第2SS装甲師団 ダス・ライヒ(だいにSSそうこうしだん―、"2. SS-Panzer-Division "Das Reich")は、武装親衛隊の38個ある師団のひとつ。よく訓練されたエリート部隊で、第二次世界大戦の主要な戦闘で大きな役割を果たした。部隊名のダス・ライヒは祖国あるいは国家を意味する。下記の変遷を経て最終的にSS第2装甲師団 ダス・ライヒに発展した。ポーランド戦には親衛隊特務部隊は一つとしてまとまった形ではなく、いくつかの陸軍部隊に分散されて最初の戦火を経験した。ポーランド戦が終了した1939年10月10日、ようやく親衛隊特務部隊は一つにまとめられ、SS-VT 師団(SS特務師団)が設立された。その構成はSS連隊ドイッチュラント("SS-Standarte Deutschland")、SS連隊ゲルマニア("SS-Standarte Germania")、SS連隊デア・フューラー("SS-Standarte Der Führer")、通信大隊、偵察大隊である。フランス戦にSS-VT 師団としてロッテルダム攻撃に加わり、ロッテルダム攻略後、師団は他の師団とともに、連合軍をオランダ・ゼーラント周辺に押し込む任務を受けた。次に、陸軍部隊が制圧した地域で一部残る抵抗拠点を潰す任務を受けた。師団は、フランスに移され、強固に防御された運河を突破する支援を行い、パリへの進軍に参加した。戦いの終わりには、部隊はスペインとの国境近くまで前進していた。フランス戦後に、部隊は名称をSS-VT 師団から、SS師団ライヒ("SS-Division "Reich")と変更した。フランス降伏後、師団はイギリス英本土侵攻のためにフランスに留まったが、英本土侵攻作戦の延期により、1941年、師団はユーゴスラビア・ギリシア侵攻のためのマリータ作戦準備にルーマニアへ移動した。1941年3月26日、枢軸国の一員であるユーゴスラビアに反独クーデターにより親独政権が倒れた。4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビアへ侵入した。SS師団ライヒは、ハンガリーよりユーゴスラビアの首都ベオグラードへ進軍、注目すべき戦果として、ベオグラードを占領した。1941年4月12日の朝、SS大尉フリッツ・クリンゲンベルクの指揮するオートバイ兵中隊は、パンチェヴォからドナウ川の土手沿いにベオグラードに接近した。クリンゲンベルクは同市に突入することに不安を感じ、川の増水と渡河する橋がなく、オートバイ兵中隊には架橋装備や浮き橋も欠いていた。クリンゲンベルクは、川の北の土手にモーターボートを見つけ、クリンゲンベルクは部下とともにドナウ川を渡った。対岸に付いた後、2人を増援のために戻し、6人でベオグラードのダウンタウンに進んだ。町に入った後、クリンゲンベルクは20人のユーゴスラビア兵と遭遇し、彼らは一発も撃つことなく降伏。その後、クリンゲンベルクは短い戦闘の後、ユーゴスラビア軍の車両を鹵獲、それを利用してユーゴスラビアの軍務省へ向かった。しかし、彼らがビルに到着した時、ビルは放棄されていた。おそらく、軍司令部はドイツ空軍の空襲により首都から撤退したものと考えられる。ベオグラードには降伏交渉する軍の指揮機能が残っていなかったため、クリンゲンベルクはベオグラードのドイツ大使館へ向かった。都市の占領を宣言するため大きな鉤十字を広げ、大使館の上に掲げた。2時間後、ベオグラード市長が大使館を訪れ、クリンゲンベルクに降伏した。ドイツ軍の主力部隊が入城するまで1日を待たないといけなかった。ベオグラード占領の功績で、クリンゲンベルクは騎士鉄十字章を受けた。ベオグラード占領後、師団はソビエト侵攻作戦の一端を担うためにポーランドへ移動した。ソビエト侵攻の際、師団はヴォック元帥の中央軍集団のグデーリアン上級大将指揮下の第2装甲集団に所属する第46軍団(自動車化)の一員として、参加した。ビヤリストック包囲戦、ミンスク包囲戦に参加し、スモレンスク包囲戦、その後のスモレンスク近傍のエリニャの戦い(Battle of Yelnya)や、キエフ包囲戦にも参加した。その後、所属する第2装甲集団(後に第2装甲軍に昇格)は再度東進し泥濘に苦しみながらもオリョルを経由しブリヤンスク・ウィヤジマ複合包囲戦にも参加した。その後、レニングラード攻撃を中止して鉄道輸送されたヘープナー上級大将の第4装甲軍第40軍団に所属し、モスクワ攻略作戦であるタイフーン作戦に参加した。クリン南方からイストラを経て1941年11月ドイツ軍の最高進出点である、ソビエトの首都まで数マイルの地点まで迫った。ソビエトの首都を視野に納める地点まで前進した時、天候の悪化と大きな損失とソビエトの冬季反攻により師団は押し戻された。多大な損失を被った後、師団は、前線から引き抜かれ、フランスへ送られた。師団の一部は東部戦線に残され、カンプフグルッペ・オステンドルフ (KG Ostendorff) の名前で呼ばれた。オステンドルフは1942年6月に師団の本体と合流した。1942年11月、師団の一部は、トゥーロンで、フランス艦隊の自沈を防ぐ試みに参加した。その後、師団は、装甲擲弾兵師団へ格上げされ、SS装甲擲弾兵師団ダス・ライヒと改名された。1943年の初め、ダス・ライヒはハリコフの正面の崩壊の危機にある戦区の補強に東部戦線に戻された。ハリコフの再占領後、ダス・ライヒは、他の師団とともに、クルスクの戦いに参加した。ダス・ライヒは、突出部の南側の攻撃を担い40マイル前進したが、作戦が中止されベルゴロドに後退した。その後、ミウス河、ハリコフ、キエフと転戦した。10月に第2SS装甲師団ダス・ライヒと改称。続く戦闘により連隊規模まで消耗した為、カンプフグルッペ ダス・ライヒ(Kampfgruppe SS-Panzerdivision Das Reich)又はカンプフグルッペ ラマーディング(KG Lammerding)と呼ばれた。1944年2月に一部を東部戦線に残し師団は前線から引き抜かれフランスの南部の村モントーバンで装備と人員の補充を受け再編成が行われた。残った部隊はカンプフグルッペ ダス・ライヒ又はカンプフグルッペ ヴァイディンガー(KG Weidinger)と呼ばれた。3月、ソ連軍の春期攻勢によりカメネツ・ポドルスキーで包囲され第2SS装甲軍団がこれを救出した。救出されたヴァイディンガー戦闘団は既にフランスにいる師団の残りと合流するためにフランスに送られた。1944年6月のノルマンディへの連合軍侵攻時、ダス・ライヒは、ヒトラーユーゲント師団と装甲教導師団と共にカーンの北方で連合軍の進撃を食い止める任務を受けた。師団は、(マンシュ県のコミューン)を再占領したが、連合軍によりファレーズに包囲された。この戦いで重装備を失い、1944年の終わりまでに師団は、ドイツ・フランス国境まで撤退を行った。1944年12月のラインの守り作戦、ダス・ライヒ師団は攻撃の要である第6SS装甲軍に所属していた。ムーズ川を越え23マイル進んだ(リュクサンブール州の基礎自治体)において師団は停止し、連合国の反撃に遭遇した。その結果、作戦は失敗した。最後にバストーニュ占領のためいくつかの師団による攻勢がかけられたが、それも失敗した。このとき、ダス・ライヒのエルンスト・バルクマンは、たった1両のパンター戦車でアメリカ軍の戦車を9両撃破した。アルデンヌの戦いの後、ダス・ライヒはドイツ国内に再編成のため撤退した。ダス・ライヒは、東部戦線南のハンガリーのブダペストにおける反撃作戦に投入された。この作戦は、ブダペスト市内にヒトラーの死守命令により包囲された部隊を救出することが目的であった。しかし、当初の攻撃がブダペストへの最短ルートである装甲部隊の前進・攻撃に向かない地形に対して行なわれたため、部隊の前進は進まなかった。その後、遠回りであるが装甲部隊の進撃に向いている平地を経由しての攻撃が再度行なわれたが、既に時期を逸しており、作戦は失敗した。その後、ダス・ライヒは再度ドイツに戻り、残りの戦争中、ドレスデン、プラハ、ウィーンでの戦闘に参加し、終戦時、師団のほとんどはアメリカ軍に降伏するため西部戦線へ移動した。ダス・ライヒ師団が関与したと唯一の戦争犯罪の疑いがある事件は、ノルマンディに連合軍が上陸した4日後の1944年6月10日、フランス中南部・リムーザン地方のオラドゥール=シュル=グラヌの村での642人のフランス人の民間人の殺害である。この殺害には、第4SS装甲擲弾兵連隊「デア・フューラー」の第1大隊の指揮官であるSS少佐が関与していた。前日の6月9日にもチュールで99人の村人を殺害していた。彼はその地のマキ団により40人近い兵士が死傷したパルチザン活動に対する正当な処置であったと主張した。親衛隊当局は、ディークマンを民間人虐殺で起訴することを望んだが、彼は裁判を受ける前の6月29日にノルマンディ戦線で戦死してしまった。戦後、1953年に、フランス当局が裁判を行なったが、少数の人間しか有罪で処罰されなかった。オラドゥール=シュル=グラヌの村の跡地は戦後、廃墟のまま保存されている。
出典:wikipedia
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