つぼのいしぶみ(漢字表記では「壷の碑」)とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。12世紀末に編纂された『袖中抄』の19巻に「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也」とある。「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。すなわち、寂蓮法師、藤原顕昭、西行、慈円、懐円法師、源頼朝、藤原仲実、和泉式部、南部重信、藤原清輔、高山彦九郎、近藤芳樹、岩倉具視、下沢保躬、大塚甲山、山内鶯崖、大町桂月らがこの碑のことを詠っている。その内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。多賀城碑は発見されてから、多くの人からつぼのいしぶみであるとされたが、古川古松軒や菅江真澄、南部藩の名所旧蹟を研究した「旧蹟遺聞」、喜田貞吉、松井道円、長久保赤水、江刺恒久、松浦武四郎はいずれも南部壺碑説を採っている。一方、大淀三千風や徳川光圀、林子平、高野直重、松尾芭蕉、黒川道祐、新井白石、佐久間洞巌、大巻秀詮は多賀城碑をつぼのいしぶみであるとした。橘南谿は両説を公平に扱い、碑文から多賀城碑を西のいしぶみであるとし、南部藩にあるものは「東の壺の碑」であるとした。そして、藤原清輔や西行の和歌は南部壺碑のことを詠っているものではないかとしている。江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)、また多くの拓本もとられた。松尾芭蕉はこの碑を「つぼのいしぶみ」とし、『奥の細道』の旅中にここを訪れている。また、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、『袖中抄』にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述とは一致しない。また彫られている天平宝字6年の西暦762年は田村麻呂が活躍する以前の年号である。多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。多賀城碑が「つぼのいしぶみ」となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。当碑の発見後、『碑の写し』は古物珍重の風潮により贈答品として用いられようにまでなるが、藩より「碑からの採拓」が制限されても版が起こされて摺られた『拓本』が量産され、その版木が現存している。青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。このため、明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。実際に文屋綿麻呂が書いたとすれば811年(弘仁2年)頃の出来事になる。発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、『袖中抄』の記述とは一致するが、常識とは異なる「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形、発見時に学者らの調査以前に拓本をとるため表面を必要以上に綺麗にしてしまった問題などが鑑定に影響を及ぼしている。現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。鴨長明が13世紀初め頃に著した『発心集』には「…夷があくろ、つかる、つぼのいしぶみなどという方にのみ住みけるとかや。」とある。あくろとは喜田貞吉は地名であるとし、また「つかる」は津軽であるからこれも地名である。同様にここでは「つぼのいしぶみ」も地名として使われている。また『延喜本平家物語』では「いかなるあくろ、つかろ、つぼの石ふみ、夷がすみかなる千島なりとも…」とありここでも地名として扱われている。また、『長門本平家物語』や『延慶本平家物語』にも同様な表現が見られる。15世紀の作と思われる謡曲『千引』でもつぼのいしぶみが出てくる。概要は「壺の碑に千引の石という巨石があった。この石に魂があり、人を取るので捨てようとして各戸から人を徴集した。若い貧しいつぼこという娘がいたが、男手が無かったため一人男に混じって徴集されることを悲しみ、村を出る決意をしていた。娘には以前から契りを結んでいた男がいた。娘の憂いを聞き、自分が千引の石の精であることを明かした。自分はたとえ千人に引かれても動かないが、娘が引くならやすやすと引かれようと約束をする。当日、千人の男が引いても石は動かなかったが、女が一人引くと大石は軽々と動いた。それ以来、村人は娘を観音の化身とあがめ、娘は富者となった」というものである。南部の坪地方に伝わる伝説はこの謡曲とほとんど同じ内容である。この謡曲ではつぼのいしぶみは地名として扱われており、千引の石とは違うものであった。双方の石を結びつけて考えたのが、水戸藩の地理学者の長久保赤水であった。赤水は1760年『東奥紀行』で多賀城碑は単に多賀城修繕碑であり、つぼのいしぶみはかつて南部の壺村にあって、日本中央と記されていたが、石文明神として祀られて無くなった石碑だとした。その後のつぼのいしぶみについて述べる学者の多くが赤水の説に賛同をした。古川古松軒や菅江真澄らが長久保赤水の説に賛同している。(菅江真澄は文面や距離的な問題から多賀城碑はつぼのいしぶみではないと主張している。また、南部藩士の清水秋全は多賀城の碑文を見て「あれは単なる東西南北の遠近を記してるだけで尊く深い意味は無い。壷碑は南部坪村にあり日本の中央と云う意味深長なる銘文は誠に深い理由がある」と書いた。)それに対して、1872年に編纂された『新撰陸奥国誌』では壺の碑と千曳神社の石は別個のものであるとしている。壺の碑は洪水のために流出したが、坪川の杉渕に姿を見せていると記されている。江戸時代後期の南部藩の儒学者、市原篤焉が編纂した『篤焉家訓』でも「七戸の壺と云在名正しきが上に、壺川と云うる古き名の残りし川に、石面四、五丈計なる岩あり。其岩のある所を杉渕と云。昔は川岸に此岩あり。今は川岸崩れて岩のなかば川水に横たわる。日本中央といへる文字も土中の方に成たるへし。壺の在名(小村なり、高三十石)同壺川ある上は不可疑、正しき碑也」と朱書きされていて、少なくとも江戸時代後期には南部壺碑が川の中にあったとする説は存在しており、谷底にあったとする巨石の記述も複数あった。南部藩士の清水秋全は多賀城の碑文を見て「あれは単なる東西南北の遠近を記してるだけで尊く深い意味は無い。壷碑は南部坪村にあり日本の中央と云う意味深長なる銘文は誠に深い理由がある」とした。「日本中央」という文面の問題は、喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。「日本」という名前を蝦夷の土地に使っていた例があり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏は日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。ただこの場合、読みは『ひのもと』となる。日本の国号は最初は「倭」や「大和」であり、蝦夷地を「日本」や「日ノ本」と呼んだが、征夷後に大和は雅名をとって自分の国号とした。このことは『新唐書』『旧唐書』にも記述されている。1870年松浦武四郎は『[ 壺の碑考]』で多賀城説を唱えた伊達藩主と佐久間洞巌が「文を舞わした」と批判した。1892年に、田中義成は多賀城碑は佐久間洞巌の偽作であるという説を提示した。大槻文彦は1911年に佐久間が伊達藩の家臣として活躍する以前に既に多賀城碑は存在していることを資料によって明らかにした。さらに大槻は、大正4年に多賀城碑を壺碑とするのは誤りで、古歌によると壺碑は陸奥の極北にあることを示しているということから、両者は別物であるとし、南部壺碑説が妥当であるとしたが、田村麻呂が日本中央と記したとか千引の石のことは信じられないとした。喜田貞吉は大正14年に文室綿麻呂は都母に到達していること、「つぼのいしぶみ」は地名として取り扱われていることから、坪村地方には古碑伝説は本来無かったとし、多賀城碑説も問題にならないとして、つぼのいしぶみは本来どこにもなく、単なる歌枕に過ぎないとした。石文集落からの石について、青森県の地方史家の葛西覧造は彫られている文字が新しいことと、偽作の事実を知っている者があることから、近代の偽作であるとした。中道等は『甲地村誌』で、表面に彫られている文字も相当古いが、実はその下にさらに古い文字が読み取れ、史的価値に富むものだとしている。青森大学学長であった盛田稔は、現在保存・展示されている「日本中央の碑」は後世の偽作であるとしている。盛田は、この石が鉄道を敷く時に無蓋貨車に乗せてきて、下の沢に落とした物であることを、地元で故人の地方史家から他言無用の約束で聞いたとしている。しかし同時に、つぼのいしぶみ伝説について謎は全くないとし、文室綿麻呂が811年に蝦夷と戦ったとき、軍を引き上げるに際し対面を保つために、今後叛意を示さない限りここはお前たちの土地であるとの印に、蝦夷の中央の意味の「日本中央」と書いて与えたものだとしている。
出典:wikipedia
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