詰将棋(つめしょうぎ)とは、将棋のルールを用いたパズル。駒が配置された将棋の局面から王手の連続で相手の玉将を詰めるパズルで、元は指し将棋(詰将棋と区別する上でこう呼称する)の終盤力を磨くための練習問題という位置づけであったと思われるが、現在ではパズルとして、指し将棋から独立した一つの分野となっている。造物、詰物、図式ともいう。通常の指し将棋と目的が同じであるため、実戦的な詰将棋は指し将棋の終盤力の養成に大いに役立つ。詰将棋として独立した作品になると、升田幸三が「詰将棋の妙味はハッとする鮮やかさに尽きる」と述べているように、一般的な常識や価値観と異なる、捨て駒や、不利に思われる不成、利きの少ない限定打、などの意表をついた手筋や構想があり、それらを解く、もしくは創作することが楽しみとなる。最短のものは1手詰、以下3手詰、5手詰、7手詰…、と奇数の手数となる。これは、先手(攻め方)から指し始めて先手の指し手で詰め上がるためである。数手から十数手までの比較的平易なものが新聞紙上やテレビ、将棋専門誌などに紹介される一方、より難解で手数の長い作品を取り扱う書籍や専門雑誌も存在している。代表的な専門雑誌としては『詰将棋パラダイス』があり、将棋専門誌である『将棋世界』と『近代将棋』も詰将棋の投稿コーナーを連載している。『詰将棋パラダイス』は「看寿賞」を、『近代将棋』は「塚田賞」を設け、優れていると判断された作品に賞を贈っている。現代の代表的な詰将棋作家に黒川一郎、七條兼三、駒場和男、大塚敏男、山田修司、北原義治、柏川悦夫、岡田敏、酒井克彦、田中至、上田吉一、若島正、山本昭一、山崎隆、森長宏明、柳田明、伊藤正、藤本和、添川公司、橋本孝治、相馬康幸、田島秀男、桑原辰雄などがいる。また、プロ棋士が詰将棋を創ることも多いが、出版物の多くは終盤力を鍛錬するための、実戦的なトレーニングを目的としたものが主流である。一方で、前述の詰将棋作家のように個性的な作品を創作する棋士も少なくない。創作を得意とするプロ棋士(物故、引退も含む)では塚田正夫や二上達也を始め、内藤國雄、谷川浩司、伊藤果、中田章道らが有名である。他に原田泰夫、高柳敏夫、清野静男、五十嵐豊一、熊谷達人、北村昌男、丸田祐三、勝浦修、加藤一二三、加藤博二、佐藤庄平、佐藤大五郎、大内延介、桐山清澄、関根茂、中原誠、小林健二、高橋道雄、浦野真彦、森信雄、北浜健介、佐藤康光、三浦弘行、船江恒平、斎藤慎太郎らがおり、かつて将棋世界では全棋士出題の詰将棋作品集などが付録となっていた。また、新聞や雑誌に寄稿したり、サイン代わりに自作詰将棋を記述することも多い。女流棋士の詰将棋作家では早水千紗などが得意としている。2011年以降は将棋初心者やライト層向けに作られた、5手詰未満の詰将棋本が多数刊行されるようになっている。チェスにもプロブレムと呼ばれる類似したパズル問題が存在する。ただし、チェックは連続しなくてよい。詰める側を攻方とよび、詰められる側を玉方とよぶ。問題作成上の制限として次のようなものがある。詰将棋は江戸時代の初期に誕生したとされる。これより古い例では、遊戯史研究家の増川宏一が、『新撰遊学往来』の各種遊戯の記述に含まれている「作物」という表現を詰将棋とみなす説を挙げており、これが事実であれば15世紀には詰将棋があったことになる。現存する最古の詰将棋は慶長年間(1596-1615)に出版された初代大橋宗桂(1555-1634)の『象戯造物』(俗称『象戯力草』)である。これは将棋の終盤の考え方を教えるものであり、現在の詰将棋のように最短手順ではなかったり、終局時に攻め方の持ち駒が余る問題もあった。宗桂以来、名人襲位時に幕府に詰将棋の作品を献上することがならわしとなり(献上図式)、詰将棋は大きく発展していった。三代伊藤宗看によって享保十九年(1734年)に江戸幕府に献上された『将棋作物』(俗称『将棋無双』『詰むや詰まざるや』)と、宗看の弟でもある伊藤看寿によって宝暦五年(1755年)に献上された『将棋図式』(俗称『将棋図巧』)とが、江戸時代における詰将棋の最高峰といわれている。伊藤宗看は詰将棋のルールを確立した。伊藤看寿の名は、現代詰将棋の傑作に与えられる「看寿賞」に残っている。九世名人六代大橋宗英以降、詰将棋の献上は行われなくなり、詰将棋の発展は一時停滞した。復活するのは昭和に入り、「将棋月報」が詰将棋を掲載するようになってからである。以降、詰将棋は指し将棋とは独自の発展をし、現在に至るまで極めて高度な作品や芸術的な作品がいくつも発表されている。現在(2009年8月時点)発表されている詰将棋のうち、最長手数のものは、橋本孝治作の「ミクロコスモス」(『詰将棋パラダイス』1986年6月号発表、後に改良)の1525手詰である。このような専門性、芸術性の一方で、詰将棋は終盤力の養成としての必需品、またはそれに派生し大衆文化として発展を遂げた側面も持っている。戦後まもなく、強豪棋士でもあった塚田正夫(名誉十段)は詰将棋の名手でもあり、盛んに一般向けの棋書が出版された。塚田は終盤力養成に詰将棋は欠かせないと主張したことで、実戦型詰将棋という概念を生み出した。こうして終盤力養成=詰将棋という分かりやすい図式が生じたことで、詰将棋に特化した棋書は詰将棋愛好家にも受け容れられ大いに増加した。2000年代からは浦野真彦の『ハンドブック』シリーズが好評を博すなど超短手数、かつ手数特化の詰棋書が相対的に多くなっており、詰将棋は単純に終盤力の養成だけでなく、頭の体操やパズルとして、将棋に嗜まなかったライト層にまで裾野が広がっている。また、詰将棋は古くからサラリーマン層に購買客が多いスポーツ新聞、週刊誌、または大手新聞などにも詰将棋欄が設けられ出題されることも少なくない。これらは電車で立ち読みする時や理髪店の待合など暇つぶしのアイテムとしても重宝された一面も持つ。いずれも、優れた詰将棋作品に与えられる賞である。看寿賞(かんじゅしょう)は全日本詰将棋連盟が制定した賞で、「詰将棋パラダイス」誌で発表される。第1回の発表は1950年だったが、その後中断があり、第2回の発表は1961年となっている。第2回以降は、毎年受賞作を発表している。詰将棋に与えられる賞の中でもっとも価値のある賞であるとされる。短編(17手以下)、中編(19~49手)、長編(51手以上)の各部門で表彰し、その他曲詰などに対して特別賞を設定している。江戸時代の棋士で、詰将棋作家としても第一人者であった伊藤看寿の名にちなんで制定されている。プロの棋士の受賞もあり、1983年に浦野真彦が短編賞、1995年に浦野真彦、1997年に谷川浩司、1998年に内藤國雄がそれぞれ特別賞を受賞している。浦野真彦は2004年度から同賞の選考委員も務めている。また、2004年度中編部門では、当時奨励会員(二段)の船江恒平が受賞している(船江は2010年度に四段昇段)。受賞作の作者名一覧。 「 」 は作品名。※ 1985年長編賞の藤本和の作品には同年に発表された同作者の「虹色の扉」が集めた票が算入されている。そのため、47手詰(本来は中編賞)だが長編賞を与えられている。※ 摩利支天氏との合作による受賞1回を含む。塚田賞(つかだしょう)は 「近代将棋」 誌(2008年6月号で休刊)が制定した賞で、同誌上で発表されていた。塚田正夫実力制第二代名人の名にちなんで設けられた。塚田自身も、病没する1978年まで選考にあたっていた。短篇(20手未満)・中篇(40手未満)・長篇(41手以上)の各部門で、年1回選考を行っていた。塚田賞の歴代受賞作受賞作の作者名一覧。 「 」 は作品名。※ 後に、作品集「ゆめまぼろし百番」 (2006年) 98番で「御殿山囃子」と改題。※ 上田吉一・若島正両氏合作による受賞1回を含む。上述の通り、詰将棋は指し将棋と独自の発展を遂げているため、詰将棋特有の用語も多数生まれている。ただし、人によっては基準が異なる場合もある。詰将棋、特に長手数の作品には、以下のような詰将棋特有の技法が盛り込まれているものが多い。これらの技法を趣向と呼ぶ。ルールを変更したり、チェスや中将棋などの駒を追加する詰将棋を「フェアリー詰将棋」という。例を挙げると以下のようなものがある。安南詰・対面詰などは指し将棋から詰将棋に移植された変則ルールである。詰将棋には第三者による評価が行われる。詰め手順の技術や芸術性についての検討のほか、完全作であるかどうかが大きな評価の基準となる。不完全作は完全作に比べ、大きく評価が落とされるか、内容によっては「詰将棋ではない」として評価されないこともある。完全作であるとする基準は、以下のようなキズ(欠点)を持たないこととなる。詰将棋特有の用語については本項「詰将棋の用語」節のその他を参照のこと。詰将棋界の独自の慣習があり、例えば新しく創作された詰将棋が将棋雑誌に詰将棋の「作品」として掲載されるかどうかは、慣習によるところが大きい。過去に発表された作品の存在や構想が大きく尊重されており、概ね以下のような慣習となっている。も参照。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。