米田 哲也(よねだ てつや、1938年3月3日 - )は、鳥取県米子市出身のの元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。プロ野球歴代1位の949試合に登板し、歴代2位の通算350勝を記録した。その驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれる。鳥取県米子市大篠津町出身。父・米田雅明は薪炭雑貨商。米子市立美保中学校(後輩に角盈男がいる)では陸上の走高跳の選手だった。卒業後境高校へ進学。元々は捕手であったが、境高校入学後に真木一夫部長の「お前の顔では投手が恐がる、逆に投手になって相手を怖がらせるんだ」という言葉がきっかけで投手に転向。1年秋から本格派投手として注目を集めた。高校時代からカーブ、シュート、スライダーも習得しており、社会人野球の米子鉄道管理局ともよく練習試合をしたが、「そんなに打たれた記憶はない」という。米子と言う土地柄、プロ野球はラジオで聞く程度だったが、米子市営湊山球場で行われた大阪タイガース(阪神)と国鉄スワローズの試合を見たことがある。その時の印象として「阪神の渡辺省三さんはコントロールはいいけど球は遅いし、国鉄のカネさん(金田正一)は球は速いけどコントロールは悪かった。これならプロでも行けるんじゃないかと思った」と語っている。同世代に米子東高校の義原武敏がおり、1年秋から3年春の大会で幾度となく激闘を演じた。義原の投球が評判の頃、義原を見に行ったスカウトが、対戦相手の米田の投球を見て驚き、中央でも知られた存在になる。県内では他に種部儀康が同級生。2年夏は東中国大会で倉敷工業高校、3年夏は県予選で米子南高校に敗れ、甲子園出場はならなかった。最初は大学進学を考え、慶應義塾大学の日吉グラウンドでも練習していたが、1956年、チームメートだった浜田耕二と共に阪急ブレーブスへ入団。真っ先に誘ってくれた丸尾千年次スカウトに恩義を感じて決めたが、その後阪神も急接近。阪神のユニフォームを着て練習にも参加している(背番号は41)。阪急との二重契約が発覚したが、コミッショナー裁定により阪急への入団となった。同郷の国頭光仁から背番号18を引き継いだ。米田の回顧によれば、コミッショナー事務局からは「どちらに行くか決めろ」と言われ、金銭面の条件は阪神のほうがよかったが、「背番号18をもらえる」という魅力で阪急に決めたという。投球だけでなく打撃にも自信があり、打撃練習では4番の中田昌宏よりも打球を飛ばしていた。最初は打者転向を勧められたが、「打者としてダメだったらそこまでだが、投手としてダメでもそこから打者としてやっていくことはできる」と投手としてやっていくことを決意。打撃にも優れ、投手として通算33本塁打は金田正一に次ぐ歴代2位。投手として唯一、満塁本塁打とサヨナラ本塁打の両方を記録している。またプロ入り4打席目に満塁本塁打を放っており、これは1983年に駒田徳広(巨人)が初打席満塁本塁打を放つまで最短記録だった。1年目から9勝、2年目に21勝を挙げて以後エースとして活躍。左腕エースの梶本隆夫と共にヨネカジコンビを成した。1961年オフ、王貞治(巨人)とのトレード話が持ち上がったことがある。この時は阪急サイドが拒否してトレードは不成立に終わった。同様にプロ10年目の1965年オフにも巨人へのトレードが内定していたが寸前で不成立になっている。1966年に25勝で最多勝。同年200勝を達成。20勝以上を8回、歴代最長の19年連続2桁勝利を記録し、その登板数の多さと黙々と投げ込む姿から「ガソリンタンク」「人間機関車」などと形容された。なお、「ガソリンタンク」の本当の由来はそのスタミナではなく、ウワバミのようにいくらでも酒を飲むことから、酒をガソリンに例えて呼ばれたものである。1967年に18勝を挙げて球団初優勝に貢献。1968年には自己最高の29勝を挙げMVPに輝く。1971年には史上5人目の通算300勝を達成。しかし、山口高志が入団した1975年に登板機会が激減し、志願してシーズン途中に阪神タイガースに移籍。阪神を1976年限りで自由契約になると、1977年には阪急時代の監督だった西本幸雄率いる近鉄バファローズにコーチ兼任として移籍。史上2人目の通算350勝を達成し、同年引退した。通算1000登板を狙いたいとも考えていたというが、股関節が硬くなり重心が高くなったことと痛風を発症し、諦めたという。通算949試合登板は歴代1位。通算350勝は金田正一の400勝に次ぐ歴代2位で、右腕では歴代1位、350勝のうち、阪神では在籍2年弱で10勝に終わっているが阪急、近鉄時代に稼いだ340勝はパ・リーグ1位。通算敗戦数でも左腕では金田が、右腕では米田がそれぞれ歴代1位だが、他にも登板試合数、奪三振、投球回数、被安打、与四死球はこの二人が左右の投手のそれぞれ歴代1位である。米田は、「たくさん勝っている投手って、僕もそうだけど、カネ(金田正一)さん、小山正明さん、鈴木啓示と弱いチームに長くいた選手が多い。強いチームに勝ちたいという反骨心が必要なんでしょうね」と語っている。現役22年で肘や肩の故障はほとんどなかったことを誇りにしている。体調管理やスタミナ確保にも関心を寄せ、登板した夜に時間をかけてゆっくり食べる「米田ディナー」は、金田正一のキャンプ時代の鍋と共に有名。小学生低学年から弓ヶ浜を往復10キロを走り込んだ事によって強靭な足腰を身につけたと語っている。「ウェートトレーニングか何か知らないけど、松坂大輔みたいにプロレスラーみたいな体になったら腰も回らなくなるでしょ」と最近のトレーニング方針に苦言を呈している。この経験からコーチ時代にランニング中心の練習メニューを導入したが、選手の評判はあまりよくなかったという。フォークボールも武器にしており、これは「ヨネボール」として有名。覚えたての頃はブルペンで投げていると、指から抜けて観客の頭に当たってしまった程だったが後に習得。村田兆治(ロッテオリオンズ)がフォークを練習し始めた頃、ベンチに座って試合中も指先を鍛練している米田をじっと観察し、ついにその球の握りを盗み取ったという。ライバルとして、梶本と小山を挙げている(もっとも、梶本については「仲も良かったし、よく飲みにも連れて行ってもらったし、ライバルと言う感じはあまりしなかった」とも語っている。)。小山については「小山さんがガクっと衰えていくのを見て、自分まで闘争心がなくなってしまった。小山さんがもう少し頑張ってくれていたら自分も400勝くらい行ったかも知れない」と語っている。なお、やはり同世代の大投手で対戦も多かった稲尾和久について、稲尾は阪急戦通算60勝17敗(勝率.779)という驚異的な勝率を残しており、「彼が相手だととにかく勝てないのでライバルというより悪魔のような存在だったよ」と語っている。ダブルヘッダーで2勝されて「ごちそうさん」と帰って行ったこともあるという。引退後は西宮市でスナック「セナ350」を経営する傍ら、1978年から1984年は毎日放送(テレビ解説は1981年まで)・関西テレビ放送・フジテレビジョン(1982年から)解説者。1985年から1986年には阪神一軍投手コーチを務め、21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一に貢献。1987年から1992年途中まで関西テレビ・フジテレビ・ラジオ大阪解説者・日刊スポーツ評論家を経て、1992年途中 から1993年までオリックス一軍投手コーチを務めた。1995年は近鉄一軍投手コーチを務めた。1994年、1996年~1997年は再び日刊スポーツ評論家を務めた。引退翌年の1978年に、昭和(13年)生まれの通算200勝投手であることから、日本プロ野球名球会の結成に参加している。2000年に野球殿堂入り。米子市民栄誉賞も受賞している。
出典:wikipedia
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