀後半にアメリカが独立を成し遂げたとき、両国の間には何の交流もなかった。19世紀初頭を通じて、アメリカとヨーロッパ諸国は日本に対し外交政策を見直し、開国するよう軍事力で恫喝する事を試みた。1852年、ペリーは日本と通商条約について交渉するため、艦隊を率いてバージニア州ノーフォークを出発した。1853年7月8日、彼は黒い蒸気フリゲートであるミシシッピ、プリマス、サラトガ、サスケハナを江戸の近くにある浦賀に停泊させ、徳川幕府の代表と会った。彼らは鎖国令でオランダ人との制限貿易を許可していた長崎に行くことを勧めた。ペリーは出発を拒否し、もし拒否した場合、軍事力を行使することもちらつかせながら、ミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことを要求した。日本は数世紀にわたって近代技術を排斥しており、日本の軍事力ではペリーの艦隊に歯が立たなかった。これらの「黒船」はのちに日本において西洋の科学技術の脅威と植民地主義の象徴となった。日本政府はペリーの艦隊による砲撃を避けるためには来航を受け入れざるを得なかった。1853年7月14日、ペリーは久里浜(現在の横須賀近郊)に移り使節団に親書を渡し、彼の艦隊は中国に向かい出発した。ペリーは返答するために帰ってくることを約束した。※ 訳です1854年3月、今度はより多くの船とともにペリーは帰ってきた。ペリーは使節団がフィルモアの親書において要求していたことを事実上すべて満たす具体的な条約を用意していたことに気付いた。1854年3月31日、ペリーは神奈川条約に署名し、合意は天皇の代理人と交わされたと誤解していたが、日本を出発した。7年後、幕府はある使命を帯びさせ、アメリカへ向けて咸臨丸を送った。それは日本が西洋流の航海および造船技術を習得したことを世界に示すためだった。1860年1月19日、咸臨丸はサンフランシスコに向かい浦賀水道を出た。使節団の中には船長の勝海舟や中濱万次郎、福澤諭吉などが含まれていた。使節団はアメリカの船に乗りパナマを経由してワシントンに向かった。使節団の公的な目標は今までで初めての日本の大使をアメリカに送ることで、また両政府間で新しい修好通商条約を批准することにあった。使節団はまた、ペリーが結んだ条約の条項のうち、不平等であるものを修正しようとしたが、うまくいかなかった。最初の大使はタウンゼント・ハリスだった。二代目の大使はウィリアム・ヘンリー・スワードの政治的盟友で親しい友人であったロバート・H・プルインで、1862年から1865年まで務めた。彼は1842年から1852年までと1854年にオールバニ郡からニューヨーク州議会の議員に選出されたホイッグ党の党員であり、1850年から1854年まで州議会議長を務めた。当時国務長官であったスワードの個人的な求めにより、エイブラハム・リンカーン大統領は彼を日本担当の大使に任命し、彼はその職を1865年まで務め、その後ニューヨーク州へと戻った。日米関係が築かれたのはペリー提督が訪問した1852年から1854年からのことに過ぎない。プルインが成し遂げた最も優れた業績は、下関戦争後の交渉を上手くまとめたことだった。彼は将軍との取引で高い成功を収めたと考えられている。彼はまた、座礁した船に乗っていた日本人の船員を本国に送還することの合意にも署名した。1867年の明治維新の後、アメリカは日本の経済及び軍事の近代化の手助けをした。日本の新しい憲法は部分的にアメリカ合衆国憲法の影響を受けている。1912年、日本の人々は友好の証として、3020本の桜の木をアメリカに送った。アメリカ合衆国のファーストレディであったヘレン・ヘロン・タフト夫人()と当時駐米日本大使であった珍田捨巳伯爵の夫人は二本の桜の木をタイダルベイスンの北岸に植えた。これらの二本の木は今でも17番街の南端にあるジョン・ポール・ジョーンズ像の近くにある。労働者は残りの木をタイダルベイスンと東ポトマック公園の周辺に植えた。大恐慌前の1920年代はアメリカ経済にとって最盛期だった。満州事変をはじめとする中国における植民地化を目指した日本の軍事的野心は、同じく中国の経済的支配を狙う米国との間に緊張を増幅させた。アメリカは太平洋に強力な海軍を持っており、オランダとイギリスを含む植民地を持つヨーロッパの国々のいくつかと友好関係にあった(公式には同盟関係を結んではいなかったが)。アメリカ、オーストラリア、イギリスとオランダ亡命政府は禁輸を行い、日本製品をボイコットした。こうして日本は必要な物資を獲得のため軍事力に頼ることになった。真珠湾攻撃に至るまで、日本とアメリカの関係は数年に渡り悪化していた。これには西洋の列強諸国が日本に対して敵意を抱いていたという理由が含まれる。アメリカはこのことを理解しており、そのことが彼らの関係において問題を生起した。日本人は彼らが劣っていると見られていると信じていた。アメリカが日本の勢力拡張に反対し、外交による日本の要求が受け入れられなかったこともまた関係を緊張させた。「アメリカ人は彼らが我々よりも優れていると信じている。彼らがこのような意見を持ち続ける限り、我々は彼らと着実な関係を維持することはできない。アメリカ人は我々の要求に応じようとしない。これらの理由により、我々の関係は悪いままであり、改善することはないだろう」。Masakazu Nanbaによる訳 1938年3月5日。彼らの関係におけるこれらの状況がすべて真珠湾攻撃へとつながった。真珠湾攻撃は大衆の目には驚きをもって見られていたが、攻撃までの長年にわたる日米関係を分析していた者のなかには、両国間の対話において対決は起こりうると考える者もいた。日本はエネルギー不足に悩まされており、拡張は彼らが生存するために必要なエネルギー需要を確保する目的のみで行われたと思われていた。攻撃は太平洋における日米の利害において対立を最大限に高めただけだったと思われている。ワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約の下、アメリカ海軍と日本海軍が所有する軍艦の比率は10:7と定められていた。しかし、1934年の時点において、日本は軍縮政策を放棄し、際限のない軍拡政策へと舵を切った。東京の政府は太平洋における軍事力において、アメリカの艦隊と比較して劣っていることをよく分かっていた。彼らの軍事政策の軌道修正におけるより大きな重要な要素として、日本はアメリカに対する石油の依存から脱却し、新たな石油資源を確保する必要に迫られていた。1930年代を通じて、日本は石油消費量の90%を輸入に依存しており、その80%はアメリカからだった。さらに、この石油輸入の大部分は海軍をはじめとする軍事目的のためだった。アメリカは東京の中国、東インドおよび太平洋の島々への拡大主義政策に反対した。1940年7月26日、アメリカ政府は輸出規制法を通過させ、日本に対する石油、鉄鋼製品の輸出を削減した。このワシントンによる封じ込め政策は、これ以上の軍事的拡張に対してはさらなる制裁を課すとする日本への警告であると見られていた。しかし、東京はそれを日本の軍事的、経済的な強さに対する対抗するための封鎖であると受け取った。その時まで有効だった輸出法では、日本は約5400万バレルの石油を備蓄していた。アメリカは日本に対し満州の侵略からずっと後の1940年まで石油を輸出していた。制裁はあまりにも効果が弱く、初期の日本軍の拡大に歯止めをかけられるほど十分ではなかった。1940年までに、アメリカは日本市場における石油の輸出において60%にまでシェアを落としていた。ワシントンによるこれらの様々な行動は1941年7月に課された対日全面禁輸とは比較にならない。すべての石油の輸出が停止され、アメリカにおける日本の資産は凍結された。オランダ領東インドからわずかに450万バレルの石油が確保できただけとなった日本は、太平洋戦線での対米攻撃を決意することになった。真珠湾攻撃は制裁によってエネルギーを確保できなかったことが強く影響していた。1941年12月7日、日本はハワイ真珠湾のアメリカ海軍を攻撃した(真珠湾攻撃)。これに対し、アメリカは日本に宣戦を布告し、4年に渡るアメリカと日本の戦争が始まった(太平洋戦争勃発)。攻撃のすぐあと、ナチス・ドイツを含む日本の同盟国はアメリカに宣戦布告し、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。製品の生産により、飛び石作戦により、また日本の都市や日本が領有していた地域を無差別爆撃することにより(また2つの原子爆弾を使い一般市民を標的とする大虐殺を敢行し、日本と日ソ中立条約を締結していたソ連が正式に対日宣戦布告し中立条約を破棄して対日参戦したことにより)、アメリカとその同盟国は日本を降伏させ、こうして戦争は終わった。第二次世界大戦が終わり、日本はアメリカ、オーストラリア、インド、イギリス、フランスを始めとする連合国によって占領された。島国である日本が統一後に外国によって占領されたのは史上初めてのことであった。1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約の調印により連合国による占領は終わりを迎え、1952年4月28日、条約は発効し、日本は再び独立国家となった。第二次世界大戦後、連合国による占領期が終わった1952年4月、日本とアメリカの関係は当初、対等なものとみなされていた。日本国との平和条約に法的根拠を置くこの対等性は、占領後初期の日本がアメリカからの経済支援を必要としていたため(訳注:アメリカは占領政策を潤滑にするために1946年から食料輸出で現物支援をし、それに見合う金額は返済している。日本はアメリカからの食糧放出金額以上にアメリカに対して多額の占領経費を支払っていたが、その事実は占領下のアメリカによって報道を禁じられた。)、当初はほとんど名目的なものだった。日本にとってアメリカとの良好な国際収支が成し遂げられたのは1954年のことで、その要因は主にアメリカの日本に対する軍事的援助のためだった(訳注:アメリカ社会では、戦後日本の経済発展が在日米軍の存在によってもたらされたと信じられている)。日本の人々は第二次世界大戦の悲惨な結果によるアメリカへの依存は徐々に減少していると感じ、アメリカとの貿易は盛んになった。資源と技術を組織的に活かし、国の経済が回復し、自信を取り戻していった。このような状況により、アメリカの影響からの更なる独立を望むようになった。1950年代から1960年代にかけて、日本の本土と沖縄にあるうちの3分の2が沖縄に集中するアメリカの軍事基地に対する日本人のこのような感情は特に明らかになった。政府は軍事的庇護の必要性と、「現実に反して」アメリカからの離脱を主張する左翼の圧力とのバランスを取らなければならなかった。南西諸島と小笠原諸島の返還を求める願いは普遍的なものであると捉えられたため、1953年にはアメリカは奄美群島の施政権を日本に返還した。しかし、アメリカは講和条約第3条に規定された無期限のアメリカ軍政下に置かれていた沖縄の返還には応じなかった。1956年6月、国会で沖縄返還を求める議決が全会一致で採択され、返還運動は昂揚していた。1952年の安全保障条約の改定に関する二国間対話は1959年から始まり、1960年1月19日、ワシントンにて、新たに日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が調印された。2月5日、条約が批准のために国会に付託されたとき、日米関係の議題をめぐり激しい議論が行われ、条約に反対する左翼は総力を挙げてその国会通過を阻止しようとした。5月20日、条約はついに衆議院において承認された。日本社会党の議員らは、衆議院の下級の委員会を欠席し、自由民主党の議員が議会に入場するのを阻止しようとしたが、彼らは警察によって取り除かれた。学生による大規模なデモと暴動が起こり、労働組合もそれに続いた。これらの激しい運動はドワイト・D・アイゼンハワー大統領が予定していた日本訪問を妨害し、岸信介首相の辞任を早めたが、衆議院の承認から30日以内に参議院がこの問題について投票を行うことができなかったため、憲法の規定により6月19日に条約は自然成立した。条約の下、両国は日本国の施政の下にある領域内で武力攻撃された場合の相互の協力を確認した。(そのように理解されているが、しかしながら、日本は海外への派兵を禁止する憲法9条の定めにより、アメリカを防衛することはできなかった。特に、憲法は「陸海空軍」の保持を禁止している。 それはまた、日本の人々が「国際紛争を解決する手段として武力をもって脅したり、武力を用いること」をも禁じている。そのような状況の中で、日本人は彼らの「自衛」隊を送ることが平和維持活動が目的である場合でさえ難しいことを見出した。新しい条約の焦点は、南西諸島には及ばず、攻撃された場合、両国の政府が協議し、適切な行動をとることの確認に向けられた。条約は両国の政府が事前の協議を開始するまで、在日米軍は展開において大きな変更を行わないことにも触れている。1952年の条約とは異なり、新しい条約は10年の期限の後は、双方は1年前に予告すれば、破棄できることが定められた。条約には将来の国際的な開発の協力と経済協力の発展についての総合的な準備が含められた。両国は、講和条約の第3条の下でアメリカが約束した、戦争で獲得したすべての日本の領土を返還することを実行に移すため、緊密に作業を行った。1968年、アメリカは硫黄島を含む小笠原諸島を日本に返還した。1969年、沖縄返還問題と日本の安全保障をめぐるアメリカとのつながりは政党間の政治的なキャンペーンの焦点となった。1969年、佐藤栄作首相はワシントンを訪問し、状況はかなり改善された。佐藤首相とリチャード・ニクソン大統領は署名した共同声明の中で、1972年に沖縄が日本に返還されることでアメリカと合意したと発表した。18か月もの交渉の後、1971年6月、両国は1972年に沖縄を日本に返還する協定に署名した。日本の政府による安全保障条約の断固たる、また自発的な承認と沖縄返還問題の解決は、日米関係における2つの大きな政治問題が解決したことを意味した。しかし新たな問題が生じた。1971年7月、日本政府はニクソンの電撃的な中国訪問の発表に驚かされた。そのような外交政策における根幹的な変化について決断する前にアメリカから事前の相談がなかったことを多くの日本人は残念に思った。翌月、日本からアメリカへの輸出を妨げるため、事前の相談なく、アメリカが輸入品に10パーセントの課徴金を課したことに政府は再び驚かされた。1971年12月の日本円の切り上げという金融的な危機により、東京とワシントンの関係はさらに緊迫した。1971年のこれらの出来事は、政治、経済双方の分野において、緊張した出来事がなくはなく、基本的な関係は良好なままであったが、両国の関係が新しい段階に入り、変化し続ける世界情勢への調整の時期が始まったことを示した。両国間の政治的問題は本質的に安全保障に関連したものであり、アメリカは日本に対し自主防衛とこの地域の安全保障へのより大きな貢献を促した。経済の問題はかつてない規模に成長したアメリカとの貿易とアメリカが対日貿易赤字に陥ったことに起因する傾向にあった。1965年、日本はアメリカとの貿易で史上初めて黒字を記録した。1975年、アメリカはインドシナ半島から撤退した。ベトナム戦争の終結は東アジアの安全保障における日本の役割への疑問を意味し、その自主防衛への貢献は両国間の対話において中心課題となった。日本の防衛への努力に対するアメリカの不満は1975年、ジェームズ・R・シュレシンジャー国防長官が公然と日本を非難したことで表面化した。日本の政府は憲法上の制約と平和を望む強い世論により制限され、自衛隊のより早い増強を望む圧力に素早く反応することができなかった。1976年、1960年の安保条約の下で規定されていた二国間による安全保障協議委員会の枠組みの中で、日米は防衛協力に関する小委員会を公式に立ち上げた。この小委員会は、両国の軍事計画立案者が主導した日本有事の際の合同軍事行動に関する研究を基に、日米の防衛協力に関する新しい指針を作成した。経済の分野では、日本は製品のアメリカへの輸出を規制する市場秩序維持協定を結ぶことで合意することによって、政治的問題を生み出していた貿易摩擦を緩和しようとした。1977年、日本からアメリカへのカラーテレビの輸出を規制する市場秩序維持協定が署名され、以前問題となった繊維問題と同様に処理された。アメリカへの鉄鋼の輸出も削減された。しかし、日本による使用済み核燃料の再処理工場の開発に対するアメリカの制裁、牛肉やオレンジなど日本の農産物の輸入規制、資本の投資の自由化と日本国内における政府調達などでは議論が白熱し、問題は続いていた。安全保障条約を締結している国からの呼びかけにより、世界において、米国に代って負担を担う役割を果たすため、 日本は大平正芳首相が「平和を守るための総合安全保障と防衛の戦略」と呼んだ構想を発展させた。この政策の下、日本はアメリカと世界的な規模において緊密な関係を築くことを模索した。しかし一方的に日本の負担が目立っている。この政策は急進的なイラン人がテヘランで60人を人質にしてアメリカ大使館を占拠した事件が起きた1979年11月に試された。日本はこの行動が国際法違反であるとして非難した。同時に、伝えられるところによると、日本の商社と石油会社はアメリカがイランからの石油の輸入を禁止し、利用可能になったイランの石油を購入した。この行動は日本政府が石油の購入を許したのは「鈍感である」としてアメリカから激しい批判を浴びた。日本は謝罪し、他のアメリカの同盟国と協調してイランに対する制裁に参加することに合意した。その事件後、日本政府はアメリカが安定を維持し、繁栄を促進するために計画した国際的な政策を支援するため、より気を使うようになった。ソ連がアフガニスタンを侵略した1979年12月、日本がソ連に対して制裁を実行すると発表したことは迅速であり、また効果的だった。1981年、日本はアメリカの要求に応え、日本周辺のより広い海域における海上防衛の責任を受け入れ、在日米軍をより支援することを約束した。世界の問題に対処する日米の協力の新しい段階は、1982年後半の中曽根康弘首相の選出によって成し遂げられたと考えられている。ロナルド・レーガン政権の職員は彼らの2人の指導者が共有していた安全保障観と国際的展望に基づく個人的関係の発展のため、日本のカウンターパートナーとともに密接に作業を行った。中曽根はソビエトの脅威に対する日本の決断についてアメリカを安心させ、朝鮮半島情勢や東南アジアなどアジアの問題についてアメリカと緊密に政策の調整を行い、アメリカの中国に対する政策とも協力して作業を行った。日本の政府はアメリカ軍の日本や西太平洋地域への増派を歓迎し、自衛隊の着実な増強を続け、日本はソビエトの国際的な拡大主義の脅威に対してアメリカの側に確固として立ち続けた。1980年代後半、中曽根が首相の座を退いた後も、日本はこれらの地域におけるアメリカの政策と密接に協力し続けた。リクルート事件など政治的指導者の不祥事が起こったことは、新しく大統領に就任したジョージ・H・W・ブッシュがレーガンの時代と同様に日本の指導者と個人的に親密な関係を築くことを難しくさせた。日米の一方的関係が見られる具体例には、プラザ合意と、その後、アメリカが要求した思いやり予算の増額に対する日本の反応が挙げられる。為替の調整が行われたのは日本におけるアメリカの経費が急騰し、その相殺のためにアメリカが日本政府に一方的に要求し、日本が応じたためだった。もう一つの例は日本が西側諸国にとって戦略的に重要であると考えられていた国に対する海外援助のアメリカの要求に素早く反応したことである。1980年代、アメリカ政府はパキスタン、トルコ、エジプトやジャマイカなどへの日本の「戦略的な援助」に対し謝意を表した。1990年代、海部俊樹首相は東欧および中東諸国への支援を約束し、日本が米国に代わって援助金を出す様は米国の自動ATMと揶揄された。さらに援助した資金の債権放棄を繰り返し、自ら金融的影響力を放棄させられる様は敗戦国そのものといわれ続けた。一部の日本の企業家や外交官からの不満があったにもかかわらず、日本政府はアメリカの対中国および対インドシナ政策に対して基本的に合意し続けた。中国とインドシナの政府が条件を満たすまで大規模な援助を控えることについて、日米の利害は共通していると考えられていた。もちろん、日本の協力にも限りはあった。イラン・イラク戦争の間、ペルシャ湾のタンカーを護衛するというアメリカの決定に対する日本の反応は複雑な回顧の対象となった。日本は憲法上の理由により軍隊を派遣することができないことを指摘し、肯定的な意見を述べたアメリカ政府の関係者もいたが、代償としてペルシャ湾における航海システムの建設を支援し、在日米軍に対するさらなる支援とオマーン、ヨルダンに対する経済支援がなされた。 日本がペルシャ湾への掃海艇の派遣すら拒否したことは、アメリカの関係者の一部に日本の指導者は敏感な地域におけるアメリカとの協力に対して消極的なのだと受け止められた。1980年代、日米の亀裂が最もよく現れたのは、外国製品への市場開放を求めるアメリカの再三にわたる一方的要求に対し日本が抵抗したことである。その後はよくあるパターンが続いた。日本政府は国内の重要な有権者が市場の開放によって被害を蒙ることによって生じる政治的圧力に対し敏感になっていた。 一般的に、これらの有権者は2つのタイプを代表していた。本当の国際競争に直面した場合、勝ち残ることのできないほど非効率的であるか、「衰退しつつある」生産者、製造業者、輸送業者である。日本政府はそれらの産業において有望なものを、彼らが世界の市場において十分な競争力をつけるまで海外の競争相手から保護したいと考えていた。アメリカとの摩擦を避けつつ国内からの圧力をかわすため、日本政府は交渉を長引かせようとした。この戦術は産業構造の転換を図り、新しく強い産業を育てるまでの時間稼ぎだった。問題の諸相を扱う合意に至ったが、貿易や経済の問題について数年にわたり対話が引き延ばされていたことでは共通していた。そのような合意は時としてあいまいであり、日米間で解釈をめぐって摩擦を引き起こすこととなった。発展する相互依存は内外において著しい環境の変化をもたらし、そのことは1980年代後半の日米関係において危機の状態を作り出したと広く思われていた。アメリカ政府は関係の肯定的側面を引き続き強調したが、「新しい概念の枠組み」が必要であると通告した。 ウォール・ストリート・ジャーナルは一連の長期連載特集記事のなかで1980年代後半の関係の変容について批判し、1990年代に向けて日米が緊密に協力することが可能なのか、また適切なのかどうかを論じた。ワシントンに拠点を置く委員会が1990年に発表した21世紀の日米関係について大衆が支持する権威ある報告やメディアの意見は緊密な日米関係を保つことについて警鐘を鳴らしていた。それは危機の状態にあるといわれていた日米関係の構造の「猜疑心、非難と少なからぬ自己正当化」による「新たな正統性」を警告した。比肩すべき経済大国となった日本とアメリカの関係は、特に1980年代において、水面下で変化しつつあった。この変化は1980年代中盤から毎年400億ドルから480億ドル台で推移していたアメリカの対日貿易赤字をはるかに超える意味を含んでいた。1980年代初めから続くアメリカの貿易と財政の双子の赤字は、日本とアメリカの通貨の価値の再調整という一連の決断につながることになった。強くなった日本円は日本がより多くのアメリカ製品や米国債を購入することや、重要な対米投資を行うことを可能にした。1980年代終盤には、日本は世界の主要な債権国となっていた。増え続ける日本の対米投資、それはイギリスに次いで2番目に多いものだったが、は一部のアメリカの有権者にとって、不満のもとになっていた。それだけでなく、日本の産業は、アメリカの製造業のほうが未だ優勢ではあったが、ハイテク産業への投資のために経済力を行使するのによい位置を占めていると思われていた。多くの日本人とアメリカ人は、このような環境における個人や政府、民間の債務と低い貯蓄率がアメリカの競争力を阻害していると考えていた。1980年代終盤、東欧の社会主義陣営の崩壊とソビエトの指導者が大きな国内的な政治および経済の問題に没頭せざるを得なかったこと、またソビエトがアフガン侵略で他国を侵略する余裕がないため、日本侵攻の脅威が大幅に低減した状態は日本とアメリカ政府に長く続いてきたソビエトの脅威に対する安保関係を再評価させることになった。両国の関係者は安全保障関係が経済や他の問題よりも優先すべき関係の不可欠な要石であると強調する傾向にあった。日本とアメリカの関係者や評論家のなかには、アジアにおける強力なソビエトの軍事的プレゼンスが続くなかで、日米両国が共有する危機を強調し続ける者もいた。彼らはモスクワのヨーロッパの民主化に伴う復員および太平洋における日米と比較しての兵力削減まで日米安保を維持することを強調し、ワシントンと東京には軍事的な準備と警戒が必要であることを説いた。しかしながら、他の者は日米の密接な安全保障関係の利益がますます強調されていることを認めた。日米安保は東アジアにおいて潜在的に混乱を引き起こす勢力、特に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対する抑止力になっていると思われていた。皮肉なことに、アメリカの関係者のなかには、日米安保がアメリカの監視の下、日本の台頭や潜在的軍事力をチェックするのに役立ったと指摘する者もいた。1990年代の初め、日米関係は第二次大戦後のいかなる時よりも不確実なものになっていた。長く続く日米安保を維持し、ますます米国主導を強める日本とアメリカは、民主主義的な価値観を推し進め、世界における安定と開発に関する利害に基づいた強く多面的な関係を築くため、日本がほぼ一方的に米国の要求に協力した。2つの社会と経済はますます絡み合うように、日米関係は日本が米国の一方的要求を受け容れた事によって1970年代から1980年代の間にかけて改善した。1990年には、両国の国民総生産(GNP)の合計は世界の約3分の1に達した。日本はアメリカの輸出の11%(カナダを除く他のどの国よりも多い)を受け取り、アメリカは日本の輸出の約34%を購入した。1991年、日本はアメリカに対し1480億ドルの直接投資を行い、アメリカは日本に対し170億ドル以上を投資した。1000億ドルのアメリカ国債の一部は日本によって保有され、アメリカの財政赤字の多くを補った。経済的な交流は科学、技術、旅行などその他多岐にわたった。1980年代後半に傷ついた両国の関係は確かな発展を遂げた。それだけでなく、日本とアメリカの国民の大多数が両国の関係が死活的に重要であると信じていることを世論調査は明らかにし続けていた。1990年代初めの冷戦後の環境において、世界に影響を与える力の源として、軍事力と比較して経済力の重要性が増加した。この変化は日本やアメリカ、その他の大国の地位に影響を与えたと考えられていた。ソビエトの脅威の後退、日本の経済力の台頭、ますます増えるアメリカと日本の相互作用(とそれに付随して発生する論争)やその他の要素は、日本の世論においては特筆すべき変化はなかったにもかかわらず、アメリカの対日世論の変化を決断させた。アメリカにおけるこの変化は、警戒すべきはソ連の軍事的脅威なのかそれとも日本の経済的脅威なのかというより深刻な疑問の中に反映されていた。1989年と1990年に行われた一連の調査では、日本の挑戦がより深刻であると回答した者のほうが多かった。同様に、1990年初頭に行われた投票から得られた結果によれば、「かつての経済的な繁栄から滑り落ちた」アメリカ人の怒りを反映したアメリカの日本に対する態度に対して、ほとんどの日本人は否定的に捉えていると回答した。その一方で、日本の世論は、過去のように、アメリカと頻繁に相談することなく、自国の問題に対処する能力を持ち合わせているというさらなる自信を示していた。日本が抱いていたアメリカが世界の指導者であるという確信も弱くなった。両国において、日米関係を、新しくまたは「修正主義」的に捉える者が現れた。日本では一部の評論家がアメリカは弱く、日本に依存しており、世界経済における競争で勝つことはできないと主張した。彼らは日本はもっと独立した道をとるべきだと主張した。アメリカでは著名な評論家が、日本政府が管理することのできない、アメリカが封じ込める必要のある、忌々しい日本経済について警告した。それと同時に、両国において世論の変化を誇張することは簡単なことだった。日本人にとって未だにアメリカは最も親密な友人であり、彼らを外国の脅威から守る最も重要な守護者であり、彼らの最も重要な経済的なパートナー、また市場であり、与えるべきものを多く持ち、羨むべきものも多く持つライフスタイルの模範であった。それだけでなく、大多数のアメリカ人は日本のことを肯定的に捉えており、日本の様々な芸能を高く尊敬し、アメリカが日本の防衛に参加することを支持していた。冷戦が終わり、日米で政権交代が起こると、日本とアメリカとの関係は不確実性と摩擦の時代に突入した。1993年の暮れ、GATTのウルグアイ・ラウンドはよい結果に終わり、国内の穀物の生産を削減する代償として、一部のコメの輸入を許容した日本の決断は貿易問題のさらなる発展のための基礎となったが、二国間貿易において増え続けるアメリカの貿易赤字のため、ワシントンは東京に対してアメリカの製品を流通させるために市場を開放し、特定の目標を設定するべきだと要求した。15か月にわたり対話を続けた後、1994年10月1日、日本とアメリカはアメリカ製品を日本の3つの主要な市場を開放する協定を締結することで合意した。これらは日本の保険市場と通信と医療機器分野における政府調達だった。アメリカ製の自動車と自動車部品と自動車の製造で使われる板ガラスの分野では合意に至らなかった。1994年5月下旬、日米関係をすべての分野において危くしかねないと思われていた貿易摩擦に関するハイレベル対話が行われ、枠組み作りをできるだけ早く再開することで合意した。枠組み作りの対話自体は失敗に終わったが、高集積回路に使われるセラミックスの開発におけるハイテク技術の共同研究、機械の製造に使われる炭素繊維の合成、タンパク質の結晶のデータ収集、環境にやさしい施設を建設するハイテク技術の共同研究を開始することを両国は5月に明らかにした。関係の摩擦の主な原因であった貿易の問題は、日本に代わって中国がアメリカの経済の最大の脅威であると認識されるようになるのに伴い、薄れていった。一方、冷戦終了直後の安全保障関係は明確な脅威の欠如によって苦しんでいたが、ならずもの国家北朝鮮と中国の経済的、軍事的拡張が関係強化に口実を与えた。ジョージ・W・ブッシュ政権の外交政策はアメリカの国際関係の足かせになっていたが、自衛隊のイラク派遣とミサイル防衛の共同開発に見られたように、日本との安保関係はより強くなった。日本が「太平洋におけるイギリス」になりつつある、またはこの地域におけるアメリカの重要な安全保障関係にある国であるという指摘はしばしば国際的な学術における暗喩となっているが、これが真実であるという学術上の論争には議論の余地がある。2009年、日本の民主党は近年において合意に至った安全保障上の再編計画の変化を要求するという呼びかけとともに政権を奪取し、アメリカが一方的に合意の条件を突きつけたかを主張しながらどのようにして合意に至ったかについて公開したが、アメリカのロバート・ゲイツ国防長官はアメリカ議会はいかなる変化も望んでいないと語った。アメリカの関係者のなかには日本の民主党による政権運営はアメリカから離れ、より独立した方向へと外交政策における重大な変化をもたらすかもしれないと懸念する者もいる。2011年3月11日に発生した東日本大震災(東北地方太平洋沖地震とそれに伴う様々な災害)に対して、在日米軍が「トモダチ作戦 (Operation Tomodachi オペレーション・トモダチ)」という名で、災害救助・救援および復興支援を行った。また、2012年には、「日米桜寄贈100周年」を記念して、日米各地で様々な催しが行われた。アメリカは1990年の時点において日本の輸出の31.5%、輸入の22.3%、そして海外における直接投資の45.9%を占める最大の貿易相手国であった。 2004年の時点において、アメリカは日本の輸出の22.7%を受け取り、輸入の14%を供給した(現在は中国に追い抜かれて20.7%に減少している)。アメリカから日本への輸出には原材料と工業製品の双方が含まれる。1990年の時点におけるアメリカからの輸入農産物は(アメリカの輸出統計によると85億ドル)、牛肉(15億ドル)、魚介類(180万ドル)、穀物(24億ドル)、大豆(88億ドル)からなる。工業製品の輸入は主として個人製品よりも機械と輸送機器のカテゴリーに属するものである。輸送機器の分野では、日本はアメリカから33億ドルの航空機やその部品を輸入した(自動車やその部品はわずか18億ドルに過ぎない)。日本からアメリカへの輸出はほとんどすべて工業製品であった。1990年、自動車の輸出は215億ドルに上り、単一のカテゴリーとしては他を引き離して最大であり、日本からアメリカへの輸出全体の24%を占めた。さらに自動車部品の輸出は107億ドルに上った。他の主要なものはオフィス機器(コンピューターを含む)で、1990年は総額で86億ドル、通信機器(41億ドル)、機械(4億5100万ドル)が続いた。1960年代中盤から、貿易収支は日本の黒字が続いている。日本のデータによると、アメリカからの黒字は1970年に3億8000万ドルに成長し、1988年には480億ドル近くに上り、1990年にはやや下がっておよそ380億ドルであった。アメリカの貿易に関するデータ(両国は輸入の輸送コストを含めているが輸出はそうでないためわずかながら異なっている)もまた1980年代の不均衡を示しており、1980年の日本の黒字は100億ドルであったのが、1987年には600億ドルとなり、1990年は不均衡がやや是正されて377億ドルに改善された。1985年の円高後の貿易収支における一般的な悪化ととても控えめな改善は緊張した経済的関係に大きな影響を与えた。アメリカは1960年代の初頭から日本に対して市場を開放するよう圧力をかけていたが、1970年代と1980年代を通じてその圧力は激しさを増した。緊張は一般的な貿易の不均衡というよりは特定の産業における特定の問題で一層激しくなっていた。1950年代の繊維からはじまった日本のアメリカへの輸出はアメリカの産業界から反対の標的になった。これらの不満は一般的にダンピング(自国よりも低い価格で販売したり、生産にかかったコストよりも低い価格で販売すること)のような不公正な取引方法を用いたり特許の侵害したりしているとの疑いからきていた。交渉の結果、日本はしばしばアメリカへの輸出を「自主的に」抑制することに合意した。そのような合意は1970年代後半におけるカラーテレビや1980年代における自動車など数多くの製品に適用された。1970年代と1980年代を通じて、アメリカの政権はそのような日本との経済問題において、問題ごとに話し合う方法を好んだ。この方法は問題の部分的な解決しかもたらさなかった。しかし、その結果は否定的に大衆にひろがり、経済と安全保障の環境が変化していた時期にあって、両国に関係を再考させることになった。アメリカの議会とメディアが日本を批判するレトリックを用いた特筆すべき事例として、1987年に明らかになった東芝がアメリカが開発した洗練された機械を違法にソ連に輸出した事件、報道によればモスクワがアメリカ軍の哨戒を回避するのに十分な静かな潜水艦を作ることができたという、と1989年のアメリカ議会の議論によって日米が航空自衛隊の新しい戦闘機FSXを開発することで合意した件がある。1980年代、アメリカの企業が日本の市場に参入するためのいくつかの創造的なアプローチがあった。1985年の市場重視型個別協議方式による交渉は、関連する4つの産業、林業、医薬品と医療機器、電機、通信機器とサービスにおける参入問題を解決した。日本市場への参入問題は、1988年にアメリカにとって不公正な取引相手国を定め、これらの国々との交渉のために製品を特定する権利を認めた包括通商・競争力強化法が成立するきっかけになった。1989年の春、この法律によって日本は不公正な取引相手国であると名指しされ、3つの分野、林業、通信機器とスーパーコンピュータ、が交渉のため選ばれた。この行動は1980年代の終わりにおいて続いていた日本市場への参入への不満の雰囲気をよく表していた。それでもなお、日米の論争は日本にとって有利に解決した。同時に、アメリカは日本で製造された輸入品について抑制していた構造的な要素について幅広い対話を行う日米構造協議を主導した。これらの対話は日本の大規模小売店舗法の問題や独占禁止法の強化、非効率的な農業を改善するための地価税や不動産価格の高騰の問題などを解決した。日本はそれでもなお多くの権益においてさらなる経済活動を満足に行うことができた。1980年代の終わりまでに、日本は半導体産業において世界の生産と貿易で支配的な地位を確立していた。特に、彼らはDRAMの世界市場を支配するようになっていた。たとえば、日本は80年代の終わりには1メガビットDRAMの世界市場の90%、また半導体機器の48%を日本が占めていると思われていた。1960年には600万ドル、1980年には20億ドルの輸出だったが、1988年の貿易データによれば、日本は120億ドル以上の半導体機器(と真空管)を輸出し、劇的な増加を示していた。しかしながら、1988年における半導体の輸入は全体で22億ドルに過ぎなかった。日本の競争力の上昇と世界市場におけるアメリカ製品の市場占有率の低下は、不公正な取引を行っているという主張と相まって、半導体の問題は1980年代を通じてアメリカと日本の間で論争の議題となった。主張にはアメリカ市場においてダンピングが行われているという疑いと日本がアメリカ製品に対する作為的な輸入障壁を設けているというものが含まれていた。1986年の交渉によって日本のDRAM輸出価格とアメリカ製品の日本市場における市場占有率(その時点で10%であったのが1991年には20%にまで上昇した)をともに引き上げることで合意に至った。アメリカは日本が合意を誠意をもって実行しなかったことに不満を持ち、報復として日本のアメリカへの輸出品3億ドル相当に対して100%の関税をかけた。DRAMの輸出価格が制裁を部分的に解除させるほど上昇していた証拠はあったが、他の者は日本におけるアメリカ製品の市場占有率の上昇を承諾するまで制裁を続けるべきであるという意見を持ち続けた。この全体の話、特に日本においてアメリカ製の商品の市場占有率をどの程度受け入れることができるのかという疑問、はこの10年の終わりまで激しい論争の対象となり続けた。アメリカは日本の技術が優れたものであることを認め、日本がアメリカに対して優れており、日本はいまだにアメリカにおける価格競争力を維持することができたが、アメリカの日本への市場戦略は日本の国内企業のものほどうまくはなかった。1989年、新しい試みが加えられた。両国の貿易を制限していた国内の構造的な問題を扱うため、いわゆる日米構造協議と呼ばれる一連の対話が用意された。いくつかの他の対話を経て、1990年の4月と7月に日本の個人向け市場や土地の活用、公共事業への投資のような敏感な分野における主要な変化で合意に至った。アメリカは、財政赤字をもっと効果的に扱い、国内の貯蓄率を増やすことを誓約した。アメリカの支持者は日米構造協議が日米経済摩擦の基礎的な問題を解決した要因として見ている。懐疑論者はそれらが日米関係の重大な危機において、時間稼ぎやそれを回避する手段として用いられたと指摘している。1993年の夏、ビル・クリントン政権は日米関係を扱う枠組みとして日米構造協議を終わらせることを決断した。その他の国と同じように、アメリカに対する日本の直接投資は急速に拡大し、両国の関係において重要な新しい局面を迎えた。このような投資の累計は、1980年の時点で87億ドルに上っていた。1990年までに、それは831億ドルにまで成長した。アメリカのデータは日本がアメリカに対する直接投資において第2位であることを示していた。それはイギリスの投資の約半分であり、オランダやカナダ、西ドイツのそれよりも多かった。1980年代終盤のアメリカにおける日本の投資のほとんどは商業部門であり、アメリカに対する日本の輸出品の流通と販売の基盤に供給されていた。卸売と小売市場の流通部門は1990年の日本のアメリカに対する投資の32.2%を占め、製造部門は20.6%だった。1980年代には不動産に対する投資は一般的なものとなり、投資総額は1988年には152億ドルにまで増加し、アメリカへの直接投資全体の18.4%を占めた。1952年の安全保障条約はアメリカとの安全保障関係の基盤を提供した。1960年に条約は改定され、そのなかで両国は日本国の施政下におけるいずれか一方に対する武力攻撃が危険であることを認めた場合に抵抗する能力を維持し発展させると宣言した。合意された条約では在日米軍は日本での展開における大きな変更を行う場合や日本の防衛以外で軍事作戦を行う際に日本の基地を使用するためには日本政府と事前に協議しなければならないことが定められた。しかしながら、日本はその憲法によって海外における軍事活動への参加が禁止されているため、日本の領土以外でアメリカが攻撃された場合にもアメリカを防衛するいかなる義務も負うことはなかった。1990年、日本政府は国家の安全保障に寄与するため、調整を加えた条約を信頼し、それを継続する意向を示した。合意された条約の議事録によれば、改定された条約の第6条には彼らが使用できる施設と地域、また、それらの施設で従事する日本人の地位についての詳細についてとともに日本に駐留するアメリカ軍の地位に関する協定が含まれていた。また、アメリカの軍人が日本において罪を犯した場合の両国の管轄権の限界についても触れられた。旧安保条約の議事録によれば、条約には当時の日本が必要としていた国家の防衛に欠かせない資金や物資とサービスなどの軍事に関する援助の計画が含まれていた。1960年代までには日本はもはやアメリカからいかなる援助も受けていなかったが、両国は購入またはライセンスを受けた武器の互換性を確保し、国際的な諜報活動に関する報告書と秘密の技術情報を含む機密情報の提供のために協定は継続された。両国間の大きな懸案であった沖縄を含む南西諸島の問題は1972年にそれらが日本に返還されたことで解決し、新しい安保条約にはそれらの島々が含まれることが規定された。アメリカはこれらの島々に駐留する権利は保持し続けた。1990年、約3万人のアメリカ軍は沖縄本島の20%を未だに占めており、地元の人々との摩擦の原因になっていた。軍事的関係は1970年代中盤以降改善された。1960年、新しい安全保障条約のもと、両国の懸案となっている安全保障問題について協議と調整を行うため、両国の代表からなる安全保障協議委員会が用意された。1976年、その副委員会は日米の防衛協力に関する指針をまとめ、1978年、それは委員会によって承認され、その後国防会議と内閣もそれを承認した。指針は合同防衛計画において、それまで前例のなかった日本が武力攻撃された場合の反応と日本の安全保障に影響を与えうるアジア・太平洋地域における協力の状況をまとめた。指針の枠組みのもと、日本の統合幕僚会議と在日米軍司令官は両国の3軍を合同軍事演習を統括するための長期計画を策定した。1980年代には毎年陸上自衛隊は、アメリカ軍との合同演習において、各地域軍からなる演習を指揮した。海上自衛隊はアメリカ海軍との合同演習に1955年から参加していたが、1980年、日本のタスクフォースの艦隊と航空機がアメリカ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドの海軍との包括的な合同軍事演習である環太平洋合同演習(RIMPAC)に参加することが許可された。日本はまた、1988年のリムパックに8隻の護衛艦、1隻の潜水艦、8機の対潜哨戒機P-3C、1隻の補給艦を参加させた。航空自衛隊もまた、防空、戦闘、、救援と指揮所演習など数多くの演習をアメリカ空軍と行った。海上保安庁とアメリカ沿岸警備隊もまた合同演習を行っている。1992年には本州、九州と沖縄に展開する21300人の海兵隊員、10300人の空軍、5500人の海軍、2200人の陸軍を含む5万人以上の在日米軍が日本に駐留していた。これらの数字は1990年の水準と比較してかなり減少している傾向を示していた。安全保障の緊密な関係は日本とアメリカ双方にとって極めて重要であると思われていた。1994年3月、冷戦後の地域的、世界的な安全保障の問題について話し合うため、日本の外務大臣と防衛庁長官、アメリカの国務長官と国防長官の2プラス2による初めての会談が東京で行われた。両国はともに日米安保条約を全面的に支持した。さらにアメリカは日本に駐留するアメリカ軍に対する思いやり予算について日本に謝意を表し、また両国は1996年に期限を迎える思いやり予算の見直しの作業を開始することで合意した。現在、日米両国は安全保障面で日米安全保障条約を中心に軍事協力関係があり、安保以外の分野でも様々な協力を進め、同盟関係にある(日米同盟)。日米間で「同盟」の語が登場したのは、共同声明としては1981年5月の鈴木善幸首相とロナルド・レーガン大統領による日米首脳会談後に発表されたものが初めてである(この前にも、1979年5月に大平正芳首相が訪米した際、歓迎会の席上で「(アメリカは)かけがえのない友邦であり、同盟国」と述べている)。その後、「同盟」の語は徐々に使用されるようになり、1996年4月に発表された「日米安全保障共同宣言」でも同盟関係が確認され、2006年6月には小泉純一郎首相とジョージ・W・ブッシュ大統領が「21世紀の地球的規模での協力のための新しい日米同盟」を宣言した。2010年に日米安全保障条約が改訂50周年を迎えた際も、「日米同盟」が果たしてきた役割や意義の確認をし共同発表が出されている。2014年4月24日に行われた日米首脳会談では、日米同盟は日米のみならずアジア太平洋地域の安定を主導していくとし、共同記者会見でバラク・オバマ大統領が「日米の絆は軍事的な同盟に限るものではない」と表明している。2015年4月29日には安倍晋三首相がアメリカ議会上下両院合同会議の場で演説し、日米同盟を「希望の同盟」と呼ぶことを提唱した。2015年11月3日、中谷元防衛大臣とアシュトン・カーター国防長官が会談し、「同盟調整メカニズム」の運用開始が確認された。これにより、日米は自衛隊とアメリカ軍の間の調整が必要な政策について「平時」から協議を行うこととなった。
出典:wikipedia
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