マイケル・ジャクソン裁判(マイケル・ジャクソンさいばん)とは2005年のマイケル・ジャクソンの児童性的虐待の疑惑で発生した裁判である。裁判の結果、全ての件に関し無罪となった。この事件は2003年2月3日、英国で放映された「Living with Michael jackson(邦題:マイケルジャクソンの真実)」英国人記者のマーティン・バシールによる8ヵ月密着取材放送でマイケルに寄り添うヒスパニック系の少年ギャヴィン・ヴェンチュラ=アルヴィーゾウ(Gavin Ventura-Arvizo, 1989年12月 - )が映っていたことに端を発した。この少年はもともとは癌であって腫瘍を除去する手術で腎臓と脾臓、副腎を失ったが、結果的に完治した少年であった。彼は、自分の中学校のクラスにおいてしばしば無作法にふるまったことを認め、そしてしばしば宿題をすることができなかった事を認めた。2000年に彼は癌と診断されていた。2000年以降、親が離婚するなど様々な困難にぶつかった。2005年2月までは、公式には法廷及びメディアによって「ジョン・ドウ」として報告された。ただし、それまでも彼のフルネームは、インターネットの至る所で既出であった。ギャヴィンが後に言うには、彼はそれが世界中で放送されるということを認識していなかったという。この放映の後、彼は友人によってからかわれていた。彼の母は自分の息子をフィルムに映す事をバシールに許可を与えていなかった、そして放映までそれに気づいていなかったと主張した。ドキュメンタリーにおいてはマコーレー・カルキンを含む多くの少年がジャクソンのベッドにおいて眠ったとされた。だが、この件に関しては犯罪ではなかったと考えられている。このことに関してマイケルは「子供たちが一緒に寝たがる。僕が部屋に招きいれたわけではなく、子供たちが今夜ここで寝てもいい?って聞いてくるんだ。僕は親の承諾があるならいいよって」「たくさんの子供たちとは寝たことはあるけど、一人の子供と同じベッドに寝たことはないよ。皆さんは“ベッド”って言うときすぐに性的なことを考えるけど、そうじゃない。子供たちをやさしくつつんであげて、音楽をかけて、お話を読んであげたりする。暖炉に火をつけて、温かいミルクをあげたり、クッキーをあげたり、子供にはとても楽しいことなんだ。」と述べる。このドキュメンタリーがイギリスで放映された後、フロリダに滞在していたジャクソンは、ギャヴィンの母にフロリダに来て息子に会うように要請した。想定上は記者会見のためであった。母は家族の全員が来るという条件を用意した。ジャクソンはそれに同意し、そして家族は自家用機でジャクソンの下に飛んだ。だが、記者会見は決して発生しなかった。この3日間の訪問の間に、問題のドキュメンタリーは米国で放映された。そのため家族は、ジャクソンが彼らにそれを見ないように圧力をかけたと主張した。ギャヴィンと彼の家族が帰宅したとき、ジャクソンは飛行機にいた。ジャクソンは、母に民間航空便を使うように要請していた。しかし母親はジャクソンが同じ飛行機にいると主張した。その家族は、ジャクソンがギャヴィンにアルコールを与えたと主張する。彼らがカリフォルニアに戻った後、その一家は2月7日~11日まで再びネバーランドに留まった。母親はこの最中監禁されていたと主張した。アメリカにおける放送を見た学校関係者を名乗った精神科医がこの件を通報した。通報した理由は「いい大人が子供と一緒に遊んでいるのはおかしいのではないか」というものであった。LA福祉局員はその意見を基に2月14日から27日まで少年と家族を聴取した。ところが、彼らは当初はジャクソンは犯罪を犯していないと述べており、むしろマイケルに対して好意的な証言が多かった。母親は、「息子はマイケルと同じ部屋で寝たがベッドを共にはせず、マイケルは床で寝ていた」と証言していた。これらの証言の記録ビデオは後にテープ818と言われた。この証言があったため、3月にはSB郡保安官らは「犯罪性なし」として捜査を打ち切った。ジャクソンにより、家族の保護のためということで、ブラジルへの家族の旅行が計画され準備をされた。これは、バシールのドキュメンタリーの結果である。これらの計画は、告発人の主張において役割を果たす。目撃者によれば、この旅行は家族に対して放映に関係した殺人の脅迫を示した。インタビューの後は、子供達はネバーランドに戻り、そして1日後に母も同様に来た。だが、母親によれば自分は実際には行くことを望んでいなかった。2月25日から3月にかけ、家族及びいくらかのジャクソンの側近は、カリフォルニアのホテルに滞在。そして、彼らは、ブラジルへの旅行の準備において買物をしに行った。それの後で、彼らは再びネバーランドに滞在した。3月10日に健康診断のために、母及び告訴人は、告訴人の尿サンプルのため病院に行った。これは、告訴人のアルコール検出を防止するためにジャクソンの部下によってこぼされたと主張される。その後、告訴人はネバーランドに戻った。一方、母は彼女の婚約者と滞在しに行った。その後、家族は心理学者スタン・カッツに送られた。なお、このスタン・カッツという人物はかつて悪名高いマクマーティン保育園裁判で児童の精神鑑定を行った「Children's Institute International」というロサンゼルスにある無認可の児童精神福祉施設の組織にいた人物の一人である。この事件では告発で多くの職員が大量起訴されたが全員無罪となるという事態が起こり、「悪魔崇拝者らの儀式的虐待が多く行われている」というデマを大衆に流し、その結果保育園などでの性的虐待の可能性に対する社会的恐怖を引き起こしてしまった事件としてしばしば話題にされる事件である。そしてその結果告訴人の弟はジャクソンと告訴人が性関係を持っているのを目撃したと彼に告げた。2003年6月には、サンタバーバラ郡保安官が調査を始めた。2003年7月に、彼らは最初に家族にインタビューを行う。2003年11月18日に、サンタバーバラ郡シェリフは70人を超える調査者を以って家宅捜索。同じ日に私立探偵事務所を強制捜索した。この数時間前に「Number Ones」がリリースされた。2003年11月20日、証拠不十分のまま、その少年に対する性的虐待等の容疑でジャクソンを逮捕した。マイケル・ジャクソンの警察写真は、2003年11月20日に映された。300万ドルで保釈された。この際のジャクソンの身長体重は178センチメートル(5'11")、56kg(120ポンド)。逮捕される前日の11月17日にカリフォルニア州知事が共和党のアーノルド・シュワルツェネッガーに変わったばかりであったため、一部ではジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領がイラク戦争に対する批判を逸らすため工作を行ったのではないかという噂も出る。その当の知事は同月声明を発表。「あの検察官(トム・スネドン)は10年前の借りを返したがっているように思えるね。検察は適切に動いているかどうかも疑問だ」とした。ジャクソンは12月25日、子供を傷つけるくらいならリストカットをすると述べた。また、2003年12月28日にCBSで放送されたインタビューの中で「警察から手荒な扱いを受けた」と公表したが、SB郡保安官事務所は「そのような事実はない。ジャクソン氏は自らの信用を著しく傷つけている」として、ビデオや録音テープを使って反論。しかしマイケルの弁護人マーク・ゲラゴス () や家族は映像がカットされすぎているとしてさらにこれに反論した。ジャクソンは、2004年1月16日、サンタマリアの法廷で尋問される。ジャクソンは、20分遅れて現れた。ジャクソンは無罪を主張。2004年2月13日、状況証拠のみながら検察官から400ページにわたる証拠文章が提出される。2004年4月21日、ジャクソンは起訴される。証拠は、2004年5月28日のヒアリングで審理された。弁護団のメンバーは当初何度か変わったが、トーマス・メゼロウが2004年4月に引き受ける事が決まった後は彼が中心となり最後まで裁判を引っ張っていく事になる。トーマス・メゼロウは刑事事件専門の弁護士であり、「マイケルの裁判に人種カードは使用しない」と明言し裁判に挑んだ。一方、日本ではマスコミの報道によりまるで「マイケルがもはや有罪である」という憶測が広がっていた。「読売新聞」は、裁判中は「アメリカの性犯罪情報公開の記事」と題しマイケルの写真を載せたこともあった。また、「NHK」の視聴者参加型の2時間洋楽専門番組では、マイケルのNo.1ヒットには投票できないようにされていた。2004年7月28日に、裁判官メルビルは裁判の遅延を与えた。2004年12月3日、ネバーランドで再捜索された。その月に、ジャクソンのDNAは採取された。だが証拠は見つからず、検察側は捜査令状を発行し続け、令状の数は120を突破した。状況証拠の一つとして、「異性愛の」ポルノ雑誌に指紋がついているというものがあった。だが、マイケルの指紋がついているのが100の雑誌中12であったのに対し、少年の指紋がついているのはそのうち1つの雑誌であり、また、同一のページではなかった(54ページと93ページ)。そして、その証拠は家宅捜索から1年以上経って提出されたものであった。後に指紋を取り違えていたことも明らかとなった。カリフォルニア州は懲役を単純に足していく「併科主義」のため、ジャクソンが有罪になった場合、最大で懲役80年以上の判決が出る可能性もあった。現地時間2005年1月31日初公判は行われた。検察側の主張では、「マイケルジャクソンの真実」が放映された後に、ジャクソン被告がパニックを起こして少年達を誘拐したとされた。自家用ジェット機により誘拐されたと主張したが、弁護側は有名人の知人達と会うため等に買ったものと述べた。70人を動員して行った家宅捜索ではポルノ雑誌等が発見されたのだが、違法なものは出てこなかった。検察は、ジャクソン被告が1年に1100万~1200万ドルを稼いでいる間に、1999年から2001年まで1年に3500万ドルを使っており、そしてその結果破産の瀬戸際に臨んでいると主張した。検察側は、その行為の具体的な様子や、少年ポルノ雑誌やウェブサイトを見せ、少年にアルコールを与え、自分のことを「ダディ」と呼ばせていたといった主張をした。1993年・2003年の性的虐待の裁判を担当したトム・スネドン検事について、マイケルは1995年発表の「HIStory」の「D.S.」でスネドン検事の事を批判している。スネドン検事は「絶対の自信」を持っていると主張していた。探偵事務所への不法な家宅捜査を行ったとして弁護側に質問された時には「イエスともノーとも答えられない」と発言した。裁判中にはオーストラリアに行っていた。本人は調査のためと語った。日本のマスメディアには、マイケルに続きスネドン検事も批判された。裁判ではマイケル側の主張が証明される証拠が多く挙げられた。検察側の証拠は状況証拠だけであり、信憑性が薄かった。法廷において母親には感情的な行動が多く見られ、その反抗的な態度も問題となった。「ジャクソン被告とその部下に誘拐された」との証言について問われた時「無理矢理閉じ込められたと感じたか」と言われたとき母親は「そうは思わなかった。けど、後で思った」と証言した。また、「強要されたと感じたか」と2回追及された際には、「どういうことですか?」としか言わない母親に対し弁護団は「強要がどういう意味だか分かりますか?」と言ったところ「分かりません!」と言うこともあった。マイク・ラダコビッチの証言により母親は「ジャクソンの監禁下にあった」と主張している間に、ジャクソンの会計で7000ドルを浪費していた事実が明るみとなり、さらに「JCペニー」からの示談金32308ドルが母親の口座に、25000ドルが少年、5000ドルが弟に振り込まれていたことが明らかとなる。オーストラリアの「Undercover」誌によると母親は年間8万ドルの福祉金詐取を行っていたとも報じられていた。また、2005年4月15日には、「誘拐され監禁されていた」と証言していたネバーランドからの「脱出日」であるとされる2003年2月11日に、140$(レシートが存在していた)で全身のワックスを塗っていた事が議論となる。これに対し母親は「全身のワックスを塗ったのではなく足のワックスを塗った」と反論した。だが、5月16日にキャロル・マッコイの目撃証言によりそれが全身のワックスであった事が確認された。少年は番組放映後にマイケルは何もしていないと警察に証言していた。番組放映後の警察などの厳重な監視下にあったはずの期間に虐待されたと少年は法廷で主張していた。しかし、その後も少年は教師に対してマイケルには何もされていないと答えていた事が発覚。ギャヴィンはこれに対し嘲られると思ったためと回答した。少年の弟も自らの証言の偽証を認めざるを得なかった。弟は兄がマイケルに性的行為をされたところを見たと述べたが、当然鳴るはずの警報装置は鳴らなかったのかと言われ、弟は鳴ったと言った。このとき弟は「ではなぜマイケルは気づかなかったのか」と問われ答えに窮した。ギャヴィンの話が「少量のアルコールを飲まされた事がある」から「毎日飲みつぶれるまでアルコールを飲まされた」に飛躍したため、ジャクソン被告の弁護人メゼロウは激しく非難。また、マイケルが少年と家族をネバーランドに長期滞在させ、少年の癌治療の為に、治療費及び生活費の無償提供、少年に必要な輸血血液確保の為のキャンペーンを行った事などには一切触れず「マイケルは何もしてくれなかった。他の有名人はもっと色んな物を買ってくれた。」などとも証言した。少年の証言は変わり続けその回数は裁判後でも10度以上に上った。少年は検事スネドンの質問にさえまともに答えようとしない事もあった。ギャヴィンと弟は裸のジャクソン被告を見たと両方が証言したが、その内容は異なっていた。弟は裸のジャクソン被告がペニスを勃起させていたと証言していたが、ギャヴィンはそれに対しては単にバスルームから上下に上り下りしていたと証言した。ギャヴィンはトーマス・メゼロウが「マイケル・ジャクソンの裸を見ましたか?」と聞かれた際には「思い出せません」と答えた時もある。彼は両親に虐待されたという訴えもしていた。ギャヴィンはジャクソン被告の身体的特徴を証言した。だが、その証言は1993年と同じであった。なお、ジャクソン被告は十年も経っているため身体的特徴は同じではない。兄弟は非行での退学歴を有しており、少年はヤフーのポルノサイトにも出入りしていた。ジャクソン被告の甥や姪が証言した事には、彼らはワインを盗み、ジャクソン被告の不在時にポルノムービーを見て、自慰をしていたという。過去の事件(1993年)に関し次々と証人は呼ばれたが信憑性が疑われた。その大前提は、それならばなぜ検察は当時何もしなかったのかということである。ウェイド・ロブソン、ブレッド・バーンズなどマイケルと仲の良かった元少年達はマイケルの無実を訴えた。ジョーディ・チャンドラー(1993年の原告少年)など、いくらかの少年は国を離れ証言を拒んだ。マイケルの二番目の妻、デビー・ロウはデビー・ロウ・ジャクソンと名乗り検察側の証人として出廷。検察は彼女に「裏切られたマイケル・ジャクソン」がシナリオによるものであり信憑性がないという証言を期待したがロウははっきりとシナリオはないと証言した。マイケルの為に弁護士を同席させ、無償で9時間にも及ぶインタビューに答えた。インタビューは心躍る体験で楽しかった。また自分を今もマイケルの家族と言ったのは嘘であり出演したのはマイケルと新たな関係を作りたかったからだと証言しながらも、検察側に協力しマイケルの側近たちに電話をし、それを録音する等した事実も認めた。マイケルは時に感情を高ぶらせて証言するデビーを見ることも無く、終始無関心だった。「ホーム・アローン」(1990年)の主演で知られるマイケルの親友マコーレー・カルキンが、ジャクソン被告にズボンに手を入れられ、いたずらをされるのを見たという元調理師がいた。2005年5月にマコーレーが呼ばれ否定した。カルキンは「同じベッドに寝ただけだ。性的な事は一切ない」と証言している。彼は検察を「完全に馬鹿げている(absolutely ridiculous)」と述べた。なお、カルキン一家はマコーレーがあまりに売れすぎたため家庭崩壊してしまっており、その精神的苦痛からマコーレーは現在は薬物中毒の話もある状態になっている。当時、マイケルは「ネバーランドに住まないか」とも提案したが、家族が「何を言うの!」と拒んでいた。彼は弁護側に協力し弁護側証人として出廷し、検察側反対尋問への受け応えは完璧と言われた。検察側はこの後、整形しているかとかウィッグを付けてるかとかいうことを質問した。マイケルの証言能力についてというのが一応の前提であるが、全く関係ない事を聞いていた。さらに「マイケルジャクソンの真実」の未放映部分Take2も弁護側によって公開された。ここでは問題のインタビュアー、バシールまでもがマイケルの事を褒め称えていた。このようなことが明らかになるにつれ米メディアは5月に一斉に「マイケル無罪の公算が大きい」と報道しだした。少年の母親は過去にも別の人間に対しても同じような訴えを起こしており、その犯行パターンがプロファイルされていた。訴えた少年の母親は、子供の癌を理由にテレビ司会者のジェイ・レノやコメディアンのジョージ・ロペスなどの有名人に接触し、治療費として貰った金で高級車を買い、全身エステに通っていた。ジェイ・レノによるマイケルの揶揄で有名で、普段はマイケルの事を笑いものにしている。3月7日月曜日放送の番組では、「マイケル・ジャクソンとマーサ・スチュワートの電話での会話『マイケルは白人の女性が牢獄ではどんな風に生活しているのか知りたがっていた』」というギャグを述べていた。しかし5月24日に出廷し、最終的には金銭を要求されることはなかったものの、「5年前(2000年)に少年の家族に付きまとわれそうになっていた時期があった」と証言し、メディアから「爆弾(Bombs)」と報道された。また、家族はクリス・タッカーに接触し1万4千ドルのトラックを買い与えられていた。その経験のあるクリスは『あの家族は危険だから気をつけろ』と忠告をしていた。だが、マイケルは彼らを物心両面でサポートし続けていた。このクリス・タッカーの5月25日の証言をメディアは「非常に強力な証言(very strong testimony)」と報道した。最終的に少年達に酒を飲ませたという罪に問えるかが争われた。裁判終盤にはジャクソンは病院通いが続く。2005年2月15日には郡地裁で、陪審員を選任する手続きが行われようとしていたがマイケルが入院し延期。2005年3月10日には、背中の痛みで病院で手当て中で裁判に出廷しなかった際、裁判長は逮捕状を用意し、1時間以内に出廷しなければ逮捕状を執行し、300万ドルの保釈金も没収すると宣言するという事もあった。そのためマイケルは背中の痛みをおしてパジャマ姿で出廷した。体重がもともとは56キロであったものが40キロまで落ちたという話もあり、父ジョーの支えがなければ歩けない様子も報道された。映像では髪はぼさぼさで足取りもふらふらとしていた。判決直前は背中の痛みを訴え病院に通い、6月7日には集中治療室に入った。顔はみるみるうちにやつれていく。判決直前には連日、早朝から約2000人の取材陣と約100人のファンが地裁前に集まり「イノセント(無罪)!」の大コールが飛び交っていた。マイケルに有罪評決が下った場合、ファンが暴徒化する可能性もあったため、警察官約700人をすぐに展開できるように準備もしていた。人種差別の問題などと関連し過熱を極め、アメリカも裁判の様子を連日放送し、人々の間では「マイケルは無実だ。幼児性愛者でもなんでもない」「ある程度はそうかも知れないが有罪にするほどのことはやっていない」「マイケルは検察側の言うとおり変態だ。支持する奴も変人だ」など様々な意見が出され、さらには派生して同性愛者や少年愛者の問題が取りざたされる事になる始末になり、世界中の人たちを大混乱に陥れる大騒動となっていたこの裁判の結末を全世界が注目した。陪審員12人の人種構成は白人が7人、ヒスパニック系4人、アジア系1人と、マイケルが黒人である事と、訴えた一家がヒスパニック系であることを考えても、圧倒的にマイケルは不利な状態であった。陪審員の中でも、12名のうち2名ほどが、何があっても有罪に投票するための「ステルス陪審員」だという観測が多くあった。陪審団は243の資格者から選択された。4人の男性及び8人の女性に関し、20~79歳までの年齢において選ばれた。アフリカンアメリカの陪審員は存在していなかった。このような状況下で陪審団判決審議は7日間に及んだ。最終的に陪審団の投票は一度での無記名投票で行われ、全員一致で評決が出された。2005年6月13日12時30分過ぎに急に法廷関係者の動きが慌しくなり、メデイアコーディネイターを務める法廷関係者男性が「“グリーンモンスター”(通常のメデイアへの会見の場であるテントの通称)に集まれ!」と大声で指示を出した。傍聴できないファンは、法廷入り口近くに集まった。地元の住民もTVの速報を聞き多数の群集が集まった。マイケルのSUVの動向を空からTV中継しているヘリコプターは上空で待機した。法廷入り口前のミラー通りは白バイに乗った10人近くの警官により強制的に閉鎖された。2時00分に陪審団が入廷する。この際、陪審団の中の幾人かが被告に微笑みかける。このため、有罪の場合は被告を一切無視して見ない傾向が強いという今までの通例を知るファン達は、一瞬心が凍るような思いをした。最後に裁判長メルビルが入廷し「判決に際し、感情的に不適切な言動を行った者は法廷より即強制退去させる。ここは法の場であり、全ては法の威厳を持って対処される」と警告を発する。メルビルは陪審団から手渡された10件の容疑に対する判決が記入されている10枚の封筒を一枚ごとに封を切る。現地時間2005年6月13日午後2時15分、児童誘拐・監禁・恐喝を犯すための陰謀容疑1件、児童に対する猥褻行為容疑4件、児童に対する猥褻行為を試みようとした容疑1件、重罪を犯すことを援助するために酒を飲ませた容疑4件に関し、女性秘書は判決を読み上げ始める。最後に裁判長メルビルは、マイケルに視線を向け「ジャクソン氏。あなたは保釈から解放され、自由の身となりました」と告げた。結果、この裁判は全ての容疑に対して無罪が言い渡されるという形で幕を下ろした。トーマス・メゼロウは「真実はもたらされた。マイケルは無罪だった。初めからそうだった。(Justice was served. Michael Jackson is innocent.)」と勝利宣言を出した。マイケルが群集の前に姿を表すと、凄まじい歓声がわきあがり、たくさんの白い風船が空に放たれた。その後、二人の有罪評決派がCNNの「ラリー・キング・ライブ」に出演。この番組では「多分(性的虐待を)している」、「何もなかったとは思えない」という話が出たが、これらは有罪派であったと言われる人たちの話である。このうちの一人の男性陪審員は無罪に同意して無罪判決を出したのにもかかわらず、裁判後あれは脅されて同意したのだと主張した人物である。しかし他の陪審員はこのことを否定している。さらに彼は、暴露本を出すと言い出したが、本の内容が『ヴァニティ・フェア』誌に掲載されると、利用された精神的苦痛を理由に2005年9月に会社を訴えている。。。それは、。現実にはそのような事実は一般に認められない。シカゴ陪審制研究プロジェクトの調査結果によると、255の陪審裁判のうち、最初の無記名投票で陪審が全員一致で有罪としたのが約2割、無罪は約1割である。また、同調査では最初の投票における多数意見が最終評決の95%である事も判明しており、判決は全員一致が原則とはいえ多数決の原理をほぼ満たしているのである。トム・スネドンは不本意であっても一回も陪審に異議を唱えた事はない。ジャクソンの子供好きに性的な意味合いがあるかとも問われたが、母親によればマイケルが10代の頃、夜中にテレビで世界各地の恵まれない子供たちの映像を見た際、目に涙を浮かべ「いつか僕はこの問題に立ち向かう」と話したという。これについて、検察側のスタン・カッツ医師(1993年と2003年の嫌疑を担当)は「ジャクソン氏は幼児性愛者でも何でもない」と言った。、。裁判中、検察側の証人として出廷したネバーランドの元従業員でマイケルの寝室を担当していた人物は勤務中にマイケルの私物を盗み、高額で販売し、タブロイドと契約し多額の報酬を得てもいた事も露見した。またある元従業員は人員の配置に不満を持ち、自ら退職したのも関らず、精神的苦痛を受けたとして損害賠償を求める裁判を起している。マイケルは自宅ネバーランドにおいても、犯罪被害に遭い、尚且つプライバシーを保つ事が困難で有った。複数のネバーランドの元従業員が検察側証人として出廷したが、殆どの元従業員が直接マイケルと会った事が無く、20年間勤務していた元従業員ですら、マイケルと直接会ったり、話した事が無かったにも関らず、マイケルに対して何かしらの訴えを起している事など明らかとなった。裁判を通じてマイケルの資産を不当に搾取しようとしている人物の多さが露見し、マスコミにも知られていたがマイケルが受けている被害を報道するマスコミは皆無で有った。なお、無罪判決の翌日ジャクソンの弁護士メゼロウはAP通信の取材に応じ「冤罪を着せられる可能性があるため、マイケルは子供達と寝室を共にする事はなくなるだろう」と述べた。8月23日当局は母親を福祉詐欺で起訴、経済状態を偽って1万9000ドルの生活保護手当をだまし取ったとして、詐欺罪に問う。マイケルの裁判で母親が無一文と主張している期間に、15万ドルを受け取っていた証拠が出てきていた。この裁判は2005年10月28日に公開ヒアリングが行われ、彼女は自らにかけられたこの疑惑に対し無罪を主張したが、2006年11月13日に福祉詐欺で有罪判決が下った。判決により、8600ドル(約100万円)以上の支払い及び150時間の地域奉仕活動が母親に命じられた。また、2003年11月にラスベガスからの飛行中のジャクソンおよび彼の代理人のゲラゴス間の会話を録音した事についてもマイケル側は告訴した。2006年7月25日、録音者は刑務所8か月の刑を宣告された。彼は航空会社XtraJetに保守サービスで勤めていて飛行に2つのデジタルビデオレコーダーを取付けることを行った。刑務所の8か月と同様、$1000の罰金、薬剤およびアルコールのためのリハビリテーションの6か月を過ごすように命令された。さらに、弁護士マーク・ゲラゴス側からもこの件は2007年1月23日に訴えられた。
出典:wikipedia
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