広瀬 叔功(ひろせ よしのり、1936年8月27日 - )は、広島県佐伯郡大野町(現:廿日市市)出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)・監督、野球解説者。ホークスがパ・リーグの盟主として君臨した1950年代後半-1960年代に「鷹の爪」とも呼ばれたリードオフマン。愛称は「チョロ」。通算盗塁数歴代2位、通算盗塁成功率歴代1位。建設請負業を営む父・千代治と母・マツ子の間に生まれた。7つ上の姉は中学校教師で嫁ぎ相手も中学校教師、次の姉も短大講師に嫁ぐという家庭に育ち、広瀬も小・中学校のころは、将来は学校の先生になると決めており、普通科のある大竹高校に進学した。父・姉も高校で野球を続けるすることには反対しており、「野球をやらない」という一札を本人(叔功)からとっていた。父は「広大にでも入ってもらいたい」と思っていたが、入学後、毎日のように野球部から勧誘を受け、家族に黙って「とうとう野球部に入ってしまった」という。尚、弟(邦敏)は1965年の第一回ドラフト会議で、巨人から4位指名を受けている(入団せず)。高校時代は2年生秋から投手をし、3年夏にはエースで4番であった。二塁走者をけん制しようとしたが、野手が動かないので、マウンドから二塁へ向かって走り走者を刺した、という逸話を残している。2年生の時に先輩の森内勝巳に誘われ、地元・広島の入団テストを受けて共に合格した。森内は卒業と同時に広島に入団したが、遊び半分で受けただけの広瀬は広島には入らなかった。大竹高校は予選にも勝てない弱小高校で(広瀬は自著で「修学旅行と試合が重なったら躊躇なく修学旅行を取るような野球部だった」と述懐している)、広瀬にも注目は集まらなかったものの、1954年に当時の監督・山本(鶴岡)一人の知人・上原清二(広商で鶴岡と同窓)の強い勧めで南海ホークスにテスト生の投手として入団した。テスト時、ネット裏で観ていた山本(鶴岡)は「大したピッチャーとちゃうで。法政に行かせとけ」といったが、上原がねじ込んでやっと採用してもらったという(後年、上原は「オレの方が選手を見る目があったやろ」と自慢していたという)。尚、大竹高校の後輩の一人には、やはり俊足で鳴らした簑田浩二がいる。首脳陣にアピールするため、1年目のキャンプでろくに肩も作らず投げ込み練習を続けた結果、肘を痛め、投手としての練習をこなせなくなった。広瀬は高校時代から武器にしていた持ち前の俊足と強肩を活かすため、野手に転向することを思いつき、自ら二軍監督に申し出て転向した。当初は外野手であったが、のち内野手となった。2年目の1956年、4月26日の阪急戦で米田哲也から公式戦初打席安打、7月29日の高橋戦にはスタメン出場を果たし4打席4安打、初盗塁も決めた。7月31日の大映戦でも2打席安打を続け、プロ初打席から7打席連続安打を記録した。当時、パ・リーグ記録部に勤めていたスポーツライターの宇佐美徹也は「塁間をするすると滑るような"トカゲ"を思わせる走塁に、当時のネット裏は大変な選手がでてきたものだと、異常な興奮に包まれたのを覚えている」と語っている。翌1957年、シーズン途中から遊撃手に抜擢され、同年は114試合に出場して打率.284(規定打席未達)、25盗塁を記録してレギュラーに定着。1958年には120試合に出場し打率.288(リーグ7位)、33盗塁を残して成績を上げていった。1959年には打率.310(リーグ4位)を記録するなど遊撃手としてチームの日本一に貢献。このころはまだ、盗塁王でもなく盗塁成功率も6~7割台と低かったが、1957年のレギュラー定着時から「プロ随一の快足」として評価されていた。但し、遊撃手としては、守備範囲が広く無類の強肩であったが悪投が多く(後述)、1958年には葛城隆雄と並ぶリーグ最多の42個の失策を記録している。1961年、入団してきた小池兼司の遊撃守備を見て、守備が自身よりも堅実な小池に遊撃手を任せた方がチームのためになるのではないかと考えた広瀬は、監督の鶴岡一人に自ら提案し、8月から外野手(中堅手)に転向した。同年に打率.296(リーグ10位)、42盗塁の成績で盗塁王に輝くと、1965年まで5年連続盗塁王となり、リードオフマンとして杉浦忠、野村克也、皆川睦雄らと南海の黄金時代に大きく貢献した。ダイヤモンド一周/13秒9、50メートル/5秒5の俊足とグラウンドを駆け回る好守で鳴らし、「プロ野球のスピード感を変えた男」ともいわれた。1963年(同年と翌1964年の2年間のパ・リーグは150試合制)には187安打を放ち(打率.299(リーグ5位))、最多安打を記録。これは1994年にイチローに抜かれるまで31年にわたってパ・リーグ記録だった。同年の676打席はパ・リーグ記録(2005年に赤星憲広に抜かれるまで日本記録)、626打数は日本記録である。1963年オフ、当時あったA級10年選手制度が近かったことから、満額のボーナス目当てに初めて猛練習を自身に課した。後年に「後にも先にもあれほど練習したことは無い」と語るほどの状態で迎えた1964年、3月14日の開幕から安打を量産すると、89試合目まで打率4割を維持(1989年にウォーレン・クロマティに抜かれるまでプロ野球最長記録)した。シーズン前半はしばしば3番打者も務め、2本塁打を含む5打数5安打、7打点を記録した試合もあった。しかしシーズン途中の6月17日、尾崎行雄の速球を打ち返した際に(二塁打)左手首を痛め、以降は腱鞘炎に苦しむようになった。手首を痛めてからはスタメンを外れたが、優勝争いを続けるチームのため、治療を続けながら代走で試合に出場。8月中旬には何とかスタメン復帰したものの、右手一本で打つようなシーンも多くなり、後半戦は調子を落とした。それでも最終的には2位に位置した張本勲の打率.328に大きく差をつける打率.366・72盗塁という自己最高の成績で、首位打者と盗塁王を獲得。打率.366は1985年に落合博満に抜かれるまで長らく右打者の歴代最高打率だった。また、開幕から100安打到達61試合も、1994年イチローの60試合到達まで日本記録だった。日本シリーズでも打率.345を記録するなど活躍し、チームも日本一を達成した。1965年も打率.298(リーグ5位)・39盗塁の成績を残してチームのリーグ優勝に貢献。同一球団での実働10年となり、A級10年選手制度が適用されたが、南海球団側は広瀬が前年に腱鞘炎を患ったことや同年シーズンも故障で離脱していた時期があったことから、満額のボーナス支払いを渋った。長年主力選手としてチームに貢献してきたプライドを傷つけられた広瀬は、球団と大いに揉めた。結果的にこれが球団側の提示する給与面に不満のあった鶴岡に監督退任を考えさせる一因ともなった。手首の腱鞘炎で選手寿命を縮めた中西太同様、広瀬もこの故障に長く苦しんだ(当時は腱鞘炎は有効な治療法が確立されていなかった)。広瀬の打法は、手首の強さと速いスイングで、球を出来るだけ手元に引き付けてコンパクトに打ち返すものであったが、中西と同じく、手首の強さは故障の原因ともなる両刃の剣であった。1965年までは通算打率もほぼ3割をキープしていたが(4498打数1345安打、.299)、1966年、1967年には欠場・長期離脱で規定打席未達となり、以後成績を落としていき、球団側の懸念が当たる格好となっている。1968年には打率.294(リーグ5位)、1969年には.284(リーグ13位)を記録したものの、盛時の成績を残すことは出来なくなった。1970年10月14日の阪急ブレーブス戦(優勝が決まった後の消化試合)では、1試合だけ投手として登板し、二回を2被安打3四球無失点で切り抜けた。1972年7月1日の西鉄戦で、史上6人目となる通算2000本安打を達成。晩年は左手首の腱鞘炎に加え、右肩を痛めるなど、故障との闘いであった。1973年からは極端に出場機会が減り(後述)、引退を考えたが、球団からは「もうちょっとやってくれ」と言われ、兼任監督であった野村克也からも「ピンチヒッターがいなくなる」として断られ、現役を続行。1977年に引退した。現役引退後は解任された野村克也の後を受け、南海の監督となり、1978年から1980年の3シーズンを務めた。現役引退後に渡米し米国の野球を学ぶ計画を立てつつあったが、突然の監督要請を受け「球団代表も困り果てていて、何とか引き受けてくれ、という感じで頼まれては、断り切れるものではない」として否応なく引き受けた。野村解任騒動でバラバラになった選手の気持ちをまとめようと「団結と和」を基本理念に掲げスタートを切った。しかし広瀬監督就任の段階で、江夏豊は野村に同調して球団のやり方に納得できないとして広島へ移籍、柏原純一も同様に南海球団に反発して日本ハムへ移籍した(柏原は日本ハムで移籍1年目から4番打者となっている)。広瀬の在任中には、金城基泰の抑え転向(1979年に最優秀救援投手)、片平晋作の一塁レギュラー定着(1979年には打率.329をマーク)、村上之宏の新人王(1978年)、などの明るい面もあったものの、野村退団に伴う主力選手の移籍(前述)や、チーム再興の柱と期待していた主砲門田博光のアキレス腱断裂(1979年)もあり、戦力は整わず成績は下位に低迷した。広瀬は、古き良き「鶴岡時代」への回帰を目指し、野村の野球を継承せず、「泥まみれ野球」を標榜、ユニフォームも復古調のものに変更(鶴岡監督時代の象徴でもあった肩と袖の太ラインを復活)することも含め、野村色を一掃した。スコアラーの提出するデータをあまり重視しなかったため、南海に29年在籍した尾張久次は南海を退団して西武ライオンズへ移籍した。藤原満らを中心に「団結と和」は達成されたが成績には結びつかなかった。藤原は「広瀬さんが監督になられて、全く違う野球になった。いいとこだけをうまく継承してもよかったかなとは思いました。」と語っている。広瀬自身は「誰もおらんからやってくれ、そんな感じだった。」「そのころの南海電鉄には、昔のように資金もないし、球団の人気もない。だから選手を集めることもできない。」「投手不足でマネジャーの上田卓三を現役復帰させたりした。」「楽しい思い出がほとんどない監督生活であった。」などと語っている。監督辞任後、1981年から1990年にかけてNHK野球解説者(この時は全国中継にも出演)。1990年はスポーツニッポン野球評論家も兼務。1991年から古巣・南海の後身であるダイエーの守備走塁コーチに就任。1991年には、大野久(42)、佐々木誠(36)、湯上谷宏(30)と30盗塁以上3人を輩出して大野は盗塁王を獲得、両リーグトップのチーム盗塁(141)を記録した。翌年(1992年)、佐々木誠は首位打者と盗塁王を同時に獲得している(広瀬が達成して以来、史上二人目。1995年にイチローも達成)。1992年退任。1999年、野球殿堂入り。1993年からはNHK広島放送局の野球解説者(基本的にローカル放送のみ出演)だったが2015年まで出演。現在は日刊スポーツの野球評論家を務め、居住地も大阪府から故郷の広島県に移している。通算盗塁数は歴代2位の596を残した。シーズン最多盗塁死は1度も記録せず、通算盗塁成功率82.9%(596盗塁123盗塁死)は、300盗塁以上の選手では歴代1位の記録である。「僅差の場面でしか走らない」「打者が2ストライクに追い込まれたら走らない」等、有用な場面でのみ盗塁を仕掛ける職人肌の選手で高い盗塁技術を誇り、1964年3月から5月にかけて31連続盗塁成功と、1968年にシーズン盗塁成功率95.7%(成功44、失敗2)といういずれも日本記録を持っている。一塁から3メートル80という並外れたリードを取り、スタートしてすぐスピードに乗り、二塁ベースの手前まで全力で走り、短いスライディングで二塁を陥れた。1964年のシーズンに広瀬が4割近い打率を挙げ、さらにあまりにも走るので、日本野球機構は盗塁王を同年から連盟表彰にした。それまで日本では盗塁はあまり評価されておらず、広瀬は盗塁を認知させた最初の選手である。オリオンズ一番の俊足でプロ野球史上屈指の投手守備を誇った荒巻淳は、1956年9月8日の対南海戦で、一塁に代走で出た広瀬に対し、次打者(木塚忠助)の送りバントで二塁へ送球し野選、次々打者(蔭山和夫)の送りバントで三塁へ送球し再び野選、としたときに受けた衝撃を「バントが転がされた瞬間、アウトにできるか、できないか経験上ピンとわかる。95%は的中します。(このときも)アウトだと確信して二塁・三塁へ送球した。ところがセーフなんです。送りバントで二封できる、三封できる、と私が判断してセーフになったのは広瀬が最初でした」「広瀬は野球革命者なんですよ。たんなる盗塁王とか、脚が速いというだけではなく、彼のスピードは野球を革命しましたよ」と述べている。これを、スポーツライターの近藤唯之は「本塁打革命者は大下弘であり、脚の革命者は広瀬である」と表現している。セ・リーグの盗塁王柴田勲とは格が違い、1963年の週刊朝日による、広瀬と柴田にダイヤモンドを1周競走させるという企画(別々に走る2人を一緒に走ったかのように写真で合成)では、広瀬が本塁を踏んだとき、柴田はまだ本塁の3メートルほど手前を走っていたという。通算478盗塁・通算盗塁成功率80.8%を誇る先輩盗塁王である木塚忠助は、広瀬の盗塁を「ぼく(木塚)の全盛時代と彼(広瀬)を比較すれば、スピードとスタートでは負けないと思うけれど、真似できないのは、ベース寸前でも全然スピードの落ちないあのスライディングだ」と評している。通算350盗塁を記録し、盗塁王も2度獲得している吉田義男は、「広瀬の足は私らとはけた違いに速かった。ベスト3は、広瀬、福本、3番目は…中(利夫)も速かったけど、屋敷(要)かなあ」として、広瀬を1番に挙げている。広瀬と同時代に南海を背負い、福本とも対決してきた野村克也も「福本も確かに速い。だけど、あのバネと速さは、やっぱり広瀬の方が上やと思うね」と述べている。出し惜しみせずにもっと走っていれば、通算最多盗塁記録を現役最後の年に目の前で福本に更新されるということもなかったであろうと残念がる向きもあるが、記録のために走ることはなく、元来淡白な性格で、記録に執着することもなかった。「週刊ベースボール」(1969年5月12日号)誌上でも「記録を必要以上に意識することの多い現在(1969年)のプロ野球選手の中にあって、広瀬のような存在はまことに珍しい(記録の手帖)」と評されている。この姿勢は現役最後まで貫かれ、通算600盗塁が目前に迫っても記録達成にこだわることなく引退した。大沢啓二は「ここ一番って時にだけ走るわけよ。勝負のかかった大事な場面でな」「試合が終わってみると、あの盗塁が試合を決めたということが多かったな」と語っている。また、阪急ブレーブスの正捕手であった岡村浩二は自身のブログで、現役時代に「この選手は本当に速いな」と感心したのは福本と広瀬、とした上で、「ここで走られたら困る場面で、必ず成功させるのは広瀬さんでした。南海ホークス戦前夜は広瀬選手がケガで休んでいれば良いのにと、何回も思いました」と語っている。同じく、阪急ブレーブスの二塁手であったダリル・スペンサーは、「広瀬が一塁に出たときは、ムダなことはしない。僕はもう二塁ベースに入らない。河野遊撃手も入るな。そして捕手は二塁に投げずに三塁に投げたらいいんだ」と自嘲気味に語ったという。また、杉浦忠は「数字だけを狙っていたら、おそらく毎シーズン100盗塁以上はやっていたでしょう」と述べている。松下電器時代、監督に「社会人野球の広瀬になれ」と言われ、広瀬と同じ背番号12をもらい、広瀬を見たい一心で大阪球場に頻繁に通ったという福本豊は、「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」「盗塁や走塁で魅せてくれる足も、守備(センター)の際の動きにしても、広瀬さんのスピードは他の選手とかけ離れていた」と述べている。盗塁スタイルを福本豊と比較すると広瀬の水準の高さが分かる。西鉄ライオンズのエース稲尾和久との一瞬を巡る駆け引きは、西鉄打線-杉浦忠の対決とともに、西鉄-南海戦の白眉だった。稲尾は当初、通常の左まわりのけん制で広瀬に対抗したが、広瀬を防ぎ切れず、通常とは逆の右回りのけん制を編み出した。これは、右肩越しに広瀬を視角に捉え視野の右隅に広瀬の爪先が入ったら逆回転のひねりでけん制するもので、稲尾曰く「それほど彼(広瀬)には手こずったということなんだ」「俊敏というよりエキセントリックな盗塁というかなぁ」「彼(広瀬)の足を封じるために、右回りを用いた。彼がランナーのときだけ…」というものであった。広瀬もこれに対抗し、撒き餌を撒くように、稲尾の視界に足を入れ、けん制が来ると、上半身の反動を利用してフルスピードで二塁を奪ったという。他球団が広瀬の足を封じるのにいかに必死であったかについて次のエピソードがある。また、塁間で一旦挟まれても、動物的カンと走力でなかなかアウトにならなかった。「アイツの挟殺プレーはベンチから見ているだけで楽しかった」と野村克也も語っており、広瀬の挟殺プレー見たさに球場へ足を運んだファンもいたほどだという。1971年秋のドラフトで近鉄バファローズに入団した梨田昌孝は、晩年の広瀬について「一塁から二塁までは、当初いいようにあしらわれた。広瀬さんにはじめて"プロのすご味"を教えられた」「私の知る広瀬さんは三塁へのスチールが天下一品でした。ところが、ぼくがその三盗をアウトにしたのです。うれしかった…。でも、そのとき、広瀬さんは逆に、時の流れを感じたのかも知れませんね」と振り返っている。オールスターでも盗塁を7回すべて成功させている。野村克也は広瀬について、「野球の天才は2人しか知らない。長嶋茂雄と広瀬や。彼らは何も考えないでもすごいプレーが出来た。」、「野球生活で出会った天才が三人いる。一人は長嶋、一人が広瀬、そしてイチロー。」、「彼(広瀬)は来たタマを自在に打ち返せる技術を持っていた」、「バットの素振りしてるのなんて見たことないですよ」「とにかく、超人的なバネしてましたよ」などと語っている。広瀬自身、「(10年目のボーナスが懸っていた1964年のシーズンを除き)工夫も素振りもあまりした記憶がない」、「(腱鞘炎になってから後は)以来、素振りはほとんどしなくなった」「首位打者のタイトルも取ったから、目標達成。あとはもうエエわ、そんな感じ」「まあ、今度生まれ変わったら努力するけど、無頓着にやったのが逆に良かったのかも知れんしなあ」と述べている。工夫も素振りもろくにせずに3割前後の打率を記録(打撃ベストテンの常連、ベスト5入りは5度)し、まじめに素振りをすれば4割に近づくなど(1964年)、理論を越えた野性的なカンを持った天才プレーヤーであった。 野村は打者をA~D型の4タイプに分け、「A型」を「常にストレートに合わせて変化球に対応する理想型」としているが、広瀬が自著で「(「広瀬は何も考えないで打ちよる」とノムやん(野村)が言っているのは知っているが)何も考えなかったわけではない」と前置きしたうえで述べている打撃スタイルは、まさにこの「A型」である。広瀬を天才としているのは野村だけではない。南海一筋に選手・コーチを長年勤めてきた堀井数男は広瀬について、「ちょっと特殊で、他の選手には真似できない」「ああいう選手は(もう)出てこない(だろう)」「足が速い、肩がいい、カンがいい、人の打てないボールを打つ、そういう特殊な技能を持っていた」、1953年の首位打者・最高殊勲選手である岡本伊三美は「初めて対戦するピッチャーであったとしても、ストライクであれば1球目からバットの芯で捕えてヒットを打つことができた。残念ながら私(岡本)にはできないことだった。」と述懐している。杉浦忠も「(走塁だけでなく)打撃も天才的」としたうえで、1964年に腱鞘炎で打席に立てないときに、ある試合でピンチランナーに出たところ、味方の攻撃が続き打席が回ってきてしまった際のエピソードを伝え、「なんと、左打席に立つと、センター前にヒットを打った」と驚嘆している。鶴岡一人はそのような広瀬を「天才的だが、ちょっと軽はずみなところがある」と評し、森下整鎮、国貞泰汎とともに、チームを引き締めるための「叱られ役」としていた。また、広瀬が打率4割をキープしていた1964年当時、「日本一の選手は誰か」との問いに、近鉄バファローズの監督であった別当薫は、「みんな長嶋、王と騒ぐが、本当の意味の日本一ということになれば、それは広瀬をおいて他にはない」といい切っている。広瀬がピークを過ぎてのちに南海に入団してきた門田博光や藤原満も、「選手としてはとにかく別格でした」(門田)、「広瀬さんはとにかく半端じゃなかった。もうあんな選手は出てこんかもしれないね」(藤原)と語っている。一方で、記録に執着しない淡白な性格は打撃にも影響し、「勝負の帰趨に自分の一打が関係ないとみると、雑な打ち方をすることがある」(鶴岡一人)というところもあった。広瀬が活躍した1950-60年代はリーグ平均打率が.240~.250ほどの投高打低の時代であったが、打率傑出度(RBA)(各年度のリーグ平均を考慮して補正した相対的な打率)でみると、広瀬の通算RBAは、7000打数以上の打者(41人)では歴代10位に相当する。これは右打者では長嶋茂雄、山内一弘、落合博満、江藤慎一に次ぎ歴代5位であり、リードオフマンとしては福本豊、柴田勲よりも上位である。1番打者の能力を示す指標の一つである生還率「(得点-本塁打数)÷(出塁数-本塁打数)」をみると、広瀬の通算生還率は.421であり、有能な2番打者と強力なクリーンアップの控えていた福本(.401)や柴田(.370)を上回る(ちなみに、6000打数以上の打者(81人)で通算生還率が4割を超えるのは広瀬と福本のみである)。無用の盗塁企図を削ぎ落とした上でのこの数字は、野村の「(広瀬が三塁走者のときは)ピッチャーゴロでもなんでもいいから、前に転がしたら絶対ホームへかえってくる。なんせ、反射神経がすごかった」や杉浦の「(走者になったときの)彼(広瀬)のスタートを切る勘の良さは天才的」「あの勘の良さは"動物的カン"というしかない」という証言とも符合し、広瀬の際立った得点能力の高さを示している。快速選手らしく、二塁打、三塁打も多く、通算三塁打(88本)は歴代5位(右打者としては歴代1位)、通算二塁打と三塁打を合わせた数字(482本)は歴代7位(右打者としては山内一弘、長嶋茂雄に次ぎ歴代3位)である。 本塁打は通算131本と多くはないが、シーズン2桁本塁打を7度記録しており、ポストシーズンやオールスターゲームを含め大舞台での印象的な本塁打を打っている。固め打ちやサヨナラ安打も多く、猛打賞は通算169回(歴代9位)、サヨナラ安打は通算14本(長嶋茂雄と並び歴代5位)を記録している。三振の少ない打者でもあり、通算三振率(三振÷打数).074は、6000打数以上の打者(81人)で7番目、7000打数以上の打者(41人)では川上哲治(.056)、新井宏昌(.060)に次ぎ3番目に低い数字である。また、右打者でありながら、シーズン2桁併殺打を記録した年は1度もない。これは2000本安打を達成した右打者としては唯一である(左打者では福本豊、石井琢朗、新井宏昌、柴田勲(スイッチヒッター)が記録)。投手から野手に転向した当初は二軍で外野手であり、当時から外野守備には自信を持っていた。その後、内野手に抜擢されたが、鶴岡一人曰く「併殺プレーのトスでも、鉄砲玉のような球を投げるという調子であぶなくて見ていられないくらいだった」という状態だった。コーチの岡村俊昭に徹底的に鍛えられ、三塁手・二塁手としてデビューし、1957年からは木塚忠助の後継遊撃手として定着した。遊撃手時代は強肩かつ守備範囲が広く「木塚二世」といわれたが、エラーも多く、強肩が過ぎて大阪球場の内野スタンドに飛び込みかねない悪送球を何度もした。実際に送球がフェンスを飛び越え、スタンド中段に突き刺さったこともあった。阪神の吉田義男を真似をして捕球と送球の一体化を目指したが、早く投げようとすれば意識すればするほど、ボールよりも手のほうにボールが当たり、指先を突き指ばかりしたという(その後遺症で右手中指の先は少し曲がったという)。遊撃手時代の1958年には、最終戦(東映戦)で9回に敗戦に繋がるタイムリーエラーをし、1ゲーム差で西鉄に逆転優勝される一因を演じている。「阪神の吉田が南海にいたら南海は優勝していただろう」とのファンの声を聞いて「穴があれば入りたいくらいだった」「もう遊撃手としての資格はないのか…」と思い詰めたという。なお、同年5月10日の東映戦では、山本八郎の放った遊ゴロに対する広瀬の一塁への送球が右にそれたことが原因で(一塁手の足がベースから離れたようにも見えたが判定がアウトであったことに山本が激高)、山本が審判をビンタした上に蹴り倒し、無期限出場停止処分になるという騒動がおこっている。広瀬は「(審判を蹴り倒し、退場宣告がなされたあと)次はボールを処理したショートの私の方へ一目散に走ってくるのではないか、と腰が引けた」と回想している。外野手に転向後は、強肩に加え、センターから左右両翼まで走りこんで捕球できるほどの守備範囲を誇り、「広瀬の守備範囲は両翼のポールまで」「もっとも守備範囲の広い中堅手」といわれた。両翼の外野手であった杉山光平、穴吹義雄らには、フライが飛ぶとすぐに「広瀬!任せたぞ」と声を掛けられたという。外野手としてシーズン353守備機会の日本記録と、1試合10守備機会・1試合10刺殺のパ・リーグ記録を持っている。1972年(広瀬がレギュラーとして過ごした最後のシーズン)には、その年に創設されたダイヤモンドグラブ賞を受賞している。守備範囲を評価する指標としてのアウト寄与率(レンジファクター(RF)、簡易的には「守備機会(刺殺+補殺+失策)÷試合数」で評価される)をみると、外野手に転向後の広瀬のRFは、晩年に至るまで毎年2.5前後(2.5超えは6度記録)で同時代の外野手では群を抜いている。通算RFも2.33であり、これは守備機会3000以上の外野手において歴代3位に相当する数字である(1位・2位は戦前・1リーグ時代からの選手である坪内道典・古川清蔵)。また、強肩・送球の優劣を示す目安としての補殺数をみると、外野手として通算102補殺(1505試合)を記録しており、1補殺あたりの試合数は14.75である。この数字は、飯田哲也の14.2(92補殺/1303試合)には僅かに及ばないが、同じく強肩中堅手と評価される新庄剛志の14.65(92補殺/1348試合)、山本浩二の14.76(154補殺/2273試合)とほぼ同水準である。外野手転向後においても、1964年までは内野手(二塁・三塁・遊撃)を毎年数~数10試合務めている。ニックネーム「チョロ」の由来は、チョロチョロとネズミのように動き回ったからではない。野手転向後、よく練習する広瀬を見た鶴岡(当時は山本姓)が「広瀬はようやっちょる」と広島弁で褒めたのを、選手たちが「ちょる」だけ取って広瀬のことを「チョル」と呼んだ。鶴岡がそれを聞き違えて「チョロか、おいチョロ」と呼んだのが始まりである。広瀬が超人的なバネをもっていたことに関する逸話は数多い。野村・杉浦としばしば寮の門限を破ったが、寮に帰ると、2階へ飛び上がって開いている窓から部屋に忍び込み、玄関に回って開錠するのは広瀬の役目であったという。大沢啓二は、遠征先の宿舎で、深夜、鍵のかかったホテルの正面玄関の雨除けのヒサシに手を掛け這い登り、自分の部屋に戻っていったという話を挙げ「当時の南海には天才的な運動神経の持ち主がぞろりと揃っていたが、ヒサシのぼりの芸当ができたのは広瀬ひとりだね」と証言している。杉浦忠も、「自分の身長より高いへいに片手をちょっと掛けただけで、ピョンと尻から飛び乗った」のを見て「まるで忍者」と語っている。中百舌鳥球場の高さ3メートルほどのフェンスに飛び乗って腰掛け、周りを驚嘆させたこともあった。野村は広瀬の運動能力について、「とにかく全身これバネ。飯田哲也も凄かったが格が違う」と述懐している。現役時代は南海の同僚である杉浦忠、野村克也と非常に仲が良かった。三人で行動を共にすることも多く、鶴岡一人からは、黒澤明監督の映画「隠し砦の三悪人」をもじって「南海の三悪人」と呼ばれていた。杉浦とは家が近いこともあり、1959年の日本シリーズで最高殊勲選手に輝き、賞品に自動車をもらった杉浦に度々球場の送り迎えをしてもらっていた。その後、気を遣った広瀬は自動車を衝動買いしたが、買ってから免許をもっていないことに気付き、練習して免許をとったという。野村との仲も良好だったが、野村が兼任監督になってしばらくすると愛人の野村沙知代が球場に出入りするようになり、それ以降ほとんど口もきかない間柄になってしまったという。広瀬はその著書の中で「(沙知代が)球場へ出入りするなどしたことも、私は快く思っていなかった。以心伝心というものか、彼女も私が嫌いだったのだろう。用兵にまで口出したかどうかは知らないが、73年頃から私の出番は確実に減っていった」と記している。野村の著書の中に、広瀬に相手投手の球種を教えようとしたが断られ絶句した、というエピソードが出てくる。これに対して広瀬は「何も考えずに打つ(のでそのような情報はむしろ邪魔)」という野村の見当について否定はしていないものの、「そういう(相手投手の投球が何なのか教えてもらうという)方法で打っても意味がない」として、相手バッテリーのサインを盗むような野村流の手段を選ばぬやり方への抵抗があったとの本心を披歴している。2000年代に入ると、当時楽天監督を務めていた野村と、セ・パ交流戦の対広島戦に来場した際に試合前に取材を兼ねて会談。その際のエピソードを中継内で披露するなど、野村との関係も一時期と比較して修復されている。2013年には福岡ソフトバンクホークスの始球式に、野村とともに招かれ、久しぶりに談笑したという。1969年秋のドラフト2位でホークスに入団した門田博光は、自身が若手のころの広瀬との思い出について、「今の時代と違って、年が2つも違えば口がきけなかった時代で、球場では話し相手がいなかった。ただ、その中でも広瀬さんは気さくでよく話しかけてもらっていた」「1つ年上の富田(勝)さんが広瀬さんと仲が良かったので、富田さんから声がかかって、『博光、飲みに行くぞ』と3人で街に出ることが多かった」と語っている。また、門田は、センター(広瀬)とライト(門田)で「先輩-後輩の臨機応変の理解のやりとりがあった」として、「(広瀬の)目がウルウルしておりまだ(前夜の)酒が残っていそうだな、と思えば、『今日はそっちまで追いかけていきましょうか』と言い、『おう、頼むぜ』という言葉が返ってきた」「そんな会話があってけっこう面白かった」と述懐している。広瀬も著書にて「(若いころの門田に)やがて日本を代表するスラッガーになるだろうと思い、『カド、球種やコースが分かって打つのは勝負師やない。プロとプロの勝負に打ち勝ってこそ、初めて一流と言われる打者なんやぞ』と言ったことがある」と述べており、野村流のサインを盗むようなやり方への抵抗の一方で、正義感が強く職人かたぎの門田に共感し将来に期待していたようである。監督時代には「このサムライみたいな男に命令口調は通じない」「監督と選手の間柄ではあっても、こちらが素直な気持ちで向き合うしかなかった」とも語っている。鶴岡一人は、前述のように広瀬をチームの「叱られ役」としていたが、一方で、「広瀬にはいうところない。あいつゼニの取れる選手や」とも評価し、可愛がっていた。広瀬が鶴岡に可愛がられていたことは、用兵に感情が交ざると困るという理由で部下の仲人を断り続けていた鶴岡がその禁を自ら破り、1960年1月の愛弟子・広瀬の結婚式の仲人を務めたことからも窺われる広瀬は大の飛行機嫌いで知られていた。1969年のオールスターゲームでは、第2戦が甲子園球場で行われたあと(この試合で広瀬は江夏豊から本塁打を打っている)、第3戦が中一日おいて平和台球場で行われたが、同じく飛行機嫌いであった江藤慎一と話し込みながら一緒に寝台特急で移動するところを近藤唯之に目撃されている。現役時代は遠征は全て列車移動をしていたが、監督をしていた3年間は「もし、事故が起きて監督ひとりが生き延びたりしたら二度と人前には出られない」との思いから、必死で苦手な飛行機に乗り続けたという。伝説的なトキワ荘のリーダー格的な存在であった寺田ヒロオの代表作である「スポーツマン金太郎」では、1950-60年代の選手が数多く実名で出てくるが、広瀬も多くの場面で登場する。一例として、1959年および1961年の巨人との日本シリーズではその快速ぶりが描かれ、「巨人に金・桃(主人公の金太郎と親友でライバルの桃太郎)あれば、南海には広瀬あり」とアナウンサーに実況されている(完全版収録)。また、桃太郎の南海への入団テストで桃太郎からホームランを打ったり、1965年のオールスターゲームで金太郎のセンターへの大飛球をファインプレーでキャッチしたりしている(講談社漫画文庫収録)。水島新司の「あぶさん」では、主人公景浦安武のチームメイト(現役時代)および監督として登場する。
出典:wikipedia
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