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神通 (軽巡洋艦)

神通(じんつう)は、大日本帝国海軍(日本海軍)の軽巡洋艦(二等巡洋艦)。5500トン型軽巡洋艦・川内型軽巡洋艦の2番艦。その艦名は、岐阜県と富山県を流れる神通川に因んで命名された。大正時代の日本海軍は、7000トン以上の巡洋艦を「一等巡洋艦」、7000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と類別していた(大日本帝国海軍艦艇類別変遷)。1921年(大正10年)3月19日、建造予定の軽巡洋艦(二等巡洋艦)4隻に、それぞれ加古・那珂・川内・神通の艦名が与えられる。6月9日、4隻(加古、那珂、川内、神通)は二等巡洋艦として艦艇類別等級別表に登録された。1922年(大正11年)3月17日、軽巡「加古」(佐世保海軍工廠)の建造は中止された。軍艦「神通」は1922年(大正11年)8月4日に神戸川崎造船所で起工。同年10月9日、加古の艦名を一等巡洋艦に流用する事が決まり、「加古」は一等巡洋艦類別と共に二等巡洋艦から抹消された。2隻(神通、加古)は共に神戸造船所で建造されることになった。1923年(大正12年)11月下旬、進水台の付近で汽船が沈没し、「神通」の進水は延期された。翌月12月8日、本艦は進水。1925年(大正14年)4月10日、神戸造船所で建造中の古鷹型重巡洋艦「加古」が進水式を迎え、式典には神通艤装員も参加した。同年7月31日、本艦んは竣工、就役した。一般に軽巡洋艦は、戦時・平時を問わず様々な役割を求められる。その中に、来るべき艦隊決戦に於いては水雷戦隊の旗艦として先頭に立ち、敵軽快艦艇の排除を行って味方駆逐艦の雷撃を援護することも含まれていた。「神通」は水雷戦隊の旗艦としてこの任をよく果たした。1927年(昭和2年)8月24日、島根県美保関沖で行われた第八回基本演習(夜間無灯火演習)において、第五戦隊(司令官清河純一中将:第1小隊《加古、古鷹》、第2小隊《神通、那珂》)および第二水雷戦隊(旗艦夕張、第22駆逐隊、第26駆逐隊、第27駆逐隊、第29駆逐隊、第30駆逐隊《駆逐艦20隻》)は乙軍を編制し、夜間雷撃訓練を実施する。この時、本来第一水雷戦隊(龍田)に所属する第26駆逐隊・第27駆逐隊(駆逐艦8隻)は第二水雷戦隊に臨時編入され、乙軍として行動することになった。「那珂」には観戦武官として伏見宮博義王が乗艦している。対する甲軍は、加藤寛治連合艦隊司令長官率いる第一艦隊の戦艦(長門、陸奥、伊勢、日向)、第二艦隊(司令長官吉川安平中将:戦艦《金剛、比叡)等と軽巡4隻(鬼怒、阿武隈、龍田、由良)で編制されていた。午後11時過ぎ、第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は戦艦部隊を仮想敵(甲軍)にみたてて接近中、戦艦伊勢・日向・第六戦隊(由良、龍田)等から照射を受けた。特に「龍田」の探照燈に捉えられた「神通」は攻撃の機会を失ったと判定され、「那珂」と共に右へ旋回する。すると第五戦隊第2小隊(神通、那珂)は後続していた第1小隊(加古、古鷹)および第26駆逐隊、第27駆逐隊(司令倉田弘保中佐:菱、蕨、葦、菫)の一群に突っ込んだ。「神通」と第27駆逐隊2番艦「蕨」が衝突、ボイラーを粉砕された同艦は爆発を起こし真っ二つに分断されて沈没した。それを避けようとして左に転舵した「那珂」は第27駆逐隊3番艦「葦」と衝突、「那珂」は艦首を、「葦」は艦尾を大破する。現場に居合わせた各艦(加古、古鷹、伊勢、鬼怒、阿武隈、由良、龍田)等は協力して沈没艦と損傷艦の救援に従事した。陸奥艦載機や能登呂・鳳翔艦載機も捜索に従事した。蕨は92名、葦は27名の殉職者を出した。その後、自力航行可能だった「那珂」は2隻(戦艦《比叡》、重巡《古鷹》)に護衛されて舞鶴へ向かった。「神通」は戦艦「金剛」に曳航され、「加古」の護衛下で同港へ向かった。「葦」は「阿武隈」に曳航され同港へ向かった。当時の舞鶴工作部は吹雪型駆逐艦複数隻(第35号駆逐艦《吹雪》、第37号駆逐艦《初雪》)の建造に追われており、その中で最初に「那珂」を修理した。次に「神通」を修理する事になったが、その際に姉妹艦「那珂」に準じた改正が施された。スプーンバウから凌波性に優れたダブルカーブドバウへの変更であり、神通(及び那珂)の外見上の特徴となっている。艦首改正に関して神通は応急修理を施したうえで呉に回航され、翌年3月まで修理に従事した。12月26日、事故当時の神通艦長水城圭次大佐は軍法会議の判決が下される前日に自宅で自決した。これを美保関事件と称する。1931年(昭和6年)10月に鬼怒での実験を終えた呉式二号二型射出機(試作機)が神通の滑走台に移設され、後部に制式射出機が装備されるまでの間、射出実験が継続された。1933年(昭和8年)から翌年にかけて司令部設備の拡充、射出機・揚収デリックの装備などの近代化改装を受けた。6月5日、神通副長は辻栄作中佐から大西新蔵中佐に交代(当時、第二水雷戦隊司令官井上継松少将)。8月25日の横浜沖観艦式に参加後、翌日に横須賀入港。9月11日、「神通」は樺型駆逐艦「松」(廃駆逐艦)を曳航して館山湾外に出動し、第7駆逐隊による砲撃演習を実施、「松」は沈没した。ところが神通艦内で赤痢が蔓延、9月15日には第二水雷戦隊司令部が駆逐艦に移乗する。他艦との交通禁止、当時乗組員約500名中、入院患者262名という事態になった。10月4日、第二水雷戦隊司令部は「神通」に移乗。10月10日、横須賀を出発して呉に向かった。1941年(昭和16年)には後部魚雷発射管を四連装2基に換装する工事を行い、九三式酸素魚雷の発射能力を得た。前部発射管は撤去され、廃止されたウェルデッキは兵員室に充てられている。神通のこの魚雷発射管換装工事を否定する説もあるが、神通を旗艦とする水雷戦隊への兵装補給記録において九三式酸素魚雷のみが補給されていることから、換装工事が行われていることが確認できる。1941年9月12日内示の『昭和17年度帝国海軍戦時編制』における第二水雷戦隊は、旗艦「神通」以下第15駆逐隊(親潮、黒潮、夏潮、早潮)、第16駆逐隊(初風、雪風、天津風、時津風)、第17駆逐隊(浦風、磯風、浜風、谷風)、第18駆逐隊(霞、霰、陽炎、不知火)という編制で、朝潮型2隻(霞、霰)以外は陽炎型駆逐艦で統一される予定であった。しかし第二水雷戦隊は第8駆逐隊(第四水雷戦隊へ転出予定)と第17駆逐隊(第一水雷戦隊より編入予定)を入れ替える前に真珠湾攻撃を迎えた。1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は引き続き「神通」に座乗。第四航空戦隊の空母龍驤がダバオ空襲を行う際、二水戦3隻(神通、天津風、初風)は飛行機収容線を形成して同艦航空隊を支援している。以後、メナド攻略部隊の旗艦として、蘭印方面に行動した。開戦時の第二水雷戦隊は第8駆逐隊(大潮《司令艦》、朝潮、満潮、荒潮)、第16駆逐隊(雪風《司令艦》、時津風、天津風、初風)、第18駆逐隊(不知火《司令艦》、霞、陽炎、霰)で構成されていたが、第8駆逐隊(第18駆逐隊)は南方部隊本隊(南雲機動部隊)指揮下に行動して神通達とは別行動だった。だが2月8日、麾下の第15駆逐隊より駆逐艦夏潮がアメリカ潜水艦の雷撃により沈没してしまう。1942年2月27日、神通以下第二水雷戦隊はスラバヤ沖海戦に参加、酸素魚雷の早爆や遠距離発射命中率の低さという問題も露見したが連合軍艦隊相手に勝利をおさめた。4月10日、戦時編制の改編により、第8駆逐隊(朝潮、満潮、大潮、荒潮)は第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:旗艦那珂/夏雲/由良)に編入され、神通麾下を離れた。4月18日、日本はアメリカ軍機動部隊(空母ホーネット、エンタープライズ)及び艦載機(陸軍航空隊B-25)によるドーリットル空襲を受けた。この時、第二水雷戦隊指揮下駆逐隊は南雲機動部隊や南方部隊に組み込まれて各方面で活動しており、「神通」は単艦で呉に停泊し整備待機を続けていた。本艦は4月19日午前中に桂島泊地を出撃、20日には前進部隊本隊(指揮官近藤信竹中将:旗艦愛宕)に編入された。さらに三宅島及び八丈島東方海域に進出しアメリカ軍機動部隊を捜索したが会敵せず、22日夕刻呉に戻った。6月上旬のミッドウェー作戦における第二水雷戦隊は、一木清直大佐率いる陸軍一木支隊及び太田実海軍少将率いる海軍陸戦隊を載せた輸送船団の護衛を担当した。6月13日、二水戦(神通、初風、雪風、天津風、時津風)はトラックを発ち、21日横須賀へ帰投した。7月上旬、水上機母艦千代田・あるぜんちな丸の護衛として第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)指揮下のもと北方へ進出した第18駆逐隊は、7月5日キスカ島の沖合で米潜水艦グロウラーの襲撃を受け霰沈没、霞・不知火大破航行不能という大損害を被った。長期修理を余儀なくされた第18駆駆逐隊は第五艦隊所属(翌月8月15日附で解隊)、「陽炎」は第15駆逐隊(親潮、黒潮、早潮)に編入されて同隊4番艦となった。7月14日、第16駆逐隊(第1小隊《雪風、時津風》、第2小隊《初風、天津風》)は第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦長良)に編入され、神通指揮下を離れた。そのかわりに同日附をもって 白露型駆逐艦3隻で構成された第24駆逐隊(第1小隊《海風、江風》、第2小隊《涼風》、〔山風6月23日沈没〕)が第二水雷戦隊に編入される。1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いが始まる。第二水雷戦隊旗艦「神通」は、第15駆逐隊・第24駆逐隊計7隻の駆逐艦を率いており、横須賀で整備改修工事を受けていた。8月5日には木更津沖にて天津風・初風・江風・涼風等と停泊していたが、アメリカ軍襲来の急報により木更津から横須賀へ戻った。その後出撃準備を行い、8月11日横須賀出港、15日にトラック泊地着。「神通」は外南洋部隊増援部隊旗艦となり、陸軍一木部隊と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊(海軍陸戦隊)をガダルカナル島へ輸送する任務をまかされた。だが第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、早潮)は前進部隊本隊(指揮官近藤信竹中将:旗艦愛宕)に編入され、「神通」とは別行動をとった。8月16日、同月13日より外南洋増援部隊指揮官(二水戦司令官田中頼三少将)指揮下にあった陽炎型駆逐艦6隻(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第15駆逐隊《陽炎》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風》)は第4駆逐隊司令有賀幸作大佐の指揮下でトラック泊地を出動。8月18日深夜、陸兵900名の揚陸に成功し、第17駆逐隊はラビの戦いに参加するためラバウルに向かった。この後、陽炎型3隻(嵐、萩風、陽炎)はアメリカ軍水雷艇部隊を撃退したのち、空襲により「萩風」が被弾し「嵐」に護衛されてトラック泊地へ避退する。「陽炎」は単艦でガダルカナル島海域の警戒を行う。2日後、「江風」と任務を交代。江風は22日にアメリカ軍駆逐艦2隻と交戦し駆逐艦1隻(ブルー)を撃沈した。駆逐艦隊がガダルカナル島海域で行動する中、増援部隊旗艦神通以下護衛部隊(神通、哨戒艇1号、哨戒艇2号、哨戒艇34号、哨戒艇35号、第24駆逐隊)及び輸送船団(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)は8月16-17日トラック泊地を出港、海上で合同しガ島へ向かう。しかし米軍機動部隊の出現、ガダルカナル島米軍ヘンダーソン飛行場の存在により日本側制空権掌握の見通しが立たないことから、輸送船団はガダルカナル島北方海域で北上と南下を繰返していた。8月21日、燃料不足に陥った哨戒艇4隻を分離。8月24日夜の一木師団揚陸は見送られ、25日夜に延期される。このような状況下、8月24日朝より輸送船団はアメリカ軍飛行艇の接触を受けることになる。正午すぎに第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡2隻(青葉、古鷹)と遭遇。「敵味方飛行機約20機交戦中」「船団ハ一時西方ニ避退スルヲ可ト認ム」という信号を受信した。また重巡衣笠と駆逐艦夕凪も輸送船団南西80浬に位置していた。「神通」からは東方海面に空母らしきものが炎上している光景が見られた。これは第三艦隊主力より分離して行動中、米空母サラトガ艦載機の攻撃で沈没しつつある空母龍驤と護衛部隊(利根、天津風、時津風)であった。これらの状況から田中司令官は反転避退を決定。南雲機動部隊(翔鶴、瑞鶴)より「敵エセックス型空母1隻戦艦1隻大火災、空母1隻火災」(実際は空母エンタープライズの中破のみ)という戦果報告が入る。輸送船団は下令により再び南下してガダルカナル島へ向かうが、同島ヘンダーソン飛行場の勢力が健在である限り、低速の輸送船団の運命は明らかであった。田中司令官は神通より宇垣纏連合艦隊参謀長を含む各上級部隊司令部に「低速輸送船ヲ以テスル増援ハ成功ノ算尠キモノト認ム」と意見具申を行った。翌8月25日には第八艦隊司令部も田中司令官の判断を追認し、各方面に輸送船団の上空掩護を要請している。8月24日深夜、第30駆逐隊(司令安武史郎大佐:睦月、弥生)及び駆逐艦3隻(江風、陽炎、磯風)はガダルカナル島ルンガ泊地に突入、ヘンダーソン飛行場を砲撃した。この安武司令指揮下の夜襲部隊は夜間のうちに北上し、5時40分を以て神通以下輸送部隊と合流する。命令伝達後、2隻(神通、陽炎)を率いて船団から離れようとしていた。空襲直前、哨戒艇1号・2号・34号・35号は神通左前方7kmにあって輸送船ぼすとん丸→大福丸→金龍丸の輸送船3隻単縦陣を護衛し、神通右前方(左前方)3kmに海風(凉風)が航行しており、神通左舷と凉風右舷の間を、駆逐艦5隻(睦月、江風、磯風、陽炎、弥生)の単縦陣が追い抜くように通過していた。最も「神通」に接近していたのは「磯風」(第17駆逐隊)で、神通左舷600mであった。この状態で航行中の6時4-5分、ガ島ヘンダーソン飛行場を発進したアメリカ軍急降下爆撃機SBDドーントレス8機が雲間より出現、来襲機を味方機と誤認していた「神通」は奇襲を受けた。神通の第1主砲・第2主砲の間に爆弾が命中、第一兵員室で炸裂し火災が発生、前部弾薬庫に注水する。さらに船団への空襲は続いた。輸送船「金龍丸」は被弾して大爆発を起こし、乗組員と便乗者を弥生と哨戒艇に移したのち、「睦月」によって雷撃処分される。その「睦月」もB-17爆撃機3機の空襲で被弾、9時40分に沈没した。通信機能の一部を喪失した「神通」は駆逐艦2隻(陽炎、凉風)に護衛され、輸送船団から離れるように16ノットでアメリカ軍機行動圏外に避退を開始する。火災も鎮火したため田中司令官は「陽炎」に移乗、2隻(神通、涼風)のみトラック泊地に向かわせた。また沈没艦2隻(睦月、金龍丸)の生存者を救助した3隻(弥生、哨戒艇1号、2号)も船団を離脱してラバウルに向かった。26日、第二水雷戦隊旗艦となった「陽炎」は燃料不足の「海風」と共に先行してショートランド泊地へ向かい、残された「磯風」が船団の指揮を執って同泊地へ向かった。8月28日午前8時、「神通」はトラック泊地に到着し応急修理を開始する。一方、ショートランド泊地にて田中頼三少将は二水戦旗艦を「陽炎」から重巡「衣笠」に変更した。8月31日午前8時、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将:旗艦川内、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第17駆逐隊《浦風、谷風》)がショートランド泊地に到着。これをもって田中司令官は増援部隊の任務を解かれ、橋本司令官がその任を引き継いだ。同日、田中司令官は「衣笠」より駆逐艦「夕霧」(第20駆逐隊)に移乗し、ショートランドよりトラック泊地へ向かった。9月2日午後、「夕霧」のトラック泊地到着後、田中司令官は「神通」に二水戦旗艦を戻した。9日、二水戦旗艦は「神通」から陽炎型駆逐艦5番艦「早潮」(第15駆逐隊)に変更された。引き続きトラック泊地で待機する「神通」に対し、9月25日附で長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」が第二水雷戦隊に編入され、「神通」は呉鎮守府部隊に所属変更となった。翌日、二水戦旗艦は「五十鈴」に変更された。10月8日、「神通」は日本本土に戻る。呉鎮守府(司令長官豊田副武大将)の指揮下にあって、サボ島沖海戦で大破した重巡青葉などと共に修理整備作業に従事した。12月29日、田中頼三少将は第二水雷戦隊司令官を更迭され、後任として小柳冨次少将が着任、駆逐艦「長波」に将旗を掲げた。結局、第二次ソロモン海戦による損傷以降、「神通」が参加した海戦は本艦が沈没するコロンバンガラ島沖海戦のみだった。1943年(昭和18年)1月16日、「五十鈴」は第二水雷戦隊から第十六戦隊に編入された。同日附で「神通」は呉鎮守府部隊から第二水雷戦隊に編入された。この間、二水戦旗艦は五十鈴(ヘンダーソン基地艦砲射撃時)、駆逐艦早霜(1942年11月12日第三次ソロモン海戦時)、長波(同年11月30日ルンガ沖夜戦時旗艦)、照月(ドラム缶輸送中同年12月12日沈没)、黒潮(第六次ガ島輸送作戦時一時将旗掲揚)などが歴任していた。1月18日、「神通」は呉を出撃。大和型戦艦2番艦「武蔵」、第二水雷戦隊「神通」、第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)、駆逐艦5隻(第10駆逐隊《夕雲、秋雲、巻雲、風雲》、第16駆逐隊《雪風》)という編制だった。1月23日、トラック泊地に到着。同日、小柳司令官(旗艦長波)は退隊し、一時神通艦長の藤田俊造大佐が二水戦司令官職務を代理した。30日、伊崎俊二少将が第二水雷戦隊司令官として着任、旗艦を「神通」に指定している。1月31日、ガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦支援のため、「神通」は前進部隊警戒隊(阿賀野、長良、朝雲、五月雨、陽炎、大波、時雨、敷波、涼風、初雪、嵐)を率いて出撃、前進部隊本隊(旗艦:愛宕、高雄、妙高、羽黒、金剛、榛名)・航空部隊(隼鷹、瑞鳳等)と合流し外洋に出た。神通・朝雲・五月雨・陽炎・大波・時雨・敷波が本隊護衛、「涼風」が補給部隊、阿賀野以下が航空部隊の護衛という区分だった。ただしガダルカナル島の北方約700海里グリニッチ島の東方海域に行動していた為、アメリカ軍と交戦することはなかった。2月3日、駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)は外南洋部隊に編入されてショートランド泊地に向かった。2月9日、神通以下警戒部隊はトラック泊地帰投。それからの「神通」はコロンバンガラ島沖海戦に参加するまで、ルオット島輸送以外はトラック泊地で待機を続けた。3月中、「神通」はトラック泊地で待機。4月、トラック泊地で待機。5月、トラック泊地で待機。5月8日、コロンバンガラ島輸送任務に従事していた麾下第15駆逐隊の3隻(親潮、黒潮、陽炎)が触雷して一挙に沈没。6月、ようやく「神通」に出動が命じられた。第二航空戦隊の隼鷹・飛鷹航空隊がマーシャル諸島地上基地に進出するにあたり、第四水雷戦隊(長良、時雨)等と手分けしての基地要員輸送任務を命じられたのである。2隻(軽巡《神通》、駆逐艦《江風》)の任務は、ルオット島(ロイ=ナムル島)への基地要員(314名)と軍需物資揚陸であった。14日、二水戦(神通、江風)はトラックを出港し、16日14時ルオット島に着いた。同島への補給の困難な点・食糧事情を考慮した伊崎二水戦司令官は、両艦の糧食を2週間分残すと、残りを現地基地要員のために降ろしてしまった。17日朝に同地出発、19日夕刻トラック着。ガダルカナル島から日本軍を撤退させたアメリカ軍は小休止状態にあったが、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー指揮の下、3月にカートホイール作戦を立案して作戦準備を行っていた。アメリカ軍の次の目標はニュージョージア島のムンダ飛行場であった。まず6月30日にレンドバ島を上陸占領、重砲陣地を築きムンダ一帯を射程に収めた。日本軍はコロンバンガラ島に戦力を集めて態勢を整え、しかる後レンドバ島のアメリカ軍に対し逆上陸を行う事を企図する。そのため駆逐艦による鼠輸送を実施するが、米艦隊に迎撃されて7月5-6日のクラ湾夜戦が生起。海戦には勝利したものの、新鋭秋月型駆逐艦5番艦「新月」及び睦月型駆逐艦8番艦「長月」が沈没、新月沈没時に第三水雷戦隊司令官秋山輝男少将以下第三水雷戦隊司令部全滅という代償を支払った。そこで重巡鳥海艦長有賀幸作大佐が暫定的に増援部隊の指揮をとった。同時に三水戦司令官後任として伊集院松治大佐(当時戦艦金剛艦長)が任命され、7月10日に着任すると旗艦を川内型1番艦「川内」に定めた。しかし準備が整うまでの間、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将:旗艦神通・駆逐艦清波)、および第七戦隊(司令官西村祥治少将:熊野、鈴谷)を南東方面部隊に編入させ、コロンバンガラ島への輸送作戦従事を命じた。なお「神通」と共に出撃した駆逐艦複数隻(雪風、浜風、三日月)等は一時的に伊崎司令官の指揮下に入っただけで、第二水雷戦隊所属艦ではない。二水戦所属(神通麾下)の駆逐艦は「清波」のみであり、他の二水戦麾下艦は損傷して修理中か別方面の作戦に投入されていた。1943年(昭和18年)7月11日、ラバウルには川内・三日月・夕凪・鳥海・雪風・浜風・谷風・夕暮が所在し、戦力は整いつつあった。12日3時30分、神通以下コロンバンガラ島警戒隊(清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)・輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)はラバウルを出撃、ブカ島を経てクラ湾に接近する。13日、警戒隊旗艦の神通はコロンバンガラ島沖海戦に参加、警戒隊は三日月-神通-雪風-浜風-清波-夕暮という単縦陣であった。対する米艦隊は、ウォルデン・L・エインズワース少将を指揮官とする巡洋艦3隻・駆逐艦10隻で、日本艦隊より優勢である。戦闘序盤、神通は探照灯照射を実施したため米艦隊の目標となった。アメリカ軍の軽巡洋艦2隻ホノルル("USS Honolulu, CL-48")、セントルイス("USS St. Louis, CL-49")、ニュージーランド軍の軽巡洋艦リアンダー("HMNZS Leander") からの砲撃、雷撃が集中して炎上。艦橋への直撃弾で伊崎司令官や佐藤艦長は戦死、指揮官不在と艦尾への被弾で操舵不能となった。アメリカ軍からは「溶鉱炉のように燃え続けた」と観察されながらも、神通は14㎝砲で反撃を続けた。最終的にアメリカ軍駆逐艦の発射した魚雷が右舷後部に命中、大爆発を起こした艦体は中央部分で前後に分断され、神通は沈没した。神通艦長佐藤寅治郎大佐および第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将を含む482名のほとんどが戦死した。一方、日本艦隊が23時13-16分に発射した酸素魚雷はリアンダーを大破させ、0000時に各艦(雪風、浜風、清波、夕暮)が発射した魚雷はセントルイス、ホノルル、グウィンに命中して大破させた(グウィンは処分)。また警戒隊がアメリカ軍の眼をひきつけたため、本来の任務であるコロンバンガラ島輸送作戦は成功した。チェスター・ニミッツ(当時太平洋艦隊司令長官)は米艦隊(エインズワース少将)の問題として『レーダーに映ったもっとも大きな目標(クラ湾夜戦では新月、本海戦では神通)への攻撃に偏った』、『敵艦隊(二水戦)に近寄り過ぎた上に射撃開始の時機を逸し、ために雷撃のチャンスを敵に与えた』事を指摘している。戦闘後、輸送を終えた第22駆逐隊(皐月、水無月)は反転して神通遭難現場に向かうが生存者を発見できず、7時35分に救助を打ち切って帰投した。基地航空隊も神通生存者を捜索したが発見できず、また出撃した艦爆6・零戦32機も撤退する米艦隊を発見することが出来なかった。伊号第一八〇潜水艦は21名の神通乗組員を救助した他、数名がアメリカ軍に救助された。この後、外南洋部隊は西村祥治少将指揮下の第七戦隊(熊野、鈴谷)と第三水雷戦隊を基幹とする夜戦部隊を編制したが、7月18-20日に駆逐艦3隻(夕暮、清波、初雪)を喪失、損傷艦多数(熊野、水無月、夕凪、松風、望月)を出し、急速に消耗していった。同年9月10日、「神通」は川内型巡洋艦、帝国軍艦籍からそれぞれ除籍された。三水戦旗艦「新月」や水上機母艦「日進」も本艦と同日附で除籍されている。第三水雷戦隊司令部に続き、第二水雷戦隊司令部の全滅は日本軍に衝撃を与えた。そこで消耗していた第四水雷戦隊(司令官高間完少将)を解隊し、同隊司令官・司令部構成員・戦力をそのまま第二水雷戦隊司令部に転用した。第二水雷戦隊に編入された旧四水戦戦力は以下の通り。旗艦長良・第27駆逐隊(司令原為一大佐 司令艦/時雨、白露、有明、夕暮)及び五月雨である。7月20日、第二水雷戦隊旗艦は神通より長良へと変更された。だが長良の二水戦旗艦任務は暫定的なものであった。阿賀野型軽巡洋艦2番艦「能代」の実戦配備に伴い、「長良」は8月9日にトラック泊地を出発、内地へ帰投した。「能代」は8月15日をもって第二水雷戦隊旗艦を継承した。12月15日、高間少将の後任として早川幹夫少将が二水戦司令官に着任。しかし第二水雷戦隊が敵主力艦隊に向けて魚雷を発射する機会は訪れず、輸送船団護衛任務やアメリカ軍機動部隊との対空戦闘で戦力を消耗していった。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦に於いて「能代」が沈没。旗艦は島風型駆逐艦「島風」に継承されるも11月中旬の多号作戦で「島風」は沈没、同艦沈没時に早川二水戦司令官が戦死した。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に任命され、を引き継ぎ、駆逐艦霞を旗艦として礼号作戦を成功させている。同時期、第十戦隊が解隊され第二水雷戦隊に転用される。旗艦は「矢矧」(司令官古村啓蔵中将)に指定された。また太平洋戦争開戦時、二水戦旗艦神通の麾下にあった雪風(当時第16駆逐隊)と霞(当時第18駆逐隊)が再び二水戦所属艦として行動する事になった。1945年(昭和20年)4月7日、第二艦隊旗艦大和の沖縄水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に第二水雷戦隊の主力艦艇が参加、「大和」と共に5隻(軽巡《矢矧》、駆逐艦《第21駆逐隊〔朝霜、霞〕、第17駆逐隊〔磯風、浜風〕》)を喪失、4隻(第17駆逐隊《雪風》、第21駆逐隊《初霜》、第41駆逐隊《冬月》)が生還した。4月20日、旗艦初霜の艦上に同艦乗組員及び駆逐隊司令官と雪風、冬月、凉月艦長等が集合、二水戦解散式が行われ古村司令官は退艦しこれをもって第二水雷戦隊は解隊された。

出典:wikipedia

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