姫街道(ひめかいどう)は、東海道見附宿(静岡県磐田市)と御油宿(愛知県豊川市)を結ぶ東海道の脇街道である。浜名湖の北側、本坂峠を越える道で、本坂道(ほんさかみち)、本坂街道、本坂通りとも言う。姫街道と呼ばれるようになったのは幕末からだが、名称の由来は、女性が多く利用したためとも、古いという意味の「ひね」の街道から変化したものともいわれる。東海道の新居関所は、女性に対して特に取り調べが厳しいことで有名であった。徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われ、江戸幕府による「入鉄砲出女」の取り締まりが厳しかったが、新居関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても厳しい取り調べが行われていた。また、当時は男装して関所を抜けようと考える女性も多かったらしく、関所には「女改め」と呼ばれる性別調べを専門に行う女性も常駐していたという。新居関所の執拗な取り調べを嫌った女性たちが、同所を避けて浜名湖の北側の陸路を通ることになったのが、東海道の脇往還としての「姫街道」の発祥と一般的には言われている。また、東海道の舞阪宿と新居宿間には浜名湖を渡る今切の渡しがあり、「今切」が「縁切れ」に通ずるため不吉として、女性が避けるようになったと言う説もあるが、文献として残っている訳ではない。ただ、実際に『姫様』の通行があったことは間違いない。徳川吉宗の時代には、象が通行したという記録が残っている。宝永4年(1707年)の宝永地震津波によって、新居宿および新居関は流失し、浜名湖が太平洋に通じる今切は1里(約4km)もの大口を開けてしまったため、舞阪から新居までの航路では太平洋の荒波を直接受けるようになった。「法螺でない荒井の津波路」とまで呼ばれた危険な渡海を避けて、姫街道が盛んに利用されるように成ったという。しかし、参勤交代などで迂回されることとなった見附から御油の間の宿場町は経営が困難となり、宝永6年3月(1709年)には、浜松宿を始め、舞阪・新居・白須賀・二川・吉田の6宿から「見附宿より市野村、御油宿よりすせ村江人馬継立不申様に被為仰付被下候は、難有奉存候」という嘆願書が出された。その結果、享保2年11月(1717年)になり漸く、本坂通(姫街道)通行差留となった。しかし、その後も姫街道を利用する者が後を絶たなかったという。東海道安間の一里塚から市野宿の手前に合流するルート、市野宿と気賀宿の中間の三方原追分に東海道浜松宿から合流するルート、姫街道和田辻から東海道吉田宿に合流するルートがある。本坂通りにある松並木は「姫街道の松並木」と呼ばれ浜松市指定文化財になっている。樹齢百年以上の松の木が200本以上、立ち並んでいる。
出典:wikipedia
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