2007年東京都知事選挙(にせんななねんとうきょうとちじせんきょ)は、2007年(平成19年)4月8日に執行された東京都知事選挙。第16回統一地方選挙の一環で実施された。現職の石原は実現すれば1964年以来となる2016年夏季五輪の東京招致計画を推進していた。招致に巨額の費用を投じること、招致を契機とした都市基盤整備への是非など、黒川・吉田らが明確な招致反対を掲げて立候補を表明したことによって、今選挙の争点の1つとなった。築地市場を2012年度をめどに中央区築地から江東区豊洲へ移転するという、東京都が2004年に発表した豊洲新市場基本計画をめぐり、移転先の地中から国の環境基準を大きく上回る有害物質が検出されたことで、移転反対派の反対運動の根拠となっており、争点の1つとなった。石原は当初、土壌の入れ替えを行うため問題ないとしたが、専門家から意見を聞くという慎重な行動へシフトした。1991年以降、都知事選において政党本部の推薦を受けた候補はすべて落選しており、1991年の選挙では自由民主党幹事長だった小沢一郎が辞任に追い込まれている。石原は自民党推薦候補らを破って初当選しており、2003年にも自民党の推薦・支持を受けていない。しかし、この時の選挙では長男伸晃が東京都連会長である自民党が推薦を決定していた。一方で、同年7月に予定されていた第21回参議院議員通常選挙を前に自民党との対立姿勢を示したい民主党が独自の対立候補擁立を模索したが、都議会民主党は知事与党であり、菅直人擁立をめぐる党内の混乱を招いて失敗に終わった。最終的に民主党は菅のブレーンでもある五十嵐敬喜が擁立に大きく関与した浅野の支援を決定して、独自候補の擁立を断念した。また石原も自民党推薦を一度受諾したが、最終的に断った。しかし、石原は「支援はいくらでも受ける」と自民・公明両党に支援を要請し、浅野も民主・社民に支援を要請しつつ、共産党には出馬辞退を迫った。この選挙を巡っては無党派層の拡大の前に政党色を隠し、事実上の支援に限定する構図となっている。黒川は、自身が出馬当日立ち上げた政党の公認候補として立候補し、吉田は共産党の推薦を受けて立候補した。 東京の未来は私が決める 14名、届け出順マスメディアでは、吉田・石原・浅野・黒川の4候補を「主要候補」として、報道時間や紙面のスペース、記事として取り上げる回数などを多く取るなどして扱った。青年会議所・リンカーン・フォーラム共催の公開討論会(3月15日開催)でも上記の4人が招かれ(中松は20日に立候補を表明しているので、元々招かれる立場にない)、各テレビ番組での討論も主要4候補のみが招かれた。以上4候補と、過去の都知事選で一定の得票を得ている中松、タレントである桜以外の8候補は、マスメディアからほぼ完全に無視される形となった(→詳細)。更に、鞠子は政見放送に臨まず、選挙管理委員会への顔写真提出も行わない独自の選挙戦を展開した。他にも数名が立候補の動きを見せた。投票率は54.35%で、前回2003年の44.94%を上回った、当日の有権者数は1023万8704人で投票総数は556万5127票となった。20代の投票率は33.45%だった。候補者別の得票数の順位、得票数、得票率、惜敗率、供託金没収概況は以下のようになった。供託金欄のうち「没収」とある候補者は有効投票総数の10%を下回ったため全額没収された。得票率と惜敗率は未発表のため暫定計算とした(小数3位以下四捨五入)。結果は、3選を目指す石原が支援を受けた自民党・公明党の基礎票をまとめ上げた他、無党派層の票も手堅く獲得し当選を果たした。一方、前宮城県知事の浅野は県知事を務めあげた手腕を強調し、都政転換を目指したが、石原の前では一歩及ばなかった。注目された建築家の黒川は石原・浅野の知事経験者の前で都民の大きな支持を得られず得票数4位で供託金没収となった。共産党推薦の吉田は石原・浅野の論戦に加われず3位止まりであった。この他の候補では、都知事選3度目の挑戦となった中松が5位で最上位に食い込み、タレントの桜は支持が広がらず6位。唯一の女性候補の内川は7位だった。以下、報道各社の出口調査を参照する。
出典:wikipedia
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