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青い目の人形

青い目の人形(あおいめのにんぎょう、)は、1927年に、アメリカ合衆国から日本に両国間の親善を目的として贈られた人形(Friendship Dolls:友情人形またはAmbassador Dolls:人形使節)の日本における通称。本記事では日本より返礼のために贈られた人形(Japanese Friendship Dolls:答礼人形)についても解説する。日露戦争後に日本が満州の権益をにぎると、中国進出をうかがっていたアメリカ合衆国とのあいだで政治的緊張が高まっていた。また、アメリカ本国においても、日系移民がアメリカへ大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人によって、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、予てから根付いていた人種的偏見等も相俟って、1924年にジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)が成立した事もまた、日本国内での反米感情を煽ることになり、両国民の対立を深める一因になった。そんななか、1927年(昭和2年)3月、日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士(1860年 – 1945年)が「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い。」と子供の世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ、人形を通じての日本との親善活動がおこなわれた。近代の日本財界の重鎮である渋沢栄一(1840年 – 1931年)も日米関係の悪化を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担った。やがてアメリカから日本との親善活動の一環として、1926年10月〜12月に全米より集められ、1927年3月3日に間に合う様に日本郵船等5社(他に大阪商船(現・商船三井)、Dollar Steamship Company(現・アメリカンプレジデントラインズ)、Kawasaki Roosevelt Line(現・川崎汽船)、China Mutual Steam Navigation Company(現・))の前橋丸、アングル丸など12隻に分乗し日本の子供に12,739体の「青い目の人形」が、遅れて鳥羽丸で各州代表の人形48体とミス・アメリカ及びワシントンDCが贈られた。12,739体の「青い目の人形」はニューヨークやサンフランシスコを出港し、1927年1月18日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜・神戸に着いた後、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ、全国各地の幼稚園・小学校に配られて歓迎された(但し、数が限られていたこともあり、全ての小学校・幼稚園(大正15年当時:小学校25,490、幼稚園1,066、合計26,556)に配布されたわけではなく、抽選で決められた所もある)。道府県ごとの人形の分配については均等とは限らず、文部省の基準により、師範学校の附属校や道府県庁所在地及び主要都市ならびに外国人の多く滞在する地区の幼稚園・学校等から優先されているが、あくまでも目安であり、あとは自治体の判断に委ねられることになった。1000体程の余った人形も一部の家庭に配布された。ミス・アメリカ及びワシントンDCと48体の各州代表人形は天候不良による遅延のため、1927年3月14日に到着し、3月18日に天洋丸の船室で児童の出迎えを受け、横浜の本牧小学校で歓迎式典を開かれた後、皇室に献上される為同月26日に東宮御所に運ばれた(48体の各州代表人形は後に香淳皇后より、内帑金(ないどきん)が下賜され、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家(檜材の5分の1の模型で1階は和室、2階が洋間のしつらえになっていて、庭には遊具が備えられていた)にて、同数の日本人形と共に展示されていたが、戦火の混乱でその殆どが行方不明となった。)。返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、人形が贈られた幼稚園・小学校の児童から集められた募金を元に製作された「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体(ミス大日本及び1道3府43県や主要6都市・統治していた外地4箇所の名を冠した人形)が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に贈られた。日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は反米・反英政策により敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が人形を奉安殿備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに隠し、戦後に発見された。現存する人形は2016年5月現在、334体にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存されている。青い目の人形は、シドニー・ギューリックが1888年に日本を訪れて以来、布教や教育活動を行う一方で日本の人形に関する古くからの文化を知ってきた経験から、日本との親善を目的として「日本の雛祭りに人形を送ろう」と呼びかけたことによって全米から集められたものである。この友情人形は前述の日米間の友好の他にも、先年の関東大震災で人形を失った少女たちを慰める意味を持っている。ギューリックらによって結成された世界児童親善会は、人形を日本に贈るプロジェクトに先んじて、まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子"DOLL MESSENGERS OF FRIENDSHIP(邦題:可愛いお人形が親善のお使)"を配布し、この内容に沿って人形を集めて贈るための指南を行った(これは後に日本語に翻訳され、日本の小学校や幼稚園に配布された)。前述の冊子に記された内容を元に、人形を贈るための役割の分担が行われた。男の子達は後述の「友情表示人形」をお金を集めて(バザーや野外劇などを開いて資金を集めたケースもあった)購入し、日本へ送るための旅券の手配や事務・会計を行い、女の子達や母親は、人形の衣装や付属品を手作りした。教師らは人形交流の意味を児童たちに理解してもらうために、日本へ行き着くまでの道のりや日本の文化などを紹介することを教育の一環とした。人形には各々名前が付けられ、友情の手紙が添えられた。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、地方委員会を設け、友情人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。このプロジェクトに携わったアメリカの児童ならびに保護者、教師、関連団体等は凡そ260万人と言われている。人形を贈った州はオハイオ州の2,283体が最多(次いでペンシルベニア州の1,935体、ニューヨーク州の1,436体、マサチューセッツ州の966体と続く(日本人が多く住む一方で、日系移民の排斥運動が盛んなカリフォルニア州からも461体が贈られた)。人形の凡そ8割が東部の州から贈られたという。)。州ごとに集められた人形は、新聞社等によって構成された委員会による選考により、代表人形として各1体が選抜され、さらにそれらの中から「ミス・アメリカ」が選ばれることになった。当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、アメリカの世界児童親善会がジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社に発注し、衣装を着ていない状態の裸人形を「友情表示人形」として1体3ドル(地方委員会を通じて購入すると送料無料、3体のセットで1体あたり2ドル90セント、1ダース以上では1体当り2ドル75セント。着衣の人形になるとさらに各1ドルかかる)で斡旋した。頭から肩までひとつづきのショルダーヘッドタイプのボディに、胴体は綿を詰めて布でくるんだ構造になっており、背中にはメーカーの刻印が押されている。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもあった(「ママー」と泣くものが証言に多く見られる)。ちなみに、青い目の人形は一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっていた(大半は人形旅行局で用意した前述の3社の人形を元に児童たちがカスタマイズしたものである一方、一部手持ちの人形を差し出した例もあった。そのため、メーカーの規格(1フィート5インチ:40cm前後)に当てはまらない人形も散見する(現存の人形でも30〜60cm、後述の満州に送られたメリー・マーガレットの90cmの例もある))。なお、人形に添えられたギューリックの手紙では「友情の人形」と呼称されており、贈り主側が「青い目の人形」と名付けたわけではない。野口雨情が「青い眼の人形」の詩を発表したのは1921年(大正10年)10月のことで(童謡雑誌『金の船』1921年12月号)、人形交換よりも数年さかのぼる。これに本居長世が作曲したのが童謡「青い眼の人形」で、1923年にはアメリカでも関東大震災の義援金を集める目的で演奏され、好評を博していた。「青い目の人形」との呼称は、これに因んで付けられたと思われる。贈られた人形はメーカー製から個人寄贈まで様々で、必ずしも青い目をしているものではない。またアメリカから贈られてきた人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くが(パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた人形)であり、ドイツ製などのビスクドール(素焼きの人形)もわずかに含まれている。青い目の人形は、前述の冊子に記されたように雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りであったが、愛知県新城市立東陽小学校に贈られた「ノルマン」のような男の子の人形も少ないながら見受けられる。当時の日本では前述の童謡『青い眼の人形』でも歌われたようにアメリカ人形が珍しがられたことや、大正天皇崩御が直前にあったことから主な行事を自粛しつつも、友情の人形が贈られることを心待ちにしていた雰囲気もあって、寄贈先の小学校や幼稚園などでは日本人形に囲まれての盛大な歓迎式が行われた。また、青い目の人形の人気にあやかって、元の人形をコピーしたもの等も販売されていた。人形には本体に付随してパスポートや旅券・切符(99セントが人形の贈り元から日本の各地方の児童たちへ渡されるまでの旅費一括を特例として充てられた。なお、友情人形に対しての関税は免除されている)が用意され、パスポートには名前や発行番号、出身地などが記載されている(例:千葉県・成東小学校のアリス・プレーブル - Alice Preble、No.860、Portland,Maine)。日本には前述の通り1万2千体以上の人形が贈られているが、中には発行番号が左記の数字よりはるかに大きいもの(例:島根県・今福小学校のキャサリンのNo.48129や茨城県・嶐郷小学校のクリッシーのNo.45857、広島県・鞆幼稚園のドロシー・フィリップスのNo.45645)もある。現存している青い目の人形の中にはパスポートが失われ、本名・番号・出身地が不明のものも多く、戦後にに再発行してもらったケースもある。送られた人形達には生徒らによって名前(パスポート記載の名前または愛称)がつけられ、ガラスケースなどに入れられて学校の昇降口や校長室の前に飾られていたという。アメリカ人形だけでは淋しいと日本人形と一緒に飾られた事例もある。学芸会や運動会、遠足などの学校の行事に人形を参加させたケースもある。雛祭りでは雛人形と共に飾られたこともあり(前述の冊子には雛祭りについて紹介し、人形が贈られる3月3日に青い目の人形が飾られることを念頭に置かれた記述がある)、戦後も一部の小学校や幼稚園でこの形式の雛祭りが催されている。第二次世界大戦に入り、日本の青い目の人形の大半は竹槍訓練の標的にされたり、焼却されたりなどして滅失し(現在残っている青い目の人形の中には当時暴行を受けた痕跡が見られるものもある)、あるいは空襲や災害で失われたり、戦後、校舎改築等の際に見つかっても、寄贈された経緯を知らずに古い人形として廃棄されたと思われるものも少なくない。やがて、残っていた人形がテレビ等で紹介された事と共に、地方に残る青い目の人形の再発見や、人形親善の継続としてアメリカから(ギューリック3世らから)の学校等への新しい人形(新・青い目の人形)の寄贈が行われるようになった。戦時中に処分された人形や、アメリカへの里帰り(平成元年(1989年)10〜12月にかけてワシントン、ボストン、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り日本国内の青い目の人形92体を展示)の最中に盗難に遭った人形(後述)に対しても、代替の人形が贈られている。渋沢栄一が日米関係委員会委員として外務省から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカに送られた。この際は、雛祭りに送られた人形への答礼として「日本からもクリスマスに人形を送ろう」というコンセプトのもとに送られている。日本側から送られた人形は皇室下賜人形1体を含めて全58体となっている。当初はギューリックは青い目の人形の贈答に対し、日本国内の経済事情を鑑み返礼は無用と断っているため、代案として贈られた人形の相当数のプレゼントではなく、少数の精巧に作られた人形を以って返礼を行うこととした。答礼人形に関しても冊子『答礼の使者として米国へ人形を送りませう』が各小学校・幼稚園へ配布され、これに基づいて人形作りのための寄付や、答礼人形の送別式が実施された。青い目の人形が送られた各学校の生徒から1人1銭(例外として、答礼人形への寄付の他に、日米親善の意味で日本人形を青い目の人形と並べて飾る目的で購入するために各1銭ずつの2銭募金を行ったケースもある。)の募金を行い、そのお金(29,000円程。ミス大日本には皇后より千円が下賜された)で東京の職人たち(平田郷陽、滝沢光龍齊ら十数名)によって製作された100体以上の人形の中からコンテストで51体を選出、ミス大日本(又は「ミス・ジャパン」。別称の「倭日出子」は渋沢栄一が自ら名づけた)ならびに主要都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の計7体は京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して創られた。青い目の人形がメーカーの指定した人形の他に個別に持ち込んだものも含まれ、身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm(ミス大日本は90cm程))、桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの。但し、ミス大日本他6体は桐素材の丸彫り)の生地に胡粉を塗り上げた本体に、有名デパート(三越、白木屋、高島屋、松屋、松坂屋)特製の友禅縮緬と本金の帯、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せられた。地域の名を冠した人形は各道府県に送られ、それぞれの道府県の学校で(但し植民地へは地理的な関係上、答礼人形は送られなかった。)送別式を開いた後、再び集められた上、昭和2年11月4日に日本青年館で壮行会が開かれて、アメリカに渡ることとなった。それぞれの人形は、地域名を冠した名前が呼びづらいことに配慮して、台座に記された名前の地域名を取ってミス○○と呼ばれた。人形本体とは別に、アメリカに渡る際は人間と同様に、パスポート、客船の一等切符なども用意され、草履、駒下駄、傘、鏡台や箪笥などといったお道具も含めたものとして作られている。製作費用は、人形本体約150円、衣装約150円、お道具約50円、計1体あたり約350円(アメリカからの友情人形が一体3ドルだったのに対し、一式で当時のレートでは150ドルと50倍の費用がかかった。2010年現在の貨幣価値で約260万円 - 280万円程度。当時小学校の教員の月給の平均は56円で墨田区の一戸建て(12坪=39.67m)が600円で購入できた)であったという。この他、地方ゆかりの品々を手土産として添えられた人形もある(ミス奈良:鹿の置物、ミス高知:珊瑚の細工物、ミス静岡:煎茶道具一式など)。人形たちは昭和2年11月10日に横浜を出港し、アメリカに送られた後はすぐに各州に届けられるのではなく、昭和2年11月19日ハワイのホノルルに到着し、同11月25日にサンフランシスコを振り出しに長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介(まずは2グループに分かれ、ミス大日本ら17体はロサンゼルスなどの陸路を経て12月15日シカゴ、12月20日ワシントン、12月28日にニューヨークに到着。残りの41体はパナマ運河を経由し、昭和3年1月4日にニューヨークで合流。1月6日にボストンで歓迎会が行われた)、人形は世界児童親善会に託され、後に10体ずつのグループに分散し、1月〜7月にかけてアメリカの479の都市(青い目の人形を寄贈した都市数とほぼ同じ。ちなみにニューメキシコ州は青い目の人形の贈り元のリストに入っていない)にて千回以上の歓迎会が行われ、展示された後に再びニューヨークで合流、個人・法人から人形を買い取りたい、引き取りたいとの申し出もあったが、各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになった。こうして引き取られた人形の中には、道中での移動展示を行っていくうちにその都度人形と台座を取り外す必要があった経緯もあったため(人形自体は地域名の旨は書かれていない)、各地をまわる間に人形本体と台座が入れ違いになっていたものもある。人形のその後は行方不明になったものもあるが、一方で日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く(来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたケースもある)、48体(平田郷陽作の関係地不明の1体を含む)が現存している。答礼人形本体も長年収蔵された結果、各部に劣化が見られたこともあり、多くの人形が日本へ送られ、職人たちにより修復されていった。この外、人形交流の一環として日本に里帰りした人形が送別会が行われた故郷の博物館やデパートなどで展示され、青い目の人形と同様、新たに日本人形がアメリカへ贈られている(後述)。これらの人形とは別に、自治体独自で「ミス岡崎」(1928年。現在はニュージャージー州ニューアーク市の個人所有)、「ミス福江渥美」(1927年。現在はロサンゼルス郊外のフラートン市のメイン図書館所蔵)等も寄贈されている。643体が寄贈され、26体が現存。石狩支庁※札幌市 - 19体が寄贈された。※札幌市以外渡島支庁檜山支庁後志支庁空知支庁※砂川地区には下記の4体が寄贈されている上川支庁留萌支庁宗谷支庁網走支庁(現存なし)胆振支庁日高支庁十勝支庁釧路支庁(現存なし)根室支庁(現存なし)根室支庁に所属する千島列島にも人形が贈られている(人形の配布先としては、外地ではなく北海道に含まれる)。220体が寄贈され、9体が現存。寄贈先は出典を参照。以下に現存の人形がある地域と送られた数(寄贈当時)を示す。東津軽郡25体、青森市15体、北津軽郡26体、上北郡19体、下北郡12体は現存せず。弘前市 - 12体南津軽郡 - 33体中津軽郡 - 19体三戸郡 - 37体西津軽郡 - 22体263体が寄贈され、18体の現存が確認されている。寄贈された地域の内訳は出典を参照。※盛岡市 - 11体※岩手郡 - 20体※紫波郡 - 13体(現存なし)※稗貫郡 - 14体※和賀郡 - 15体※胆沢郡 - 13体※江刺郡 - 12体※西磐井郡 - 14体(現存なし)※東磐井郡 - 16体※気仙郡 - 16体※上閉伊郡 - 16体(現存なし)※下閉伊郡 - 16体(現存なし)※九戸郡 - 14体(現存なし)※二戸郡 - 13体221体が寄贈され(内訳:(師範学校)附属小学校(2)、盲唖学校(1)、公立小学校(195)、幼稚園(13)、保育園など(10))、10体が現存。出典も参照。190体が寄贈され、12体が現存205体が寄贈され、12体が現存323体が寄贈され、17体が現存(他に秋田県湯沢市立湯沢東小学校の人形がいわき市の個人宅に保管されている)。出典も参照人形の配分については次の通り(寄贈当時の行政区分による)。会津地方(若松市:5、北会津郡:10、南会津郡:7、耶麻郡:15、河沼郡:10、大沼郡:10)、中通り(福島市:5、郡山市:5、信夫郡:18、伊達郡:30、安達郡:21、安積郡:11、岩瀬郡:12、東白川郡:13、西白河郡:20、石川郡:10、田村郡:30)、浜通り(岩城郡:45、双葉郡:11、相馬郡:20)、幼稚園:15茨城県には246体が寄贈され、11体の現存が確認されている。213体が寄贈され、5体が現存する。県内には142体が寄贈され、19体現存する。178体が寄贈され、12体が現存。出典はこちら。所沢市 - 5体が寄贈された。秩父郡 - 16体が寄贈された(後述の旧・坂石小学校も含まれる)。川越市 - 11体が寄贈された(小学校10体、幼稚園1体。人形は現存しない。)越谷市 - 6体が寄贈された。大里郡(昭和2年当時) - 10数体が寄贈されている。その他地域214体が寄贈され、11体が現存。寄贈先の学校は出典を参照。葛飾郡 - 30体(現存なし)印旛郡 - 23体香取郡 - 25体千葉郡 - 10体(現存なし)千葉市 - 5体(現存なし)市原郡 - 13体(現存なし)海上郡 - 12体長生郡 - 11体(現存なし)山武郡 - 17体匝瑳郡 - 7体(現存なし)君津郡 - 21体安房郡 - 24体夷隅郡 - 16体(現存なし)568体(うち東京市へは293体。この外「ミス・アメリカ」など50体の各州代表人形)が寄贈され、11体が都内に現存。※東京都内各州代表人形たち各地域の青い目の人形※東京都外から譲り受けた人形166体が寄贈され、12体が現存。横浜市 - 60体以上の人形が寄贈された(現存する7体のうち4体は市内。他の3体は市外より寄贈)。横須賀市 - 20体余りが寄贈された(人形は現存せず)。その他地域418体(398体と後に20体が追加)が寄贈され(新聞で公表された内訳はこちら)、12体が現存。下記に昭和2年当時の人形が配られた地域、個数を示す。新潟市 - 21体長岡市 - 11体(現存なし)高田市 - 6体(現存なし)北蒲原郡 - 31体中蒲原郡 - 30体西蒲原郡 - 30体南蒲原郡 - 17体(現存なし)東蒲原郡 - 10体(現存なし)刈羽郡 - 25体古志郡 - 25体(現存なし)三島郡 - 18体(現存なし)中魚沼郡 - 19体(現存なし)北魚沼郡 - 15体(現存なし)南魚沼郡 - 21体(現存なし)中頚城郡 - 42体(現存なし)東頚城郡 - 12体(現存なし)西頚城郡 - 17体岩船郡 - 16体(現存せず)佐渡郡 - 22体150体が寄贈され、6体が現存。205体が寄贈され、3体が現存。152体が贈呈された。1体のみ現存。出典を参照。山梨県では129体の人形が寄贈され、第一便の前橋丸と第七便のりすぼん丸の人形が割り当てられた。人形は1927年(昭和2年)3月14日の甲府市の春日小学校で歓迎会、展覧会が行われ、県内の幼稚園や小学校へ配布された。戦時下では多くの人形が処分され、1945年(昭和20年)7月6日-7月7日の甲府空襲の戦災で焼失したものも多く、現在では進徳幼稚園(甲府市)所蔵の「イヴァンヂリーン」P、相川小学校(甲府市)所蔵の「ジェネラ」、河口小学校(富士河口湖町)蔵の「ジェニサガ」P、増穂町民俗資料館(増穂町。富士川町立増穂南小学校より譲り受けた。増穂町には増穂小学校にも「ドーリー・マジソン」が寄贈されたが現存せず)蔵の「ヘルン・モナー」、谷村第一小学校(都留市)蔵の「メリー」(戦後、校舎改築の際に焼却処分される寸前に救出された。)の計5体が現存し、一部の人形にはメッセージが添えられた「パスポート」も付属している。また、日本側からアメリカへ送られた答礼人形のなかには市松人形の「山梨富士子さん」が含まれ、現在はワイオミング州シャイアンの博物館に所蔵されている。現在では人形が現存する学校において日米交流や教材として利用されている。286体が寄贈され(当時の新聞に公表された内訳は出典を参照)、28体が現存(名古屋市の個人所有を含む)。※長野市:10体が寄贈されている。※長野市以外235体が寄贈された。うち2体が現存。※出典参照253体が寄贈され、7体が現存。349体が寄贈され、現存するのは9体(+県外より1体)※東三河地区※西三河地区※尾張・知多地区(現存なし)※名古屋市(元々市内にあった人形は現存なし)三重県には194体の人形が寄贈され、県内の小学校や幼稚園に配布された。戦時下で多くの人形が処分され、現存しているものは9体に限られる(内1体は東京に保管)。津市:74体が届けられた。松阪市:18体が寄贈された。その他地域135体が寄贈され、4体が現存。※ 大津市:20体が配布された(小学校16体、幼稚園4体)。※ その他地域262体が寄贈され、8体が現存。失われた人形の中には宝鏡寺で供養されたものもあった。※京都市※舞鶴市:11体が贈られた。※その他地域429体が寄贈され、4体が現存する。ちなみに、高槻市には福島県会津若松市より送られた「ジュリー」が個人宅にて保管されている。373体が寄贈され、12体が現存。144体が寄贈され、5体が現存する。寄贈された177体のうち、1体のみ現存。出典:『和歌山県教育史』編さんだより No.4(平成14年7月)(アーカイブ)、わかやま発見(和歌山県教育委員会HP)107体が寄贈され、3体が現存する。出典を参照。182体が寄贈され、2体が現存する。238体が寄贈され、3体が現存する。326体が寄贈され、5体が現存する。200体が寄贈され、5体が現存。※愛媛県以外には1体ずつしか残っていない。152体が寄贈された。108体が寄贈された(内訳:幼稚園21、小学校74、女学校13)。出典はこちら※以下に贈られた地域と体数を記す。三豊市 - 14体高松市 - 39体その他地域214体のうち、6体が現存。出典。187体が寄贈された。出典を参照。259体が寄贈され、3体の現存が確認されている。寄贈された98体のうち、現存は次の1体のみ。214体が寄贈され、2体が現存。出典内訳:師範学校4、長崎市29、佐世保市13、西彼杵郡17、東彼杵郡16、南高来郡18、北高来郡16、北松浦郡18、南松浦郡15、壱岐11、対馬14。241体が寄贈され、2体が現存。182体が寄贈され、4体が現存。131体が寄贈され、1体のみ現存。県内の人形が贈られた小学校・幼稚園については出典を参照。209体が寄贈されたが、現存が確認されていない。63体(うち小学校へは47体)が寄贈されたが、現存が確認されていない。旧外地へは内閣拓殖局へ319体が割り当てられている。20体が寄贈された。出典も参照。93体が寄贈され、88体が役所・学校などに贈られた。出典はこちら。※内訳:台北州20、新竹州8、台中州17、台南州24、高雄州12、台東庁2、花蓮港庁3、澎湖庁2(日本統治時代の台湾行政区分による)193体が寄贈された。10体が寄贈された(大連3体、旅順2体、他5体)。日本から送り出す際は、「筑波かすみ」や「東京花子」などのように郷土にちなんだ名前が名づけられ、アメリカでは郷土名を取ってミス○○といった形で呼ばれている。但し、既に説明の通り、台座と人形が入れ替わってしまっているものがあり、これに気づいたのは後年であるため、長い間、台座に記された名前が贈り元だとして扱われてきた。例えば、ミス三重は三重子(贈り元が三重県)ではないことが判明しているが、「三重から送られた人形」として扱われている。里帰りについては送り元の都道府県・都市に戻った時期を示し、国内での展示会や修繕のためだけに戻ったものは含まれない。なお、昭和2年当時の48州及びワシントンD.C.のうち、オクラホマ州及びニューメキシコ州には答礼人形は贈られていない(うちニューメキシコ州には後に「ミス山口」が移されている)。この外、関係地不明の1体(2010年発見。平田郷陽・作)が現存する。受取先:出典を元に記述。太字は取り違えがないまま現在に至っている人形。この外にも、青い目の人形に関する絵本や紙芝居、演劇なども発表されている(外部リンクも参照)。

出典:wikipedia

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