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FM mle1915軽機関銃

FM Mle1915 CSRG(Fusil-Mitrailleur mle 1915 CSRG)は、フランスで開発された自動小銃あるいは軽機関銃である。開発者の名からショーシャ軽機関銃とも呼ばれる。CSRGの略称は設計関係者および製造業者、すなわちルイ・ショーシャ(Louis Chauchat)、シャルル・シュター(Charles Sutter)、 ポール・リベイロールス(Paul Ribeyrolles)、(Gladiator)の頭文字を取ったものである。ルイ・ショーシャ大佐(Louis Chauchat)が想定していたコンセプトは、1人の兵士によって運搬、装填、および射撃を実施しうる軽量自動火器という当時としては先進的なものだった。その為、制式名称にも機関銃(Mitrailleuse)ではなく自動小銃(Fusil-Mitrailleur, FM)という表現が用いられている。また、一般的な旋盤や工場設備で生産が行えるように部品の公差に余裕が与えられていたほか、各国で広く使用されていたルイス軽機関銃に比べると2キロから3キロほど軽く、同クラスの自動火器としては非常に軽量な製品の1つだった。しかし、前線では構造の複雑さや部品の公差の為に故障が相次ぎ、結果的には非常に評価の低い機関銃としてその名を知られることとなる。設計はルイ・ショーシャおよびシャルル・シュターの2人によって行われた。1916年、FM Mle1915 CSRG(1915年式CSRG自動小銃)としてフランス軍に採用される。製造を主に担当したのは自動車や自転車の製造を手がけていたであった。開発者と共に制式名称に名を連ねているポール・リベイロールスはグラディエートル社社長である。作動方式はジョン・M・ブローニングが手がけた半自動小銃に取り入れられていた反動利用(ロングリコイル)方式を使用し、機関部は後方に突き出した筒型をしている。弾倉は着脱式の半円型で、装填数は20発である。重量は同クラスの機関銃と比べても軽量だった。射撃はオープンボルト状態から行われ、セミ/フルオートの切り替えが可能である。セレクタレバーはピストルグリップ上部の左側面にあった。放熱筒に覆われた銃身は当時主力小銃として大量生産されていたルベル小銃の銃身に加工を加えたもので、銃口にはラッパ型の消炎器が設けられている。1916年版のマニュアルによれば、機関銃チームは3名(射手、第1弾薬手、第2弾薬手)で構成され、それぞれ160発、480発、400発の銃弾を携行するとされていた。すなわち、チーム全体では1,040発の銃弾を携行した。特に指摘される問題は弾倉の構造である。バネの弱さから装弾不良が頻発し、射手らは少しでもこれを避けるべく最大(20発)まで装填せずに射撃を行った。右側面は残弾数を確認する為に大きく切り開かれていたが、泥や水が入り込んで不良を招く原因となった。さらに弾倉自体も薄く、曲がったり割れたりすることが多かった。Mle1915の問題の大半は弾倉構造に由来する装填不良や弾づまりであり、後に泥を防ぐ為のカンバス製弾倉カバーが支給されたが、弾倉の設計自体は最後まで変更されなかった。ロングリコイル機構は過熱しやすく、射撃の熱を蓄えるにつれて可動式銃身の放熱フィンが膨脹し、放熱筒の内面に干渉して作動不良を引き起こすなどの問題もあった。十分に手入れされた状態でも連続射撃は300発ほどが限度で、汚れていれば100発程度で射撃が行えなくなった。銃身の冷却には10分以上掛かった。軽量化を重視した為に射撃時の反動も大きかった。射撃時には反動により後退した機関部で頬や目を打つことがあった。これを避けるには、射手はロングリコイル機構のために突き出した部分より前に頬を当て、同時に反動を抑えるために短い銃床をしっかりと肩に押し付けるという不自然な射撃姿勢を取る必要があった。細身で貧弱な二脚と不正確な照準器も相まって100m以上の距離で正確な射撃を行うことは非常に困難であり、400m以上での射撃は不可能に近いとされた。当時、ドイツ帝国軍では軽量機関銃としてMG08/15機関銃を用いていた。彼らは鹵獲したルイス軽機関銃をMG08/15よりも軽量な自動火器として愛用していたが、さらに軽量で、また前線にも大量に存在したはずのMle1915は鹵獲さえしなかったという。第一次世界大戦中、Mle1915は大量に生産された。8mm弾モデルはおよそ250,000丁生産されたといわれている。フランス以外ではアメリカ、ベルギー、ギリシャ、ポーランドなどで採用され、いくつかの国では自国の標準小銃弾に対応させた上で1920年代初頭を通じて使用されたという。アメリカ陸軍における制式名称はAutomatic Rifle, Model 1915 (Chauchat) (M1915自動小銃 ショーシャ)だった。しかし、アメリカ兵は「ショーシャ」という名をもじった「ショーショー」(Show-Show あるいは Shoo-Shoo)、あるいは性能の劣悪さを揶揄した様々な名でこの機関銃を呼んだ。1917年4月6日に第一次世界大戦に参戦した時点で、アメリカ軍では小銃から機関銃まであらゆる銃器が不足していた。このため、大量生産が可能とされていたMle1915をフランスから購入することが決定したのである。1917年9月から1918年11月の停戦までに、グラディエートル社のパリ工場では、アメリカ軍向けのM1915としてオリジナルと同様の8mm弾モデルおよそ16,000丁に加え、アメリカの標準小銃弾.30-06スプリングフィールド弾に対応させたM1918というモデルをおよそ19,000丁出荷した。しかし、M1918はM1915以上に評判が悪かった。欠点であった二脚と弾倉(箱型16連発)は改良されていたが、.30-06弾のエネルギーはMle1915の設計に対しあまりにも過大だった。M1918は購入総数のうち40%が配備前に廃棄され、前線にはほとんど届けられなかった。ブローニング自動小銃(BAR)の出荷が始まるとM1915は徐々に更新されたが、ジョン・パーシング将軍は本格的な配備が整う前にドイツ軍がBARを鹵獲したり模倣したりすることを避ける為、十分な数がフランスに届くまでは大規模な供給を行わない方針を定めていた。そのため、結局は1918年11月の停戦まで多数のM1915が引き続き使用されることになる。アメリカ兵らが復員する際、M1915の大半はフランス国内に残置されたという。第一次世界大戦における名誉勲章受章者のうち、一等兵、一等兵、一等兵の3名は、受章要件となった戦闘の際にM1915を使用していたとされる。

出典:wikipedia

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