大陸軍(だいりくぐん、、"ラ・グランド・アルメ")は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、1806年から1807年、1812年、および1813年から1814年の各作戦においてもこの名称が使われており、19世紀初頭にナポレオンが作戦を実行するために自らの勢力圏の国々から召集した多国籍軍の総称である。フランス語の"という語には「陸軍」とともに「軍隊」という意味もあり、「大軍隊」と日本語訳することも可能である。最初の大陸軍はナポレオン麾下の陸軍元帥(")と上級の将軍の指揮下にある6個軍団で構成されたものから始まり、その規模はナポレオンの力がヨーロッパ中に広がるにつれ拡大していった。1812年の夏にロシア遠征を始めた時がその最大であり、兵力は700,000名を数えた。ロシアでの壊滅後もナポレオンは兵力を再編し、1813年のライプツィヒでの諸国民の戦い、1814年のすさまじいフランス防衛戦および1815年のワーテルローの戦いで新しい軍隊を率いたが、ナポレオン軍は1812年6月の大陸軍の高みまで戻ることはなかった。大陸軍の成功の最も重要な要因のひとつは、その高度に優れた組織の柔軟性であった。全体をいくつかの軍団(通常5から7個)に分けられ、1個軍団は10,000名から50,000名、平均して20,000名から30,000名で構成された。これらの軍団(')はそれぞれに、下記のような各兵種と支援部隊を持つ連合型の小軍隊であった。単独でも作戦行動ができる一方で、軍団同士は1日の行程の内にあって互いに密接な協働行動を執れた。軍団はその戦力と課された任務の軽重によって、元帥、大将('、大陸軍の階級参照。)または師団陸将("、中将)によって指揮された。 ナポレオンは彼の軍団の指揮官を大変信頼しており、彼の戦略目標の範囲内で行動し、協働してそれを達成するのであれば、通常は広い範囲で指揮官達に行動の自由を与えた。仮に指揮官達が失敗して彼を満足させることができなかった場合は、躊躇することなく叱責あるいは解任し、多くの場合彼自身がその軍団の指揮を執った。1800年にジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍がライン方面軍を4個軍団に分けたのが軍団の始まりであった。これは一時的な分け方であり、1804年までにナポレオンが恒久的な組織とした。ナポレオンは個々の軍団に騎兵を設け、歩兵によって動きが鈍くならないよう素早い離合集散を図った。軍団の主要な戦術的単位は師団であり、通常4,000名から6,000名の歩兵と騎兵で構成された。1個師団は2ないし3個旅団で、1個旅団は2個連隊で構成され、3ないし4個砲兵中隊からなる砲兵旅団の支援を受けた。各砲兵中隊には4門の野砲と2門の榴弾砲が配備されたので、1個砲兵旅団には18ないし24門の大砲が配備されていたことになる。師団にも恒久的な管理部門と実戦部隊があり、師団長(中将)によって指揮され、軍団同様に独立した作戦行動が可能だった。フランスの皇帝近衛隊 (') は当時の精鋭部隊であり、執政親衛隊 (', ') から発展した。これはそれ自体が軍団(')であり、歩兵、騎兵および砲兵部隊を持っていた。ナポレオンは近衛隊が全軍の模範を示すことを望み、彼と共に多くの戦闘に参加したので、絶対の忠誠を強いた。歩兵が戦闘に参加することは希であったが、近衛騎兵隊はしばしば戦闘に参加し敵に大きな打撃を与えた。また砲兵は接近戦の前の砲撃で敵を脅かすことに用いられた。近衛歩兵には経験によって3つの部門があった。近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(')と騎馬擲弾兵連隊(')の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(')大隊およびマムルーク("Mamelukes")大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊('、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊("Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais"、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊("2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale")あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。皇帝自身の布告により、騎兵は大陸軍の5分の1から6分の1の間の構成であった。1個騎兵連隊は800名から1,200名であり、3ないし4個大隊、各大隊は2個中隊とされ、これに支援部隊が付いた。各連隊の第1大隊の第1中隊は常に「精鋭」と称され、最高の兵士と馬があてられた。フランス革命の流れの中で、封建制度(アンシャン・レジーム)の王室に忠誠で経験を積んだ貴族出身の士官や下士官の多くが失われていた。この結果フランス軍の騎兵はその質をひどく落としていた。ナポレオンはこの部門を再建し、世界でも最高のものに変えた。1812年まで、連隊間の大きな戦闘では負けることがなかった。役割に応じて重騎兵と軽騎兵に分けられた。歩兵はたぶん大陸軍で最も魅力的な戦闘をしたわけではないが、ほとんどの戦闘で矛先となり、その成果が勝敗を分けることになった。歩兵は大きく2つに分けられた。1つは戦列歩兵(')であり、もう1つは軽歩兵(')であった。戦列歩兵は大陸軍の大部分を占めていた。1803年、ナポレオンは連隊という言葉を復権させた。フランス革命中のことば半旅団('、2個で1個旅団となり王立という意味合いがなかった事実による)は、暫定的な部隊や補助部隊にのみ使われるようになった。大陸軍の創設時、89個戦列歩兵連隊(')があったが、この数はフランスの県の数であった。最終的には156個連隊となった。戦列歩兵連隊はナポレオン戦争中にその規模が変わったが、基本的な構成要素は大隊であった。1個歩兵大隊は約840名であり、これが大隊の定員となり、ほとんどどの隊も変わらなかった。ほかに400名から600名の大隊もあった。1800年から1803年にかけては、戦列歩兵大隊には8個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、7個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵(")中隊が所属していた。1804年から1807年にかけては、4個フュジリエ中隊と1個擲弾兵中隊、1個選抜歩兵中隊が所属していた。戦列歩兵が大陸軍の歩兵の大部分を占めていたが、軽歩兵(")も重要な役割を果たした。軽連隊は35個連隊を超えることはなかった(戦列歩兵の155連隊と対照)。また散兵戦を含め戦列歩兵と同じ作戦行動を執れた。その違いは訓練方法であり、高い団結心を生んだことである。軽歩兵の訓練は射撃術と素早い動きに特に重点が置かれた。その結果、軽歩兵は戦列歩兵よりも正確な射撃の腕前と迅速な行動力を身につけた。軽歩兵連隊は多くの戦闘に参加し、さらに大きな作戦の哨戒に利用されることが多かった。当然ながら、指揮官達は戦列歩兵よりも軽歩兵に任務を任せることが多く、軽歩兵部隊の団結心が上がり、またその華やかな制服や態度でも知られた。軽歩兵は戦列歩兵よりも背が低いことが要求されており、森林を抜ける際の敏捷性や散兵戦の場合の物陰に隠れる能力に生かされた。軽歩兵大隊の構成は戦列歩兵大隊のものそのものであったが、擲弾兵、フュジリエ、選抜歩兵については異なった種類の部隊があてられた。皇帝は砲兵士官の出身であり、次のように言ったと伝えられている。「砲兵が良ければ神が味方する」 ここで期待されているように、フランスの大砲は大陸軍の基幹であり、三軍の中でも大きな火力を有し、少ない時間で敵に大きな打撃を与える可能性があった。フランスの大砲はしばしば集中砲火(大砲兵大隊)に用いられ、歩兵や騎兵が接近戦を挑む前に敵の戦列を乱した。砲兵部隊の絶妙な訓練によって、ナポレオンは高速でその武器を動かし、弱っている防衛線を支援したり、敵の戦列を破る道具にした。絶妙な訓練以外にもナポレオンの砲兵隊は多くの戦術的な改良によって戦力を上げた。王政時代にジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが設計したフランス砲は軽く早く移動でき照準を合わせやすく、また台車を強化したり口径を標準化したりした。通常の野戦砲は4ポンド、8ポンド、12ポンドのカノン砲と6インチの榴弾砲があったが、戦争後期には4ポンド砲と8ポンド砲はオーギュスト・マルモンが設計した共和暦11年式6ポンド砲に置き換えられた。砲身は真鍮(黄銅)製で、砲架、車輪、および前車はオリーブグリーン(薄緑色)のペンキで塗られていた。砲兵を歩兵や騎兵の部隊とうまく融合させて、互いに支え、時には単独で行動することもできた。砲兵隊には2つの分類、徒歩砲兵隊("Artillerie a Pied")と騎乗砲兵隊("Artillerie a Cheval")があった。この名前が示唆するように、砲兵は大砲の横に行軍し、大砲はもちろん馬で曳かせた。このために行動速度は歩兵の速度に準じ遅かった。1805年には8個連隊、後に10個連隊があり、さらに近衛連隊に2個連隊あった。しかし騎兵や歩兵の連隊とは異なり、これらは管理上の組織であった。主要な作戦上および戦術上の部隊は120名からなる大隊(または中隊)であり、旅団の中に作られるか師団や軍団に割り当てられた。大隊の要員は砲兵、下士官、士官の他に金属加工、木工、毛皮などの加工作業者も含んでいた。彼らは予備品を作ったり、大砲、台車、弾薬箱、馬車の維持・修理にあたり、馬の世話や軍需品の保管も行った。騎兵は騎乗砲兵隊の素早い動きと素早い砲撃に支援された。この部隊は騎兵と砲兵の組み合わせであり、馬や台車に乗って戦闘に参加した。前線に非常に近く活動するために、士官や砲兵は竜騎兵のように接近戦用の武器を携え訓練も施されていた。一度配置につくや、彼らは素早く下馬し、大砲を据え、照準を定め敵に集中砲火を浴びせた。さらに大砲をまた台車に載せ新しい場所に素早く移動した。このことを成し遂げるために訓練を積んでいたので砲兵の中でもエリート部隊であった。近衛騎乗砲兵隊は全速で駆けてきて最初の砲弾を放つまでに1分とかからなかった。そのような動きを目にして驚いたウェリントン将軍は次のように記している「かれらは拳銃を撃つように大砲をぶっ放している」。管理上の連隊は6個、さらに近衛兵に1個あった。騎兵部隊に割り当てられた大隊に加えて、ナポレオンは各軍団にまた可能ならば各師団に少なくとも1個大隊を割り当てようとした。その能力は十分高かったものの、その結成と維持にかかる費用もかなりのものであった。そのために、騎乗砲兵隊の数は徒歩砲兵隊の数より少なく、構成比は5分の1程度であった。皇帝が騎乗砲兵隊の兵士すべての名前を覚えているなどという自慢たらたらの冗談もあったくらいである。積まれた訓練、馬、武器や装備以外にも、彼らは多くの軍需品を使った。騎乗砲兵隊は徒歩砲兵隊の2倍、近衛砲兵隊の3倍の費用を要した。砲車牽引隊(")はボナパルトによって1800年1月に創設された。その機能は砲車を曳く馬を御する御者であった。 それまでのフランスでは民間の御者を雇っていたが、彼らは戦火の中では大砲を放棄して自分達や価値ある馬の命を守ろうとした。 砲車牽引隊の要員は、以前の民間人とは異なり、武装し、訓練を施され、兵士と同じように制服を与えられた。閲兵の時の見栄えもさることながら、このことは軍隊としての規律を守り、攻撃されれば反撃することも可能にした。御者はカービン銃と歩兵と同じ型の短い刀および拳銃を携行した。彼らはそれらの武器を使う機会はほとんど無かったが、賭け事や、喧嘩その他各種の遊びごとで確かに評判をとった。彼らの制服と上着は灰色であり、その頑丈な外観をさらに強めていた。しかし、彼らが戦闘可能ということはコサックやスペイン人またチロルのゲリラに襲われたときに有効であることが証明された。各砲車牽引隊は当初5個中隊で構成された。第1中隊はエリートと看做され、騎乗砲兵大隊に配属された。中間の3個中隊は徒歩砲兵大隊に配属され、予備品箱、物資用荷車の管理や屋外での鍛冶、なども担当した。最後の1個中隊は予備役で、新兵や馬の訓練を行った。1800年の方面作戦に続いて、砲車牽引隊は8大隊に編成替えされ、それぞれ7個中隊を擁した。ナポレオンが砲兵隊を増強するにつれ、大隊が追加されて1810年には14個大隊を数えた。1809年、1812年および1813年には最初の13個大隊が倍増され27個大隊となった。さらに1809年以降、大隊の中には旅団の大砲を取り扱う中隊を創設するものがあり、歩兵隊に付属された。近衛兵は独自の牽引隊を持っており、近衛砲兵隊が増えるにつれて拡張し、大隊よりもむしろ連隊として組織化された。頂点は1813年から1814年にかけてで、近衛古参砲兵隊は12個牽引中隊に、近衛若年砲兵隊は16個牽引中隊に支援され、砲兵大隊に1個中隊ずつ配備された。騎兵、歩兵、砲兵に戦闘の脚光が及ぶ影で、軍隊にはさまざまなタイプの軍事技師がいた。大陸軍の橋梁技師(")はナポレオンの軍隊維持機構の重要な役目を果たした。特に艀(はしけ)をつなぎ合わせた簡易橋梁を構築して水の障害物を越える際の貢献が大きい。橋梁技師の技術によって敵が居そうにない川を渡り敵の虚を突いたり、あるいはモスクワからの撤退時のベレジナでは全滅の危機から自軍を救うことができた。技師達が脚光を浴びることはなかったが、ナポレオンは橋梁技師の価値を明らかに認め、その軍隊に14個中隊を配備し、その指揮は輝かしい経歴を持つ技師ジャン・バプティスト・エーブレ将軍に任せた。彼の道具や装置を使った訓練によって、素早く橋のさまざまな部品を造り、組み立てさらに後に再利用できるようになった。必要な資材、工具、部品は中隊の荷車で運ばれた。もし部品などが不足する場合は、即座に荷車に積んである鍛造機などの装置で製作された。1個技師中隊で80杯のはしけの橋(長さは120mから150m)を7時間以下で組み立てた。これは今日の基準から見ても驚異的である。橋梁に加えて、敵の防御施設に対応するための土木工兵の中隊もあった。橋梁技師よりは意図した役割に添って使われる頻度は少なかった。皇帝がエーカーの包囲戦など初期の方面作戦の経験をもとに、固定された防御施設に正面攻撃するよりも可能な限り回避し孤立化させた方がよいことを覚え、土木工兵中隊は通常他の任務に回された。ジニーと呼ばれる異なったタイプの技師中隊が大隊や連隊内に作られた。ジニーとは大陸軍内部の通り言葉で技師を指していたが、元々の意味は今日でも使われる「言葉遊び」(')と願いことを受け入れて魔法の力で現実にしてくれる精霊("Genie")にも掛けていた。現在のフランス語で工兵が と呼ばれるのはこの名残と思われる。ナポレオンの語録の中でもよく引用される言葉は「軍隊は胃で行進する生き物」である。このことは軍隊の兵站の重要性を明確に表したものである。大陸軍の部隊は各人に4日分の食料を与えられていた。これに従う荷車には8日分が積まれていたが、これは緊急時にのみ消費されるものだった。ナポレオンは兵士達が狩猟採集と食糧の徴発(略奪、"La Maraude")で日々を暮らしていくことを勧めていた。補給物資は作戦開始前に建設しておいた前進基地や倉庫に蓄えられた。これらの物資は軍隊が前進するにつれ前方に移動された。大陸軍の補給基地から軍団や師団の補給庫に物資が配られ、そこから旅団や連隊の輜重部隊に配られ、各部隊には狩猟採集の量を補うだけの食料が配られた。狩猟採集に対する依存度は政治的な圧力で決まることがあった。友好的な国の領土を通過するときは、「その国が供給するもので食っていけ」といわれたが、中立の立場をとる国を通過するときは、補給の問題が生じた。大陸軍が5週間に渡って1日15マイル(24km)の速さで行軍することを可能にしたのは、上記のような計画によるもの半分、行き当たりばったり半分の兵站であった。兵站のしくみを助けたのがこれも技術的な革新であり、例えばニコラ・アペールが発明した今日の缶詰につながる保存食の技術であった。医療関係者ほど栄光とも権威とも関係の薄い部門は無かったが、彼らは戦闘後の恐ろしい光景に対処する必要があった。あらゆる旅団、師団、軍団にはそれぞれの医療関係者がおり、衛生兵は負傷者を見つけて運び、看護兵は介護や看護を行い、他に薬剤師や医師、外科医がいた。これらの医療関係者には、しばしば訓練の足りない者や不適切な者がいて他の仕事を担当する部隊もあった。大陸軍の医療の状態は、当時のあらゆる軍隊と同じく原始的なものであった。戦闘よりも負傷や病気で死ぬ者の方が多かった。衛生や抗生物質に関する知識も無かった。外科施療といえばそれは切断であった。麻酔とは、強いアルコールを飲ませること、あるいは時によって患者を殴って意識を失わせることであった。大体手術を受けた患者の3分の1しか生き残れなかった。ナポレオン戦争の間、軍隊の医療技術や施療技術は大きな進歩を生まなかったが、大陸軍では医療関係者の組織化では改善の恩恵を受けた。外科将軍のドミニック・ジャン・ラリー男爵の提唱になるいわゆる"空飛ぶ救急"システムである。戦場でフランス軍"空飛ぶ砲兵隊"が行っているその移動速度を観察したラリー将軍は、これを負傷者を迅速に運び、訓練された御者と衛生兵と担架運搬要員のいる馬車に乗せる仕組みに置き換えた。これは現代の軍事救急システムの先駆けであり、続く数十年間に世界中の軍隊によって採用されることになった。ラリーは移動力を上げ、野戦病院の組織を改善することにより、現代の移動陸軍外科病院の原型を作った。負傷者の苦難についての証言を読むと恐ろしいものがある。ナポレオン自身も「死ぬよりも苦痛に耐える方が勇気がいる」と言ったことがあった。彼は生き残った者達にフランス中でも最善の病院で静養できるような保証を与えた。さらに傷痍軍人は英雄として扱われ、勲章を授与され、恩給と必要ならば義肢も与えられた。負傷者が迅速に世話され、栄誉が与えられ、帰郷後の面倒を見られることが知れ渡ると、大陸軍の中の士気も高揚し、戦闘能力を上げることにもなった。以下に述べる情報通信は、確かに少なからぬ基本的支援業務であった。ほとんどの命令は、それまでの数世紀と同様に馬に乗った伝令によって運ばれた。騎兵はその勇敢さと騎馬技術によってこの任務を課されることが多かった。短距離の戦術的な信号は視覚的には旗で、聴覚的にはドラムや軍隊ラッパ、トランペット、など楽器で伝えられた。これらの旗手や楽器奏者は象徴的、儀式的、また士気を上げる機能に加えて重要な情報通信の役割を果たした。大陸軍はフランス革命の間には長距離の情報通信手段に革新的なものを得られなかった。フランス軍は大規模かつ組織的な形で伝書鳩を伝令に採用し、また観測用熱気球を偵察と通信に用いた最初の軍隊である。しかしクロード・シャップによって発明された巧妙な光学的テレグラフ信号装置(腕木通信)という形で長距離通信の本当の進歩が得られた。シャップの装置は、互いに目視できる距離に置いた小さな塔の入り組んだネットワークであった。塔は9mの高さがあり、その最頂部に3本の大きな木製の稼動棒(腕木)が取り付けられた。この棒はレギュレター("regulateur")と呼ばれ、プーリーと梃子を使って訓練された操作員によって操作された。腕木の位置によって4つの意味があり、その組み合わせで196通りの信号になった。習熟した操作員がおり、悪くない視界が保たれておれば、パリ=リール間193km(123マイル)にある15の塔を経由して、わずか9分間で1つの信号を送ることができ、36の信号から成る電文は約32分間で送れた。パリからベニスの間でも、電文をわずか6時間で送ることができた。シャップの腕木通信はナポレオンのお気に入りのひとつになり、最も重要な秘密兵器となった。特別の携帯版腕木通信装置を彼の作戦本部とともに移動させた。これを使ってナポレオンは長距離でも敵よりもはるかに短い時間で兵站と軍隊の戦略的調整を図ることができた。1812年には、荷車に載せた装置による通信の研究が始められたが、戦争そのものには間に合わなかった。多くのヨーロッパ諸国が外国人部隊を採用したが、ナポレオンのフランスも例外ではなかった。ナポレオン戦争中の大陸軍で、外国人部隊は重要な役目を果たし、特徴ある戦い方をした。ほとんどすべてのヨーロッパ諸国はさまざまな段階で大陸軍の一部となった。戦争末期には、数万名の兵士が従軍した。1805年には、ライン同盟の35,000名の部隊が情報通信線と本隊の側面を守るために使われた。1806年、27,000名が追加され同じ用途に使われた。さらに20、000名のサクソン人部隊はプロイセンに対する掃討作戦に使われた。1806年から1807年にかけての冬季方面作戦では、ドイツ、ポーランド、およびスペインが大陸軍の左翼を担い、バルト海に面したシュトラールズントとダンツィヒの港の占領を助けた。1807年のフリートラントの戦いでは、ランヌ元帥の軍団はかなりの数がポーランド、ザクセン、オランダの兵で占められた。このときは外人部隊が初めて戦闘における主要な役割を演じ、目だった働きをした。1809年のオーストリア方面作戦では、大陸軍のおよそ3分の1がライン同盟の兵士だった。 またイタリア方面軍の4分の1はイタリア人だった。1812年大陸軍の頂点を迎えた時、ロシアに侵攻した部隊の半分以上はフランス人以外でありオーストリアやプロシアを含み20か国に上った。封建制度や他の君主政治の時の軍隊とは異なり、大陸軍の昇進制度は社会的な階級や富よりも能力に重点をおいて成された。ナポレオンは彼の軍隊が実力社会であることを欲し、どの兵士でもその生まれによらず、成した業績によって(もちろん、彼らがあまりに高く、あるいはあまりに急速に昇進していなければ)指揮官の最上級まで急速に上り詰めることができた。概してこの目的は達せられた。その能力を発揮できる場を与えられれば、能力のある者は数年間で頂点まで辿り着けた。他の軍隊であれば数十年掛かったであろう。身分の低い兵士ですら彼の軍嚢に元帥杖を持てるといわれた。下の表は現在の米陸軍と対照した階級のリストである。またギャラリーには頂点まで登った人物を示す。ナポレオンは優れた戦略家として知られており戦場に立つとカリスマ的であったが、戦術の発明家でもあった。彼は何千年もの間使われてきた古典的な陣形と戦術を組み合わせ、さらにフリードリヒ大王の斜角陣形(ロイテンの戦いで使われた)や、革命の初期に国民皆兵("Levee en masse")軍隊で使われた群衆戦術といったより新しいものを取り入れた。ナポレオンの戦術は高度に流動的で柔軟性があった。対照的に敵の軍隊の多くは固定的な戦列("Linear")戦術や陣形に執着していた。戦列戦術とは歩兵の集団が単純に戦列をなし一斉射撃を交わすもので、戦場の敵軍に打撃を与えるか、側面から包囲するものであった。戦列陣形は側面からの攻撃に弱いものであるので、敵の側面を衝くように部隊を操作するのが高等戦術と考えられていた。これが成功するとしばしば敵は撤退するか降伏した。その結果、このやり方に固執する指揮官は側面を安全にすることに重点を置き、強い中衛や後衛部隊を回すことがあった。ナポレオンが度々やったことは、この戦列の考え方を逆手にとることであり、側面攻撃をする振りをしたり、あるいは敵に自軍の側面が餌であるように見せて(アウステルリッツの戦いや後のリュッツェンの戦いで実践された)、自軍の主力を敵の中央に進めさせ、戦列に割って入り追い詰めてしまった。ナポレオンは常に彼の近衛隊からなる強力部隊を温存しておき、戦況がうまくいっているときは止めを打つために、うまくいっていない時は流れを変えるために投入した。より有名で広く使われ、効果的かつ興味ある陣形や戦術を下記に示す。大陸軍は当初、大西洋岸軍(")として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年にブローニュの港に集結した。しかし1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して第三次対仏大同盟が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさまライン川を渡り南ドイツに入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれたウルムの戦いでは、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にはウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日のプレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、1806年の第四次対仏大同盟が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、イェナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。ルイ=ニコラ・ダヴー将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲でベルリンに最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。ナポレオンはポーランドにその視線を向けた。そこでは残存するプロイセン軍が友邦ロシアと手を結んでいた。難しい冬季の方面作戦が展開されたが手詰まりとなり、1807年2月7日から8日にかけてのアイラウの戦いでは事態が悪化した。この時のロシアとフランスの損害は大きく、得るものはほとんど無かった。この方面作戦は春に再開され、ベニグセンのロシア部隊は6月14日のフリートラントの戦いで完敗した。ロシアもついに屈服し、7月にフランスとロシアの間でティルジット条約が結ばれ、大陸にはナポレオンの敵が居なくなった。ポルトガルが大陸封鎖令に組み込まれることを拒否し、フランスは1807年遅くに懲罰的な遠征を行った。この作戦が後に6年間続く半島戦争の始まりとなり、フランス第一帝政の資源と人を浪費させることになった。フランスは1808年にスペインを占領しようとしたが、一連の悲惨な戦いによって後年ナポレオンが自ら介入せざるを得なくなった。125,000名の強力な大陸軍が容赦なく侵攻し、ブルゴスの要塞を占領し、ソモシエラの戦いでマドリッドへの道が開け、スペイン軍を撤退させた。続いてイギリスのムーア軍に鉾先を向け、1809年1月16日のコルナの戦いで英雄的な勝利をつかみ、イギリス軍をイベリア半島から追い出した。この方面作戦は成功であったが、南スペインの占領までまだ暫しの時間を要した。一方で、東方ではオーストリアが息を吹き返して反攻の準備をしていた。オーストリア皇帝フランツ1世の宮廷におけるタカ派の人間が、フランスがスペインに関わっている間に機会を掴まえようと王を説得した。1809年4月、オーストリアは公式の宣戦布告なしに方面作戦を開始し、フランスを驚かせた。しかし、オーストリア軍の歩みが鈍くあまり進まないうちにナポレオンがパリから到着し、事態が沈静化された。オーストリア軍はエックミュールの戦いに敗れ、ドナウ川を越えて逃亡し、ラティスボンの要塞を失った。しかしオーストリア軍はまだ粘り強く軍隊を維持していたので、新たな方面作戦が必要となった。フランス軍は進軍を続けウィーンを占領し、オーストリアの首都の南西にあるローバウ島を経てドナウ川を渡ろうとした。しかし、続くアスペルン・エスリンクの戦いに敗れた。これは大陸軍の初めての敗北であった。しかし7月に再度ドナウ渡河を試み、2日間にわたるヴァグラムの戦いで勝利を得てオーストリア軍に40,000名の損害を与えた。オーストリアはこの敗北で意気消沈し、その後すぐに停戦に同意した。この結果大陸軍は第五次対仏大同盟を終わらせ、10月にシェーンブルンの和約が結ばれた。オーストリア帝国は領土割譲の結果3百万人の領民を失い、ようやくナポレオンに屈服した。スペインを除いてヨーロッパでは一時的な平和が続いた。しかし、ロシアとの外交的な緊張関係が高まり、1812年の戦争につながった。ナポレオンはこの脅威に対処するために、これまでにない最大規模の軍隊を結成した。新しい大陸軍はそれまでと変わっていて、士官の半分以上はフランスと同盟する衛星諸国と地方から徴兵した非フランス人で占められた。ポーランドとオーストリアの部隊を除いてすべての部隊はフランスの将軍の指揮下に入った。巨大な多国籍軍は1812年6月23日にネマン川を越え東方に進軍し、ロシアはその前に後退していった。ナポレオンは迅速に行軍すればロシアの2つの主力部隊、ミハイル・バルクライ・ド・トーリ軍とピョートル・バグラチオン軍の間に割って入れることを期待していた。しかしロシア軍が3回以上もナポレオンの鉾先を避ける事態になり、大陸軍には苛立ちが溜まっていった。スモレンスクを占領し、モスクワを守るための最後の防衛戦として9月7日にボロジノの戦いが行われた。その結果は、大陸軍が勝ったものの犠牲が多く引き合わない勝利だった。ボロジノの戦いでの勝利の7日後の9月14日、ナポレオンと大陸軍の大部分はついにモスクワに到着した。だが、そこはすでにもぬけの殻で炎上する町があるだけだった。兵士達は消火活動の一方で放火犯狩りをやり、モスクワの守りも強いられた。しかも、これまでのロシア軍との死闘と病気(主にチフス)で夏の間にすでに兵士の半分を失っていたうえに、ロシアの焦土作戦によって大陸軍が確保できる食糧は無かった。フランス皇帝が無為にロシア皇帝に和平の探りを入れている間、ナポレオンと大陸軍はモスクワで1ヶ月以上を無駄に過ごした。この試みが失敗に終わると、10月19日、遂に西方への退却を開始した。退却は侵攻以上に悲惨を極め、寒さと飢えと病気に悩まされ、集まってくるコサックやロシア軍に繰り返し襲撃された。ミシェル・ネイが殿軍を引き受けロシア軍との間の分離を図ったが、大陸軍は事実上壊滅し、およそ400,000名が死に、ベレジナ川に到着したのはわずか数万名のやつれきった兵士達だった。それでもベレジナの戦いの結果とジャン=バティスト・エブレの技師達によるベレジナ川に橋を架ける必死の作業で、ナポレオン軍の残兵が救われた。ナポレオンは新しい軍を起こすことと政治的な用向きを果たすために兵を残してパリに帰った。軍を起こした時の690,000名の兵士のうち、93,000名のみが生還した。この大遠征は、今まで大陸軍が積み上げてきた数々の勝利を突き崩すに十分たる大敗北という結果に終わった。ロシアにおける壊滅的損害はドイツやオーストリアの反仏感情を高めることになった。第六次対仏大同盟が結成され、ドイツが次の方面作戦の中心となった。培われた才能によってナポレオンはすぐさま新しい軍隊を立ち上げ戦端を開き、リュッツェンの戦いとバウツェンの戦いで連勝した。しかしロシア遠征のためにフランス軍の騎兵の質が落ちていたこと、また部下の将軍の計算違いにより、これらの勝利は決定的に戦争を終わらせるだけのものにならず、休戦になっただけだった。ナポレオンはこの休戦期間を利用して彼の軍隊の質と量を高めようとしたが、オーストリアが同盟に参加したとき、彼の戦略的立場は苦しいものになった。8月に再び戦争が始まり、2日間のドレスデンの戦いでフランスは意味のある勝利を収めた。しかし、ナポレオンとの直接対決を避け、彼の部下に矛先を向けるという同盟側のの採用により、フランスはカッツバッハの戦い、クルムの戦い、グロスベーレンの戦い、と負け続けた。同盟軍は数を増し、フランス軍をライプツィヒで包囲した。有名な3日間の諸国民の戦いが行われ、橋が時期尚早に壊されたために、エルスター川の対岸に30,000名のフランス兵を置き去りにするというナポレオンにとって大きな損失を被った。しかしこの作戦は、でフランス軍の撤退を阻止しようとして孤立したバイエルン軍をフランス軍が破ったとき、勝利の意味合いで終りを告げた。「大帝国はもはやない。守らねばならないのはフランス自体だ。」とナポレオンは1813年の暮れに議会に向かって語った。ナポレオンはなんとか新しい軍隊を結成したが、戦略的には事実上希望のない位置にまで来ていた。同盟軍はピレネー山脈から、北イタリア平原を横切り、さらにフランスの東部国境を越えて侵略してきた。この作戦はナポレオンがで敗北を喫したときに始まったが、彼は以前の精神をすぐに取り戻した。1814年ので30,000名のフランス軍がゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルの散会した軍団に20,000名の損害を与えた。この時のフランス軍の被害は2,000名であった。フランス軍は南に向かい、をで破った。しかし、これらの勝利は事態を改善するまでには至らず、ラン(Laon)の戦いとでのフランス軍の敗北が士気を落としてしまった。3月の末、で同盟軍に破れた。ナポレオンは戦い続けることを望んだが、彼の部下達はそれを拒み、1814年4月6日、皇帝に退位を迫り認めさせた。1815年2月エルバ島から帰還するとナポレオンは、彼の帝国を守るための新たな活動に忙殺された。1812年以来初めて来るべき戦いで彼が指揮を執る北部軍("L'Armee du Nord")は職業軍人の集団であり能力が高かった。ナポレオンはロシアやオーストリアが来る前に、ベルギーにいるウェリントンやブリュッヘルの同盟軍に会し打ち破ることを試みた。1815年6月15日に始まった作戦は当初は成功だった。6月16日にはリニーの戦いでプロイセン軍を破った。しかし、慣れない部下の作業やまずい指揮により全作戦を通じてフランス軍に多くの問題を引き起こした。エマニュエル・ド・グルーシーが対プロイセン戦で遅れて進軍したことで、リニーで敗れたブリュッヘルの部隊が回復し、ワーテルローの戦いでウェリントンの援軍に駆けつけることを許した。この戦いはナポレオンと彼の愛した軍隊にとって最後で決定的な敗北となった。
出典:wikipedia
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