内藤 繁春(ないとう しげはる、1931年1月12日 - 2013年8月12日)は、国営競馬、日本中央競馬会に所属した騎手、調教師。騎手時代は宝塚記念連覇などの実績を残し、調教師転身以降は1979年菊花賞優勝馬ハシハーミット、1991年有馬記念優勝馬ダイユウサクなど、数々の活躍馬を管理した。管理馬通算出走11201回は中央競馬の史上最多記録である。また、調教師として定年引退間際の2000年に騎手復帰を試みたことで話題を集めた。実兄・内藤博司は東海地方で飲食店をチェーン展開する株式会社だるまの創業者。同社会長で馬主の内藤耕造は甥である。1931年、愛知県碧海郡高浜町(現・高浜市)に生まれる。実家は名古屋コーチンを生産する養鶏場であった。太平洋戦争を経て、戦後は定時制高校に通いながら鉄工所、次いで瓦の製造会社に就職したが、工場内で排出される煤煙で肺を病み休職を余儀なくされ、高校も中退した。休養中、高校時代の友人と地方公営・岡崎競馬場を訪れたことをきっかけに騎手を志す。この希望は父親から猛反対を受けたが、兄・博司の取りなしにより許可を得、また博司の知人を通じて名古屋競馬場の騎手兼調教師・光岡直三郎を紹介された。光岡は内藤に対し規模の大きい国営競馬(後の日本中央競馬会)で騎手になることを勧め、京都競馬場の調教師・武田文吾を紹介。しかし武田は半年前に騎手見習いとして栗田勝を受け入れたばかりであり、この移籍話は流れた。その後改めて中山競馬場の鈴木信太郎厩舎を紹介され、1950年、騎手見習いとして鈴木厩舎に入った。当年、博司も名古屋市内に寿司店を開業している。1952年、騎手免許を取得し、正騎手としてデビューを迎える。しかし騎乗機会が極度に少ない時期が続き、1954年には小倉競馬場の千倉政雄厩舎へ移籍する。翌1955年2月に初勝利を挙げ、当年9勝を挙げた。しかし翌1956年2月、障害の競走中に騎乗馬が転倒し、下敷きとなった内藤は足首を骨折。8か月間の休養を余儀なくされた。復帰後は京都競馬場に移り、浅見国一の紹介で久保道雄厩舎に入る。このころより勝利数を増やし始め、1958年には請われて日迫清厩舎に移籍、同厩舎の主戦格に収まった。翌1959年3月、キヨスガタで大阪杯を制し、デビュー8年目で重賞初勝利を挙げる。年間通算では38勝を挙げ、騎手ランキングで関西3位(全国8位)に付けた。また当年、鈴木甚吉(武田文吾らの師匠)の次女と結婚している。1960年、義兄の鈴木和雄が管理馬不足により厩舎廃業の窮地に立たされ、立て直しを手伝うために鈴木厩舎へ移籍。さまざまな伝を頼って馬を集め、また寿司店を成功させていた博司にも馬主資格取得を頼み、所有馬を厩舎に預託させた。これらの取り組みが功を奏して厩舎は再度軌道に乗り、1965年には厩舎所属馬のハヤコマでタマツバキ記念(春)を制し、自身の重賞2勝目を挙げた。このころより他厩舎からの依頼が増えて成績が向上し、1966年にはエイトクラウンに騎乗して牝馬初の宝塚記念制覇を達成。翌1967年にはタイヨウで宝塚記念連覇を果たした。同年自己最高の53勝を挙げ、関西リーディング2位(全国4位)を記録。中京競馬場での活躍が目立ったことから、マスコミから「中京の小鬼」との異名も付された。しかし翌1968年、鈴木和雄が急死。厩舎の解散を防ぐため、内藤は騎手として充実期にありながら調教師への転身を余儀なくされた。騎手通算成績は2895戦307勝、うち重賞7勝。騎手引退の同年、京都競馬場の厩舎を引き継ぎ、調教師として開業。2年目には早くも51勝を挙げて全国8位に付けると、翌1970年にはクニノハナで京都牝馬特別を制し、重賞初勝利を挙げる。同馬はその次走で牝馬三冠の最終戦として創設されたビクトリアカップを制し、同競走の第1回優勝馬となった。その馬主は兄・博司であり、これが重賞に勝利した初めての所有馬となった。以後も関西の有力調教師として確固とした地位を築き、1979年の菊花賞では管理馬ハシハーミット、ハシクランツで1、2着を独占。騎手時代に勝てなかったクラシック制覇を果たした。1991年の有馬記念では、ダイユウサクが弟子の熊沢重文を背に15頭立ての14番人気で出走、単勝オッズ1.5倍と圧倒的な支持を受けていたメジロマックイーンを最後の直線で差しきり、日本レコードタイムでの優勝が話題を集めた。このとき、内藤は(勝った時の記念撮影に備え)きちんと正装して当日に現れ、ほかの関係者には「(正装して)どうしたんですか?」とさんざんからかわれていたが、レース後には皆黙ってしまったという逸話があり、勝つ自信があったことを裏付けている。一方、1996年のスプリンターズステークスではエイシンワシントンが僅か1センチメートル(内藤の著書によれば7ミリメートル)の差でフラワーパークに敗れ、GI競走史上まれに見る接戦としてJRAのCM内でも語られた。内藤の管理馬には地味な血統の安馬が目立ったことで知られた。これについて内藤自身は「私は何も地味な血統の馬が好きなわけではない」としながらも、良血の高額馬は馬主が大きく損をする可能性もあるため、「金銭的な負担を少なくして、競馬を楽しんでもらう。これが私の厩舎の方針だった」としている。息長く現役を続ける馬も数々おり、開業初年度に北海道で育成専門の優駿牧場(現・待兼牧場)を設置し、内藤自身の方針で若駒時代から強い体質を持つ馬の育成に当たった。調教師の石坂正は同場の従業員から内藤厩舎の厩務員となり、のちに独立している。調教師の70歳定年を翌年に控えた2000年10月、内藤は突如として日本中央競馬会の騎手免許試験受験を発表。要項には16歳未満の受験を認めない旨が明記されていたが、上限年齢については定められておらず、競馬会も「願書の受け取りを拒否する理由はない」として受験を容認した。69歳にしての騎手復帰への試みは、一面で報じるスポーツ紙も現れるなど、幅広い注目と応援を集めた。だが1次試験の学科に手こずり、走路試験、障害試験でも馬を止められなかったり指定されたコースを回れないなど、約30年ぶりの騎手再挑戦は厳しいものであった。試験終了後の記者会見では「手応えはあります」と合格に自信を覗かせたが、結果は不合格に終わった。翌年の受験にも意欲を見せていたが、試験後より視力の低下が進み、手術を行うも要項で定められた規定の視力を保つことができず断念した。のちに受験を回想し、「今にして思えば、70歳の『定年調教師』が無謀にも騎手を目指し、世間を騒がせて恥ずかしい限りだ。あえて言い訳をさせてもらうなら、私は死ぬまで馬の世界に身を置きたかった。馬とともに生き続けることだけが目標だった」と語っている。翌2001年2月28日を以て調教師を引退。通算成績は11201戦893勝。通算出走数は中央競馬史上最多記録。管理馬は湯窪幸雄、石坂正厩舎などに分散して引き継がれた。引退後は公営・園田競馬で馬主資格を取得している。2013年8月12日朝に死去。。※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
出典:wikipedia
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