ミスター・ヒト(Mr. Hito)のリングネームで知られる安達 勝治(あだち かつじ、1942年4月25日 - 2010年4月21日)は、日本およびアメリカ合衆国やカナダで活動したプロレスラー、トレーナー、ブッカー、マネージャー。大阪府大阪市天王寺区出身。プロレス転向前は大相撲力士として出羽海部屋に所属していた。力士時代の最高位は幕下17枚目。元阪神タイガースの安達智次郎は甥に当たる。大相撲時代は出羽海部屋の力士として、浪速海の四股名で幕下17枚目まで進んだが、1967年1月に九重部屋独立騒動の余波を受け廃業し、日本プロレスへ入門。同じく大相撲からプロレスに転身した永源遙とのタッグで人気を得る。日本プロレス崩壊直前の1973年にアメリカへの海外武者修行へ出発し、修行先で日本プロレス崩壊を迎える。日本プロレス崩壊後は海外を中心に、フリーランスの日本人ヒールとして活躍する。日本では国際プロレスのリングに再三登場し、上田馬之助やキラー・トーア・カマタのパートナーとなってラッシャー木村らと流血戦を繰り広げた。海外では、カナダのカルガリーで活躍していたトーキョー・ジョーこと大剛鉄之助が交通事故に遭ったため、その代役としてプロモーターのスチュ・ハートに呼ばれたことを契機に、1970年代中盤より同地のスタンピード・レスリングを主戦場とするようになる。1978年からは全日本プロレスに所属していたミスター・サクラダとのタッグチームで活動し、同年10月に開催された国際プロレスの『日本リーグ争覇戦』にも揃って出場。翌1979年は、2月にブレット・ハート&キース・ハート、7月にドリー・ファンク・ジュニア&ラリー・レーンを破り、カルガリー地区認定のインターナショナル・タッグ王座を獲得した。以降もサクラダと共に各地を転戦し、アメリカ南部のNWAの主要テリトリーにも参戦。1979年8月にはフロリダにて、スティーブ・カーン&ジム・ガービンを下しNWAフロリダ・タッグ王座にも戴冠した。テキサス州ダラスでは1980年1月から7月にかけて、ホセ・ロザリオ&エル・ハルコン、ケビン・フォン・エリック&ケリー・フォン・エリックなどのチームからNWAアメリカン・タッグ王座を奪取している。サクラダとのコンビ解消後はシングル・プレイヤーとなってカルガリーに定着、1981年にはデビッド・シュルツを相手に同地区のフラッグシップ・タイトルだった北米ヘビー級王座を争った。カルガリー時代はブッカー、トレーナーとしても手腕を発揮し、ダイナマイト・キッドやブレット・ハートを筆頭に、クリス・ベノワ、馳浩、獣神サンダー・ライガー、橋本真也、リッキー・フジなどを指導。国際プロレス崩壊後は新日本プロレスとの関係が深まり、カルガリーに武者修行に来た若手選手の世話や外国人選手のブッキングなどを担当していたが、ギャラの支払いを巡って新日本との関係が悪化してからは全日本プロレスに接近し、1984年11月にはダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスを全日本に電撃移籍させた。リングネームは昭和天皇の名である裕仁(ひろひと)の後ろ二文字を借用したというのが通説だが、本人の口から真相が語られたことはなかった。ちなみに、作家の中島らもとの対談では、カナダに渡ったときは当初「ミスター・ヒロヒト」とされており「いくらなんでも畏れ多い」と、慌てて後ろ二文字のみに直してもらったと話している。引退後は大阪・玉造にて姉の経営していたお好み焼き屋を引き継いだ。以降も関西地区の各団体興行で試合を観戦する姿が目撃されていた。2005年カナダへ移住。2006年8月27日、馳浩引退試合に来日しセレモニーへ参加した。2010年4月21日、糖尿病の悪化による左化膿性股関節炎のため、大阪市内の病院にて死去。。現役時は豪放磊落な振る舞いで、プロレス界の先輩、永源遙に対しても呼び捨てだった(相撲では安達の方が先輩に当たるため。引退後も永源とは仲がよかった)。また口八丁振りではミスター珍に負けないほどだった。だが年を重ね選手を育てる側に回ってからは非常に面倒見のいい人物としても知られている。特に橋本真也は安達のことを慕っており、海外武者修行から帰国する際に「僕にはお父さんがいない(幼少時に蒸発した)ので、安達さんをお父さんのように思っています」と手紙を残したり、ZERO-ONEでは自身のマネージャーとして招いたりした。安達も橋本が死去した時には非常にさみしそうな表情を見せていた。アントニオ猪木、ジャイアント馬場両名の金銭感覚を問われた際「猪木さんは、金の使い方を知らない人。馬場さんは、金の使い方を忘れた人」と答えていた。
出典:wikipedia
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