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北斗の人

『北斗の人』(ほくとのひと)は、司馬遼太郎の歴史小説。江戸時代後期に北辰一刀流を開き、近代的剣術を創始した千葉周作を描いた作品である。週刊現代誌上で1965年1月から10月まで連載された。千葉周作の幼少期から江戸へ出て中西派一刀流を学んだ修行時代、北辰一刀流を開き上野国での馬庭念流との抗争(伊香保神社掲額事件)、再び江戸に戻って神田於玉ヶ池に道場「玄武館」を構えるまでの青年時代を主に扱う。司馬は本作で、徹頭徹尾合理性を追求し、それまでの剣術における迷信や神秘性を廃してそれに基づく晦渋な用語や曖昧模糊とした論理の類も一掃し、近代的な体育力学として新たな剣術体系を創始した周作を、「この点、日本人の物の考え方を変えた文化史上の人物」と評価している。また、本作の前身である中編小説『千葉周作』(後述)でも、「もう五十年おそく生まれておれば、剣術者などにはならずに、自然科学者にでもなっていたような男」と評している。千葉周作は欧州諸国を遍歴する父の流浪の旅の中で生を受けた。父・幸右衛門は貧しい郷士の生まれだが坂東八平氏の一つを家祖に持つ奥州千葉氏の裔であり、零落した家名を再び興すべく若年の頃より自らの剣術の腕を頼んで奥州中を流浪した。しかし大望は実らず、旅の中途で生まれた周作らを伴い陸前国栗原郡荒谷村に流れ着き、遠縁に当たる千葉吉之丞の養子となった。吉之丞が編み出した「北辰夢想流」の剣術を伝授された幸右衛門は息子の周作にもこれを教え、幼童の頃より剣術を厳しく仕込まれた周作は、長じて類まれな剣技の才を持つようになる。さらには雄大な体躯にも恵まれ、元服を迎える頃には六尺に届かんばかりの偉丈夫に成長した。周作に天稟を見出した幸右衛門は自身の成し得なかった千葉家再興の夢を息子に委ねることにし、江戸の道場で正式に剣術を修めさせることを考え、周作を連れて奥州を出る。江戸にほど近い下総国松戸に落ち着いた周作は、中西派一刀流の高弟で江戸でも高名な剣豪である浅利又七郎の道場に入門する。周作はすぐさま頭角を現し、道場内でその剣にかなう者は誰一人としていなくなった。成功に自身をつけた周作は「天下の剣壇の総帥になりたい」という望みを抱き、夜ごと空を仰いで北斗七星に祈りを捧げるようになる。北斗七星の首座・北辰(北極星)は、千葉家の家神である妙見菩薩の化身である。一刀流の流祖である伊藤一刀斎、あるいは敬愛する宮本武蔵以来の剣術の大業を遂げると誓った周作は、道場の帰りなどに夜ごと空を見上げては、北天において不動の光芒を放ち続けるこの星に己の望みを託した。道場主の又七郎も周作に天賦の才を見、姪と娶せて自身の後継者としようと考える。その後周作は又七郎の奨めで江戸の旗本屋敷で奉公しながら中西派の宗家である中西道場に通うことになるものの、思わぬことから馬庭念流の剣客・本間仙五郎と試合うこととなる。馬庭念流は木刀による形稽古のみで流法を形作る古流の流派である。新進の稽古法である竹刀による打ち合い稽古を重視するべきと考える周作との試合はさながら古流儀対新流儀の対決といった面持ちとなったが、試合は周作の無残な敗北に終わった。本間の剣には新流儀である周作の剣に対する敵意がありありと込められており、完膚なきまでに叩きのめされた周作は、新流を研鑽していつの日か古法を討ち破ることを決意をする。中西道場に通い始めた周作はここでもその剣才を大いに示した。当世を代表する剣豪が顔を揃える道場は刺激に満ち、周作はいよいよ江戸に出てきたという充実感を大いに得る。ところが江戸第一の道場で修練に勤しむ最中養父の又七郎がやって来て、目録皆伝と引き換えに松戸の道場へ戻るよう言い渡す。松戸へ戻れば浅利道場は繁昌するだろうが周作は一介のお山の大将に留まることとなり、天下の剣壇を制するという年来の望みは霧散せざるを得ない。養父の言葉に逆らうわけにはいかず周作は不承不承松戸に戻ったものの、しかし門人達を指導するにあたって、自身がかねてより模索していた新剣術を教授することにする。太刀を振るって相手を倒すという目的上、本来兵法というものは合理的な理論で構築されるべきであったが、既存のどの流儀もその技術を仰々しい宗教用語で装飾していた。周作は持ち前の合理的思考力で、いたずらに晦渋な宗教性・哲学性を払拭して剣術を純然たる力学に作り変えようと考え、かねがね合理主義で組み立てられた新剣術の構想を重ねていたのだった。合理的で平易な周作の教授法は評判を呼んで門人を飛躍的に増やすものの、しかし又七郎はそうした教授法を古法に対する冒涜と受け取った。又七郎は教授法を古法に戻すよう厳命するが、周作は頑として譲らない。結局両者は袂を分かち、周作は中西派の目録を返上し、又七郎との養子の縁も切って浅利家を去ることとなる。中西派を破門になった周作は、当代のいかなる流儀とも異なる合理的思考に基づく新流儀を興し、自ら一流派を開くことを決意する。「北辰一刀流」と命名した周作の剣はたちまち江戸の剣壇を圧し、諸道場は周作の名を耳にしただけで戦慄するようになった。己の新流儀に自信をつけた周作は江戸を出、上野国に足を向けることにする。累代上泉伊勢守を始めとする数多の剣豪を産んで「剣は上州」として知られるこの国は、かの馬庭念流の本拠地でもある。上州に足を踏み入れた周作は馬庭念流の剣客達に次々と勝負を挑み、剣客達は軽々とあしらわれて敗退した。敗れた剣客達はことごとく周作の門下に入り、周作は高崎に居を構えて北辰一刀流の道場を開くこととなる。合理的で誰にでも学び易い北辰一刀流の剣術は爆発的な人気を呼んで入門者が殺到し、馬庭念流を学んでいた者達まで自流を放り捨てて入門を乞うた。兵法の国上州をもって北辰一刀流を試そうと考えていた周作は予想もしなかったほどの成功に自信を深めるが、やがて門人達の中から伊香保明神に巨大な武道額を奉納しようという計画が持ち上がる。北辰一刀流が上州一円で成功したことを記念するものであったが、しかし馬庭念流の側にしてみれば自分たちの敗北を喧伝されるようなものであり、関八州を見下ろす伊香保の明神にそのようなものを掲額されるのを黙って見ていようはずもなかった。落ち目になったとはいえ、いまだ上州で強い力を持つ大集団を敵に回せば国中に乱を引き起こすはめにならぬとも限らない。周作は慎重な姿勢を示すものの、門人達はそのような周作の諌めにまるで耳を貸そうとしなかった。古来より悍強として知られる上州人は多分に直情径行の癖を持つが、弟子達も例外ではなく己の盛挙に興奮して勝手に動き回り、事態は周作の腕をすり抜けてとんとん拍子に進み始めた。それは敵方も同様で、馬庭念流の方でも宗主・樋口定輝は周作同様に騒乱が起こることを危惧したものの、掲額計画に激昂する門弟たちを押さえかねていた。次第に弟子同士での小競り合いも頻発するようになり、注文した額が仕上がる頃には両流の対立は上州中の知るところとなって、もはや「千葉か馬庭か」と雌雄を決しなければならぬところまで緊張が高まった。いよいよ北辰一刀流一門が掲額を挙行しようという矢先、馬庭方が伊香保山中に戦国そのままの陣を敷いたという報せが飛び込んできた。上州中の門弟を集結させた馬庭方はたとえ武力に訴えてでも掲額を阻止する構えであり、これに憤激した北辰方も門人を掻き集め、伊香保と目と鼻の先の引間村に滞陣することとなる。事ここに至っては元和偃武以来絶えて久しい騒乱が起こることは必定であり、公儀の逆鱗に触れて兵法停止の命を下され、北辰・馬庭双方とも共倒れとなりかねない。馬庭方への敵意で燃え上がった弟子たちを静止することはとてもかなわず、一大決心をした周作は単身自陣を抜け出して伊香保に向かった。目指すは馬庭念流の当主・樋口定輝であり、周作は敵の大将と直談判することで騒乱を起こさずに決着をつけるつもりであった。大名さながらの護衛に囲まれて杣道を行軍する定輝を見つけると周作は闇夜に紛れてその身を拐い、余人を交えぬ一対一の談判に及んだ。馬庭方の陣を引いてくれるよう願った。もとより定輝も弟子たちに突き上げられてやむなく行動を起こしたのであり、騒乱を望んでいたわけではない。翌朝になると、伊香保の陣営は綺麗に引き払われていた。仲裁に奔走していた村役人に馬庭方がここまでの譲歩を見せた以上は掲額を中止してもらいたいと懇願されると、周作は反対する門人達を押し切って武道額の奉納をやめることを決断する。同時に北辰一刀流は上州から身を引き、この土地を去ることとなった。上州を去り一旦江戸に戻った周作は、今度は西国へ足を向け再び剣術詮議の旅に出た。東海道を廻国した周作は土地土地の剣豪をことごとく下してそ盛名をさらに轟かせ、もはや天下の剣客で周作と北辰一刀流の名を知らぬ者はなくなった。いよいよ己の新剣術が百世に渡って伝える価値があると確信するに至った周作は、江戸に帰って道場「玄武館」を開いた。北辰の北の義を神獣「玄武」にあやかって名付けた道場には入門希望者が後を絶たず、最初に開いた道場はすぐに手狭になり、神田於玉ヶ池に広大な敷地を持つ大道場を建てることとなった。周作の優れた教授理論は凡庸な素質の者でも名人の域にまで達せると評判を呼び、玄武館には入門者が引きも切らずに押し寄せ、常に撃剣の音の絶えることのないほどの盛況をなした。戦国末期以来久しく停滞していた剣法は周作の剣理によって一新され、万人が上達し得る道が見出された。「それ、剣は瞬速。心・気・力の一致」周作が生涯好んで使ったこの言葉には、その剣理の要諦が明瞭に示されている。剣術とはつまるところ太刀行きの速さであり、それ以外にはない。剣術を雲上の術から地上の力学に引き下ろしたこの男の新流派は、やがて近代日本剣道の大宗をなすこととなる。NET系列(現・テレビ朝日)で1967年8月3日〜9月28日に放送(「ナショナルゴールデン劇場」内)。モノクロ放送。第5回ギャラクシー賞の第2回期間選奨を受賞した。関西テレビ制作、フジテレビ系列にて1974年7月7日〜9月29日まで毎週日曜夜9時〜9時54分に放送された。白雪劇場がこの放送時間になってから第2作目。小西酒造の一社提供の番組。

出典:wikipedia

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