三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。これを含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されており、毛利家文書405号・毛利元就自筆書状として山口県防府市の毛利博物館に収蔵されている。1557年(弘治3年)11月25日に周防富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた元就の自筆書状。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭している。1546年(天文15年)に元就は隠居を表明して、長男の隆元が家督相続をしていたが、これは形式的なものであり、実質的な毛利家当主は引き続き元就が務めていた。そして、防長経略で周防国・長門国を勝ち得た1557年には毛利家の実権を隆元に譲ろうとしたものの、隆元が「防長まで拡大した領国を治めるには、父の後見が必要」として元就の隠居に強く反対して翻意を促し続けた。やがて、同年11月初旬に周防で大内残党が挙兵したため、隠居を思いとどまった元就は、隆元を後見して親子で防長に出陣。元就らが周防に到着した頃には、大内残党の蜂起は既に内藤隆春らの働きでほぼ鎮圧されていたものの、大内氏残党のみならず尼子氏や大友氏との戦いが続くであろう毛利家の今後を案じた元就は、陣中で教訓状をまとめた。この教訓状は、文字通り3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」「毛利家の公式文書としての色合いが強い」とされる。そのため、教訓状の続きとなる短い書状(毛利家文書406号)が隆元宛てに書かれている。この書状では、「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」「毛利家中にも(中略)当家をよく思わない者もいる」「兄弟の仲が悪くなれば(毛利家は)滅亡すると思うように」などと書かれている。このような教訓状を、わざわざ子どもたちに書き与えた背景としては、次のような理由が考えられている。1563年(永禄6年)には元就に先んじて隆元が、1571年(元亀2年)には元就が没するが、教訓状で説かれた兄弟・一族結束の教えは毛利家に受け継がれ、元春と隆景が隆元の子である毛利家当主・輝元を最後まで支え続ける毛利両川体制は、毛利家の屋台骨となった。毛利氏が戦国時代から幕末に至るまでその家名を保ち続けることができたのは、教訓状の教えを守り続けてきた努力の結果とされる。三子教訓状が基になって造られたとされる三矢の教え(さんしのおしえ)と呼ばれる逸話が知られている(戦前の小学校教科書などに「毛利元就の三本の矢の教え」として掲載されていた)。この逸話のエピソードは、概ね次の通りである。このように、三子教訓状と似通っている訓戒ではあるが、教訓状には「三本の矢」については記述がない。そもそも史実では、元就が死の間際に3人の息子に教訓を残すことは不可能な状況であった(隆元は元就より8年も早く亡くなり、元春は山中幸盛らの率いる尼子再興軍との戦いで出雲国で在陣中であり、元就の死を見届けたのは隆景と輝元のみ)。この逸話に関する古い文献としては、江戸時代に編纂された「前橋旧蔵聞書」があり、死に際の元就が大勢の子どもたちを呼び集めて「1本の矢では簡単に折れるが、多数の矢を束ねると容易に折れないので、皆がよく心を一つにすれば毛利家が破られることはない」と教えたとされる。この話では、史実と合致して隆元や元春がその場に登場しないことから、このエピソードが三矢の教えの逸話へと変化して伝えられた可能性がある。なお、三本の矢の逸話については世界中に類似した話があり、中国の「西秦録」(十六国春秋)に登場する吐谷渾阿豺(とよくこんあさい)の故事や、モンゴル帝国を築いたチンギス・カンが幼い頃に兄弟争いをした際に母から与えられた教訓などがアジアでは早くから知られていた。また、イソップ寓話にも「3本の棒」という類似の話があり、アフリカ東部のソマリアにも類似の話がある。三矢の教えについては、元就が吐谷渾阿柴の故事を引用したとも、偶然同じ教えを残したとも言われている。
出典:wikipedia
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