クーデンホーフ=カレルギー光子(Mitsuko Coudenhove-Kalergi, 1874年7月24日 - 1941年8月27日)、旧名:青山 みつ(あおやま みつ)は、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の妻で、パン・ヨーロッパ運動によりEUの礎を築いたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の母。そのため「パン・ヨーロッパの母」と言われ、現代においては「EECの母」と言われる。美術評論家で戦後の日本の文壇のパトロンであった青山二郎の母親と光子は従姉妹でもあった。日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した人物である。日本が明治維新の頃、クーデンホーフ光子こと青山みつは、東京府牛込で骨董品屋を営む青山喜八と妻・津禰(つね)の三女として生まれた。大日本帝国憲法施行後の1892年(明治25年)、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、大使公邸に小間使いとして奉公する。クーデンホーフ伯爵が騎馬で移動中に落馬したのを、みつが手当てしたのがなれ初めだといわれるが定かではない。1893年、周囲が反対する中、青山みつはクーデンホーフ伯爵と結婚する。みつ(光子)は日本在住のフランス人カトリック神父リギョール(Francois A. Ligneul)のもとで洗礼、告解、堅信式を行った。夫のクーデンホーフ伯爵はリギョールを崇拝していた。長男・ハンス光太郎、次男・リヒャルト栄次郎の2人の子を東京でもうけた。書類が残されており、東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚と言われている。ただ、この頃の国際結婚は外国人にあてがわれた現地妻という認識が強かったため、光子は実家から表向き勘当されている。また、ハインリヒ・クーデンホーフ伯爵はこの結婚に際し、青山家に対してかなりの犠牲を払ったらしく、後年光子が帰国しなかった理由のひとつがこのあたりにあったようである。1896年に光子は、夫の祖国であるオーストリア=ハンガリー帝国へとわたる。その際には、明治天皇の皇后美子から「異国にいても日本人の誇りを忘れないでください」と激励された。クーデンホーフ家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、クーデンホーフ一族は極東アジアからきた東洋人で仏教徒でもあった光子を奇異の目で見た。ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子の庇護に努めた。その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子をもうける。光子は夫を「パパ」と呼んでいた。ハインリヒは子供たちが完全なヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母を帰国させ、光子に日本語を話すことを禁じた。光子は多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシックにかかってしまう。ハインリヒは日本への里帰りを計画するが、長期間幼い子供たちと離れることは難しかった。夫婦仲は良かったが、18ヶ国語を理解し、特に哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かな夫と、尋常小学校を卒業した程度の学力しかない妻とでは教養のレベルの差がありすぎ、子供たちのこと以外に夫婦でつながりを持てるものは少なかったが、光子も渡欧後に自分の無学を恥じて、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法などを家庭教師を付けて猛勉強した。1903年、結婚して10年ほど経つ頃、夫ハインリヒは実母の旧姓カレルギーを含めたクーデンホーフ=カレルギー姓を名乗り始めた。クーデンホーフ家がクーデンホーフ=カレルギー姓になったのは、ハインリヒ以降である。妻の光子もクーデンホーフ=カレルギー姓になった。彼女の墓は「Maria Thekla Mitsu Gräfin Coudenhove geb Aoyama」、このように青山の姓が書かれているが(「カレルギー」は省かれている)、それは旧姓を表示しているだけであり(gebとは旧姓の意)、クーデンホーフ(=カレルギー)姓に特に含まれているわけではない。1905年の日露戦争の勝利により、日本の国際的地位が高まると、光子への偏見も和らぐが、翌1906年5月14日にはハインリヒが心臓発作を起こし急死した。ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていたものの、一族が財産を巡り訴訟を起こすが、光子はこれに勝訴する。以後、夫の遺産を相続し、伯爵夫人として家政を取り仕切った。そして子供たちの教育のため、財産を処分しウィーンへ居を移す。1914年に始まる第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まった。また、ハンスとゲオルフの2人の息子が兵士として従軍したり(リヒャルトは肺の病気で徴兵を免れた)、光子自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送る。1918年に戦争が終わると、次男リヒャルトが舞台女優イダ・ローラントと結婚すると言い出し、光子と対立する。リヒャルトは家を飛び出し駆け落ちをした。光子は「河原乞食で魔女」と思っていたこの卑しい女優業のイダ・ローラントとの結婚により激怒し次男に勘当した。次男が財産分与の話をした時もこの女優へのプレゼント目当てと分かり、ムキになった。その後、この次男は「汎ヨーロッパ主義」を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。長男ハンスも、裕福なハンガリー系ユダヤ人の一族出身でオーストリア=ハンガリー帝国最初の女性パイロットリリー・シュタインシュナイダーと最初の結婚をし、のちに女優ウルスラ・グロースと再婚した。三女のイダ・フリーデリケ・ゲレスは、のち作家として成功した。長女のエリザベートはオーストリアの独裁者エンゲルベルト・ドルフース首相の秘書を務めていたが、この首相はナチスに殺された。次男が汎ヨーロッパの思想でナチスから犯罪者扱いを受けていたが、光子は日本政府に守られた。第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことに伴い、クーデンホーフ=カレルギー家も過半の財産を失った。光子はさらに、1925年に脳溢血により右半身不随となるなど不幸な生活を送った。その後はウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガの介護により静養の日々をすごすようになる。そのころの唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであった。1941年8月27日、第二次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子はオルガに見守られながら息を引き取った。ついに日本に帰ることはなかった。ロブマイヤー社のクリスタル製品は、1835年にハプスブルク家から皇室御用達の称号が与えられた。ハプスブルク家はクーデンホーフ家にとっては主君である。当時の上流階級で愛用されていたロブマイヤーのグラス・セットをクーデンホーフ=カレルギー光子も愛用した。光子はこのセットを使って自宅に招いた友人をもてなした。そこで、そのグラス・セットを1866年にデザインしたルードヴィッヒ・ロブマイヤー(1829年–1917年)は、このセットを「Mitsuko」と命名した。ロブマイヤー本店のウェブサイトでは、このセットは「Trinkservice No.104」(Drinking set no.104)としか表示されていないが、ロブマイヤー日本総代理店が特に「ミツコ」と表示している。ゲラン社の香水「Mitsouko」はクーデンホーフ=カレルギー光子に由来するわけではない。しかしジャック・ゲランが1919年にこの香水を製作した際、クーデンホーフ=カレルギー光子の名前を知らなかったということはなかろうとフレグランス・エキスパートのゲラン社員が自社のコラムに記述した。ゲランの「Mitsouko」の由来は、1909年に発行されたクロード・ファレールの小説『ラ・バタイユ』に登場するミツコである(このミツコ自体が何に由来するのかは分かっていない)。ゲラン社は画廊・ギャルリー江夏とともに吉行和子の一人芝居『MITSUKO ミツコ – 世紀末の伯爵夫人』(2004年11月7日)を協賛した(後援: 駐日欧州委員会代表部、オーストリア大使館、チェコ大使館、日墺協会、鹿島平和研究所、日本友愛青年協会)。ギャルリー江夏は光子の三男ゲオルフの子で日本在住の画家ミヒャエル・クーデンホーフ=カレルギーの絵画を所蔵する。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。