角海浜(かくみはま)は、新潟県新潟市西蒲区の巻地区海岸部に所在する町字。角海浜村を前身とした三方を山で囲まれた海岸線50mほどの小さな砂浜海岸で、現在は廃村になっている。江戸期から続いた村で、越前能登の朝倉氏残党が織田氏の圧政に耐え兼ね、称名寺に率いられて定着したと伝えられる。また、もともと五ヶ浜の小字角海であったが1608年(慶長13年)に五ヶ浜から分村したという説と、角海を隠れるの意に解して落人集落という説もある。北から東回り順に、以下の町字と隣接する。角海浜はまた、近世にあっては「越後の毒消し」発祥の地でもあった。当時の砂浜は幅が200mあり、塩田があり、戸数も200余あったようだが、土地を失った村の女性には「毒消し売り」の行商にたずさわった人も多かった。最盛期には、周辺も含めると製造業者が20軒以上もあり、女性の売り子3,000を数えたという。宮城まり子の1953年(昭和28年)のヒット曲「毒消しゃいらんかね」は、「毒消し売り」の女性を歌ったものとして知られる。1960年代半ばまでの角海浜は、鳴き砂が聞けたという。鳴き砂は、原理的には砂にふくまれる石英粒相互の衝突と摩擦によって音を発するものであるが、角海浜の砂には鳴き砂海岸として有名な京都府京丹後市琴引浜に次いで格段に高温石英の含まれる割合が高いという三輪茂雄の観察結果がある。今日では角海の鳴き砂を復活させようという運動が起こっており、「角海の鳴き砂をよみがえらそう会」が活動している。この角海浜では波欠け(マクリダシ)という、数十年に一度起こり海に面した家並みを根こそぎ奪っていくという、この地域特有の一種の海岸浸食現象によって何度か家屋等が砂で埋没してしまうことがあった。波欠けは、普段は緩斜面の海底に、何らかの理由で瀬や深みができ、その海底地形によって生じた磯波と、海水を沖へと押し出す循環流が、急激に砂を移動させるという、きわめて局地的で稀な現象である。波欠けの繰り返しにより、集落の海岸線はかつてのそれより600mも後退してしまった。浸食の進んだ江戸末期には、農業だけで生活が成り立たず、村人は出稼ぎに出た(男性は大工仕事、女性は「毒消し売り」)。明治に入って護岸工事を陳情したが叶わず、その後も波欠けの被害は続いた。1969年(昭和44年)戸数はついに一桁にまで落ち込む一方で、同じ年には「角海浜村に原発建設」というニュースが報道された。1971年には原発離村もあり、1974年(昭和49年)7月には最後の住人がこの地を去って完全に廃村となった。角海浜地区の多くが東北電力の所有地になっており、集落の面影は既にない。城願寺はかつて角海浜に所在していた寺院であり、植野家はそれに隣接した民家であった。ともに、マクリダシによって埋没してしまった。こうして砂中の建物は、廃棄された当時の状態を保ったまま発掘調査がなされることとなった。このような近現代の民家跡の発掘調査は、当時としては異例のものであった。角海浜は1982年(昭和57年)に東北電力より原子炉設置許可申請がなされ、巻原子力発電所の建設予定地となっていたが、1995年(平成7年)に建設賛成派の巻町(当時)の佐藤莞爾町長のリコールを請求する署名活動が始まり、佐藤町長が辞職、反対派の笹口孝明が町長に当選して、巻原発建設の是非を問う住民投票が行われた。これは、条例制定による日本初の住民投票となった。その結果、建設反対が約6割を占めた。1999年(平成11年)、笹口町長が巻町の町有地を議会に諮ることなく反対派へ売却し、さらに、これについて原発推進派町議らが所有権移転登記の抹消を求めていたが、2003年(平成15年)には最高裁が上告を受理せず、推進派の敗訴が確定した。同年、東北電力より発電所計画が撤回され、翌2004年(平成16年)には原子炉設置許可申請は取下げられた。
出典:wikipedia
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