ルイ・アレクサンドル・シロン(Louis Alexandre Chiron, 1899年8月3日 - 1979年6月22日)はモナコのF1レーサーおよびラリースト。19世紀の生まれであり、フィリップ・エタンセラン、ルイジ・ファジオーリと並び自動車の誕生や成長とそっくりそのまま年齢が重なる、モータースポーツの歴史の証人とも言える人物である。シロンは1899年、モナコのホテル経営者の子として生まれ、第一次世界大戦で兵役に就いた際、フォッシュ元帥の運転手として自動車の運転を学んだのをきっかけに興味を持つようになり、1923年、ニース近郊のヒルクライムで活躍し始めるとスイス人実業家であるアルフレッド・ホフマンの支援を得る1926年には最初の地元のレースで優勝する。その後ブガッティワークス入りを果たすとめきめきと頭角を現し5年間で10勝を挙げ、ブガッティタイプ35B () でエースドライバーへと成長した。1929年にはインディ500にドラージュを駆り出場7位へと食い込むと、1931年の第3回モナコグランプリではブガッティ・タイプ51 () で強豪を下し念願の地元優勝を遂げる。1933年にはルイジ・キネッティと共にスパ・フランコルシャン24時間レースに出場し、アルファロメオ・8C-2300 () を駆り優勝。その後エンツォ・フェラーリ率いるアルファロメオで活躍。期待に応えるも1934年フランスグランプリをP3で勝利する。しかし、メルセデス・ベンツとアウトウニオン(現アウディ)率いるドイツ勢が優勢となると1936年メルセデス・ベンツ陣営に加わる。この年のW25Kの不調によりドイツグランプリで事故により重傷を負うまでの3年間で5勝を挙げる。1937年、1938年スポーツカーレースによるタルボで1勝し、その後に引退。そして世界は第二次世界大戦へ突入し、グランプリは中止される。復帰した第二次大戦後、タルボ・ラーゴ()での1947年フランスグランプリ、1949年GP・ド・フランス優勝など往年の勢いを感じさせる活躍を見せたものの、「ゲシュタポ*」発言などで晩年を汚した感も否めなくない。その後のF1・ワールドチャンピオンシップにもマセラティから参戦し、1950年モナコグランプリで3位となり最後の表彰台で飾った。1951年はスイスグランプリのみマセラティでそれ以降はタルボから参戦したがノーポイントに終わる。それから1年置いた1953年自らオスカでフランスとイタリアにスポット参戦するも低迷な成績に終わった。この頃からの体力の衰えからかスポット参戦のみなり、そしてチェッカーフラッグを振るなどの仕事が多くなると、1954年はF1には参戦せず、ランチア・アウレリアGTでラリー・モンテカルロ総合優勝を飾った。このモンテカルロで行われているラリーとグランプリ共の異種カテゴリにおける2冠という功績とレーニエ大公からの希望もあって1955年はランチアからD50を駆ってのモナコだけのスポット参戦となった。だが10歳年下とはいえピークを過ぎた45歳のルイジ・ヴィッロレージに遅れを取る結果となり、6位でフィニッシュとなった。しかしこのレースでシロンは、55歳9ヶ月という最高齢完走記録を達成した。1956年には後の名プライベーターであるスクーデリア・チェントロから参戦。そして1958年はついに予選落ちとなってしまった。F1最高齢の58歳で引退。そして前述の功績によりレーニエ大公からモナコグランプリ及びラリー・モンテカルロ競技長「クラーク・オブ・ザ・コース」のポストを仰せつかった。1979年6月22日没(79歳)。これだけの偉業を成し遂げたモナコ人のF1ドライバーはおらず(というよりモナコ人のF1ドライバーが片手で数えられるくらいしかいない)、また地元のグランプリを得意とし、フランスとモナコでは通算6勝をあげていることも彼の力量の高さがうかがえる。その栄光をたたえてモンテカルロ市街地コースのコーナー(タバココーナーとプールサイドシケインの間)には胸像と共に彼の名前が付けられ、21世紀に入り、再興ブガッティによるスペシャリティコンセプトカーに「18/3シロン」()と言う名が冠される。
出典:wikipedia
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