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ハッピープログレス

ハッピープログレスは、1980年代前半に活躍した日本の競走馬で、距離体系の整備によりできた短中距離路線で活躍した馬である。※ 馬齢はすべて旧表記(数え年)にて表記する。1978年4月15日に誕生したハッピープログレスは、父母の血統からデビュー前時点で既に短中距離路線に適性があると考えられていて、デビュー当初から短中距離をメインにと想定されていた。1980年11月8日に京都競馬場の3歳新馬戦でデビューし、新馬戦は勝てなかったものの2戦目から3連勝した。4歳になり皐月賞、ダービーへと駒を進めることもできたがあえて東上せず、関西の4歳短距離レースを中心に使われた。秋になって、神戸新聞杯、京都新聞杯と出走するが、やはりこの馬には距離の壁が大きいと判断された。5歳、6歳でCBC賞や阪急杯などの短距離重賞を制したものの、まだ関西でそこそこ強い短距離馬という程度の評価だった。ハッピープログレスが一躍全国区の競走馬として競馬ファンに知られるようになったのは1984年のことで、この馬が7歳になってからだった。7歳になって初めて関東に遠征するや、スプリンターズステークス、京王杯スプリングカップ、安田記念と3連勝して短距離三冠馬となった。この年は短距離路線重賞の整備が行われ始めた年であり、安田記念がハンデ戦から定量GI戦になった初年度であった。この年の京王杯スプリングカップの出走馬は21頭、安田記念は22頭という多頭数競走であったが、レース序盤は後方に待機して最後の直線で先行する多くの馬を差しきって強さを見せ、7歳になってようやく本格化した遅咲きのGI馬となった。その秋にはこの年に新設された第1回マイルチャンピオンシップで2着、CBC賞では61kgの負担斤量を背負わされながら後方から直線大外一気に伸び1着となり、引退レースを勝利で飾った。全27戦のうち24戦までが京都競馬場、阪神競馬場、中京競馬場での出走で、それ以外の競馬場での出走が、スプリンターズステークス(中山競馬場)、京王杯スプリングカップ(東京競馬場)、安田記念(東京競馬場)という勝利した3戦のみであった。引退後は九州で種牡馬となった。その後、那須種馬場に繋養されていた。繋養地が馬産地としてはマイナーだった事もあってか、代表産駒と呼ぶに相応しい馬は出せずに終わった。2000年4月8日に、JRA主催の桜花賞開催記念イベントで観客に展示されるため阪神競馬場に来場して、展示が終わって馬房に戻るときに急性心不全で死亡した。ハッピープログレスがデビューした1980年は、八大競走を主体とした長距離偏重のレース体系で、2歳上のニチドウアラシの様にタイトルに恵まれない馬が少なくなかった。この状況が変わったのが1984年で、この年にJRA は、それまでは重視されていない格好だった短距離の重賞を整備する改革を実施した。従来は一介のハンデ重賞だった安田記念を、この年から導入されたグレード制で最上位のGIに格付けし、更にハンデ戦から定量戦に変更して賞金も大きくアップさせた。また、同年にマイルチャンピオンシップがやはりGIレースとして新設され、安田記念と並ぶ短距離重賞の頂点に位置付けられた。ハッピープログレスは、GIに格付けされた初回の安田記念の優勝をする等、1984年の春に短距離三冠馬となった。また、第1回マイルチャンピオンシップではニホンピロウイナーと好勝負を繰り広げての2着となり、ニホンピロウイナーとともに、整備され始めた短距離重賞で実績を残した一頭であった。ニホンピロウイナーとの直接対決は次の通りで、6回対決をしてハッピープログレスはニホンピロウイナーに先着したのは1回であった。成績的にはニホンピロウイナーに及ばないものの、3回の連対を果たしている。ハッピープログレスが当時の短距離三冠を達成したとは言っても、その時期はニホンピロウイナーが骨折休養中のため不在で、その間に取った短距離三冠であるという側面もある。スワンステークスでは1着と3着とはいえ、走破タイムで見ると1秒5の差があり10馬身近い差であった。

出典:wikipedia

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