九段南(くだんみなみ)は、東京都千代田区の地名。現行行政地名は九段南一丁目から同四丁目の4か町。住居表示実施済み区域である。郵便番号は102-0074。町会は九段一~四丁目全てがそれぞれ南北合同で結成されている。東京都千代田区の北西部に位置し、麹町地域に属する。町域の東部は日本橋川を境に神田神保町および一ツ橋に、西は五番町に、南部は三番町、四番町および北の丸公園に、北部は靖国通りを境に九段北にそれぞれ接し、靖国通りに沿って九段下駅から市ケ谷駅までの細長い街区を形成している。市ヶ谷駅・飯田橋駅まで徒歩圏内にあり、神楽坂から散策も可能である。皇居・靖国神社・千鳥ケ淵・北の丸公園に近い。九段南は商業地としての性格が強く、通り沿いを中心に各種ビルや商店などが並んでいる。他に公的機関や、住宅地も見られる。公園・神社等があるため都心としては自然が多く残されている。九段下、麹町、永田町、霞が関等の官庁・公的機関・弁護士事務所等が集中するエリアに近接する。通称「九段下」。九段坂から俎橋までの南側一帯。牛ヶ淵に接する国有地には九段会館(2011年震災により閉鎖。戦前の軍人会館)・昭和館があり、民地はない。内堀通りの東側も千代田区役所や税務署などの役所で占められており、住民は極めて少ない。通称「九段上」。昭和初期までは富士見町の名で知られ、明治時代には山の手随一の繁華街として賑わった。東京屈指の花街があり、永井荷風の『おかめ笹』の舞台となった。トヨタ自動車販売のほか、オフィスビルとマンションで占められ、かつての三業地にわずかに民家や小規模な貸しビルが立ち並んでいる。千鳥ヶ淵沿いは千鳥ヶ淵緑道で桜並木となっており、桜のシーズンは多くの人が訪れる。「パークマンション千鳥ヶ淵」・「セントラルレジデンス番町シティタワー」・「ビラハイツ北の丸」等の高級マンションが点在する。富士見町(九段南二丁目)に連続する花街であり、戦後は九段検番が町内に置かれていた。三業地の置屋・待合・料亭はほとんど消滅し、小規模な貸しビルで占められている。一口坂交差点から市ケ谷駅までの地域で、商店・マンション・民家が混在する。住民の結束が固く、山王祭では麹町の氏子地域の中核として大神輿や囃子の乗る山車を運営する。市ケ谷駅が鉄道の結節点となったことから、駅前の商業地として賑わっている。「九段」という町名は、震災復興計画の中で靖国通りが拡幅・完成した後、1933年7月に初めて設置されたものである。それ以前は、九段一丁目は飯田町・竹平町、九段二丁目は富士見町二丁目と一丁目の一部、九段三丁目は三番町・四番町・富士見町三丁目の一部、九段四丁目は三番町・四番町の一部であった。1966年に、新住居表示が施行され、九段各丁目は靖国通りを境にして南北に分けられた。しかし住民の町会活動は南北合同で運営されている。田安門・九段坂の無人地帯をはさむことから、九段一丁目とそれ以外の坂上の町内との人的交流は少なく、また一・二丁目が築土神社、三・四丁目が日枝神社の氏子地域であることから、祭礼も別々になっている。しかし、1980年代までは九段二丁目・三丁目には花街(三業地)があり、戦前までは神楽坂をしのぐ繁栄を見せていた。関東大震災によって東京の市街化が西に進み、新宿が繁華街となるまでは、九段上から三番町(現九段三丁目、靖国神社南門周辺)までが山の手随一の盛り場であり、料亭や寄席も立ち並び、靖国神社の門前町としての性格ももっていた。20世紀末から今世紀にかけて、料亭文化(いわゆる「社用族」による接待の風習)がすたれ、三業を形成する置屋や待合の経営者が高齢化するとともに、九段から花街の雰囲気は消滅した。土地は細分化され、複雑な所有関係をもつところが多いことから、大規模な開発は行なわれず、零細な貸しビルが立ち並ぶ特色のない地域に変わってしまった。(挿図は1939年5月1日、九段三業組合20周年記念写真。鉄筋4階建の検番は地域の象徴であった。現在の千代田区九段南二丁目、区立さくら館の位置にあたる)交通機関は東京メトロ半蔵門線・南北線・東西線・有楽町線・JR中央線が利用可能で、丸の内・新宿・渋谷・池袋・銀座等都内諸地域への交通の便は良い。
出典:wikipedia
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