三遊亭 圓好(さんゆうてい えんこう)は、落語家の名跡。現在までに7人の落語家が、享号違いで名乗っている。現在は空き名跡(詳細は後述)。過去には「三遊亭」だけではなく「橘家」の家号を使っていた者もいた。初代立花家圓蔵(橘家圓蔵)が2代目三遊亭圓生を襲名した関係で、当時「橘家」は三遊派の芸人におけるサブ的な家号となっていたため、戦前まで三遊派の芸人は「三遊亭」と「橘家」を名乗る芸人が混在しており、同じ名前でも襲名した時代によって上の名が変わる事例が見られた。この様な背景もあってか、ある書物に「三遊亭圓好」と書かれているのに、別の文献には同じ人物のことを「橘家圓好」と記されている例が見られる。このようなことは明治・大正時代には珍しいことではなく、中には橘家圓蔵を三遊亭圓蔵と書いた物まである。なお、1923年ころには柳派の一門に柳家圓好がいた(詳細は不明)ほか、上方では浪花落語反対派に属していた桂圓好がいる。4代目三遊亭 圓好(さんゆうてい えんこう、1881年(逆算) - 1906年12月9日)は、落語家。本名は中田音吉。3代目(後の柳家三好)の実の子。子供のころの明治20年代の末から4代目橘家圓喬の門下になり喬馬と名乗る。明治30年代半ばに圓好を襲名した。圓喬はかなり嘱望していたが期待にそぐわずに20代で夭折した。6代目橘家 圓好(たちばなや えんこう、1908年1月3日 - ?)は、落語家。本名は菊島春三郎。芝日蔭町の町大工の家に生まれ、小学校6年の時に両親に内緒で5代目三遊亭圓生に入門し神田立花で10日間の見習いをするも断念、1926年に再度5代目圓生に入門し若蔵を名乗る。翌年の1927年に圓生が睦会から三語楼協会に移籍。行動をともにし二つ目昇進。23歳の1930年ころに浪曲の2代目広沢虎造一座に属し広沢若蔵の名で浪曲まじりの落語をしていたが、2年ほどで落語家に復帰して1933年ころに圓好となる。第二次世界大戦中に廃業し、後に東京都庁職員となって広報を担当、定年まで勤めた。一般人となったため、1999年4月まで生存が確認されていたが、現在の消息は不詳である。7代目三遊亭 圓好(さんゆうてい えんこう、本名:甘粕 隆義(あまかす たかよし)、1948年10月25日 - 2007年10月11日ころ)は、神奈川県藤沢市出身の落語家。(一時期をのぞいて)落語協会所属。神奈川県立商工高等学校卒業。出囃子は『手習子』。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。