死亡帳(しぼうちょう)とは古代の律令制度の下で、造籍と造籍の間に毎年作成される帳簿のこと。死亡帳は、すでに京進されている戸籍に載せられていた人についてだけその死亡者名を提出するもので、造籍後に生まれた乳幼児については記載しない。『延喜式』勘大帳条に「死亡帳」の名がみえ、『政事要略』巻五十七の雑公文事に「郷戸帳」「浮浪人帳」など20ほどの帳簿類が掲げられているなかに「死亡帳」も掲げられている。次の2例が現存する。ともに正倉院文書である。この2点の帳簿は、ともに公出挙稲(大税)を負ったまま死去した人々の歴名簿であり、1.は天平9年(737年)、2.は天平11年(739年分)をそれぞれ記載している。ここに記載されている氏(ウジ)には、「伊我臣」、「海犬養」、「牛鹿部」、「車持連」、「酒人」、「日下部」などがある。河内国(現大阪府)の地域性などもわかる貴重な資料である。備中国(現岡山県)の賀夜・宇都・窪屋(現在の岡山市・総社市を中心とする地域)の死亡者72名を記した帳簿である。ウジに付した「西漢人」などの記載により、賀夜の渡来系の人の割合は全体の2割、宇都は3割を占めたことがわかる。死亡帳の出土例としては、次の2例がある。長岡京跡(京都府向日市・長岡京市・京都市)第341次調査の漆紙文書は、数片の断片で、延暦9年(790年)6月に死亡した数人について死亡年月日(だいたい6月3日から8日の間)が判明できる程度であり、人名や年齢などは失われていて知ることができない。釈文は、向日市埋蔵文化財センター・向日市教育委員会により1997年8月13日に記者発表されている。平成10年(1998年)度に行われた秋田城跡(秋田県秋田市)第72次調査で見つかった漆紙文書は、国立歴史民俗博物館の平川南教授の赤外線カメラを用いた解読によって死亡帳であることが判明した。姓、戸主、死亡者名、年齢、区分、死亡月日の一連の情報がわかるものとしては秋田城跡の例が最初である。この死亡帳は同時に出土した20号文書(解文の書止部分)に「嘉承二年」(849年)、21号文書(書状)に「嘉祥三年」(850年)の年紀があることから、9世紀前半のものと判断される。嘉祥2、3年からさほど隔たっていないとみられる。 この死亡帳は、正倉院文書の死亡帳2例とは書式が異なり、「人名 + 年齢/年齢区分 + 死亡年月日」という二段書きの歴名帳および人名の下の二行割書のスタイルを採用している。これは、古代遺跡の木簡等の遺物出土例から推して、京進文書ではなく、地方の役所にとどめ置く公文書に特徴的な、「実用的」な記載様式とみられる。記載対象は、「去年7月」から「今年6月」までの一年間について、秋田城の支配領域(秋田郡周辺)の民で、当時の出羽国府(9世紀初頭に移転)に清書したものを提出したと考えられる。当時の秋田郡周辺の人々は、越後、加賀など祖先を北陸地方に持つ人が特に多く、東国に起源をもつウジも少なくなかったとみられる。「戸主高志公」(名を欠く)の戸では1年間に6名もの人が亡くなっているが、9世紀前半は日本古代史上でもまれにみる天変地異の続いた時代である。東北地方でも、など災害や飢饉が相次いでいる。死亡年月日と老若男女を対比させると、「去年」の秋から冬にかけて女性と老人の死亡が多く、「今年」は成人の男性が6月に死亡している。。
出典:wikipedia
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