高木 由一(たかぎ よしかず、1949年3月13日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手)、監督、野球指導者。までは登録名を高木 好一、までは高木 嘉一としていた(読みはいずれも同じ)。現役時代の愛称は沖山光利がつけた「とっつぁん」。プロ野球界では珍しい地方公務員出身である。入学した麻布大学附属渕野辺高等学校には当初野球部がなく、2年時に高木が校内で参加者を募り野球部を創設したが、部員は10人ほどしか集まらず監督もいないチームであった。相模原市役所では硬式野球部に所属し、3年目のに投手兼外野手として出場した第20回日本産業対抗野球大会の官業公社部門で優勝して本選出場を果たし、対丸善石油戦でバックスクリーンに本塁打を放つも試合には敗れた。11月に、野球部の後輩とともに冷やかしで参加した川崎球場での入団テストで偶然調子が良く合格してしまい、1か月悩んだ後に断りの電話を入れるも、入団テストを見ていた青田昇ヘッドコーチから「この打撃力で市役所勤めはもったいない」と改めて高木に呼びかけがあった。最終的には父親の「せっかく戦争のない世の中になったんだ、人生、いくらでも取り返しがつく、やり直しができるのが若い奴の特権だ。行きたいんなら行って来い、プロ野球へ」という言葉で入団を決意し、のドラフト外で大洋ホエールズに入団。現役時代は中距離打者として活躍。当初は代打での起用が多かった。監督の別当薫は高木にリストの使い方を指導、その途端打撃が上向き、一軍昇格へのきっかけとなり、別当の多くを語らずとも的確なワンポイントアドバイスを送る指導は「型にははめず、選手の才能を生かす」という、高木の現在の指導法にも息づいているという。のオフに戦力外になりかかったが、当時在籍していたクリート・ボイヤーが球団に掛け合い、残留する事になる。また、ボイヤーは高木に眼をかけ、退団時に自らの背番号を譲った。、外野手のレギュラーだった江尻亮が頭部に死球を受け戦線離脱したのを機にレギュラーを奪うと、以降はチームの中核となり、松原誠放出後は4番打者として活躍。現役晩年は代打の切り札としての起用が多かった。、現役引退。一軍打撃コーチ時代、 - 1998年は鈴木尚典、はロバート・ローズ、は金城龍彦と4年連続で球団から首位打者を輩出した。2009年は二軍の湘南シーレックスチーフ兼打撃コーチを務めていたが、一軍監督の大矢明彦が5月18日限りで休養となり、シーレックス監督の田代富雄が一軍監督代行に昇格したことに伴い、シーレックス監督代行に就任しシーズン終了後まで務めた。からは球団フロントに異動し、ベイスターズに所属しながら友好球団である中国野球リーグ・天津ライオンズ監督(総教練)として派遣され、1年間指揮を執った。は8年ぶりに横浜の一軍打撃コーチを務め、は二軍打撃コーチ、からは二軍チーフ打撃コーチを務めている。2013年10月1日付けで中根仁とともにコーチ契約を結ばないことが通達された。退団後、JR東日本硬式野球部で臨時打撃コーチを務めている。2015年には、母校である現麻布大学附属高等学校野球部での数回にわたる指導を行った。
出典:wikipedia
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