同交会(どうこうかい)は、衆議院にかつて存在した院内会派。代表者はいずれも鳩山一郎。1926年1月15日 - 2月12日に存在した会派。1924年の立憲政友会分裂の際に鳩山一郎は床次竹二郎の政友本党結成に参加するが、護憲三派の崩壊後、床次が政友会を孤立させるために敵対関係にあった憲政党との連合に動いたことを鳩山は強く非難した。1925年12月29日に政友本党を離党して、翌年1月15日に鳩山を代表として離党者26名で結成された。1ヶ月後の2月12日に1名を除いて立憲政友会に復党した。1941年11月10日 - 1942年5月14日に存在した会派。東條内閣に協力的な翼賛議員同盟に対して不満を抱いた鳩山一郎が、同じ志を持つ議員とともに議会政治の復活を目指して会派結成を画策。まず1941年8月2日に国勢調査会を結成し、国勢調査会を母体として同年11月10日に鳩山を会の代表として離脱者37名で結成した。しかし、同交会所属議員で翌年の第21回衆議院議員総選挙(通称:翼賛選挙)に出馬した者は全員翼賛政治体制協議会の非推薦候補だったため政府によって徹底的に妨害を受け、当選者はわずか9名に終わり、選挙後の5月14日に新たに発足した翼賛政治会へと強制的に吸収統合される形で解散した。同交会は解散後親睦団体の後楽会に衣替えし、さらに思斉会と改名した。37名中33名は反軍演説による斎藤隆夫除名に反対または棄権(欠席)している。戦後、そのメンバーの多数が日本自由党結成時に創設メンバーとして名前を連ねている。また、片山、芦田、鳩山の3人は戦後首相に、林、大野、星島の3人は戦後衆議院議長になっている。 下図の名前欄の*は戦後、公職追放を受けた議員。原口と宮脇は退役軍人、川崎は元陸軍参与官、牧山は元海軍政務官、安藤が大政翼賛会総務、北が国家主義的雑誌の編集人であったことが理由とされる。また、斎藤除名投票の「不在」とは病気・旅行による投票不参加。戦後の議席で「死亡」は1946年4月の戦後第1回の総選挙の時点で死亡した者。また「落選」は戦後の国政選挙に立候補したが落選したため国政に復帰できなかった者。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。