八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)は、鎌倉時代中期・後期に成立したと思われる八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起。「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童蒙にも理解出来るように説いた」の意味である。諸本に書かれた書名によって『八幡大菩薩愚童訓』『八幡愚童記』などともいい、江戸時代初期に作成されたものの表題に附された訓に基づいて「はちまんぐどうきん」とも呼ばれる。元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても有名である。著者は不明であるが、石清水八幡宮の社僧の作と考えられる。本書は同系統ながら内容にやや差異のある2種に大別されており、分類上、甲種・乙種と呼ばれる。成立年代については、甲種は延慶元年から文保2年以前(1308年 - 1318年)と考えられ、乙種は正安年間(1299年 - 1302年)頃の成立という。また、特に甲種本は一類・二類に分類される。一類は前文が具体的な内容になっており、文永の役についてもモンゴル・高麗連合軍による対馬・壱岐の侵攻が明記されている。一方、二類は前文が抽象的であり、対馬・壱岐の侵攻についての記載が殆どない。甲乙ともに上下二巻本で構成されるが、元来は一本であったとも考えられる。万治3年(1660年)書写のいわゆる柳原旧蔵本は下巻を欠いているが上巻と中巻があり、三巻本が存在したとも言われている。上述のように、甲乙本ではそれぞれ内容に差異があるが、以下はその概観を述べる。上下二巻。甲種本は、史上の異敵とその降伏(こうぶく)に関する事蹟が述べられ、上巻においては神功皇后のいわゆる「三韓征伐」、皇后の皇子であり八幡大菩薩とされる応神天皇の事蹟、文永の役における蒙古軍の襲来、対馬・壱岐への侵攻、九州上陸と九州御家人勢との戦闘の状況、箱崎八幡宮(筥崎八幡宮)の焼亡などが記される。下巻は弘安の役における思円上人・叡尊の修法、蒙古退却の奇瑞などを記述する。甲種本の特徴としては、文永の役におけるモンゴル・高麗連合軍である蒙古軍の対馬・壱岐侵攻に関する史料となっている点である。また、箱崎八幡による奇瑞や神威の顕現によって度々蒙古軍が撃退されたことが述べられている。さらに、叡尊の祈祷による霊験の成果が強調されており、本書の成立に社寺の祈祷に対する朝廷からの恩賞問題が関わっていた可能性が指摘されている。(群書類従 第一輯 神祇部 巻十三 収録)上下二巻。乙種本は、八幡大菩薩の霊験・神徳について14章にわたって述べ、阿弥陀信仰との習合を説いた教義書的性格を持つ。序にはじまり、垂迹、名号、遷坐、御躰、本地、王位、氏人、慈悲、放生会、受戒、正直、不浄、仏法、後世の十四章からなり、各項目にわたり広大無辺なる八幡大菩薩の神徳霊験が述べられている。(続群書類従 第二輯 神祇部 巻三十)八幡愚童訓には写本が多数あり、内容も各本で異同がある。以下、元寇に関する九州での御家人に関する記述についての異同事例を述べる。「九国ニハ少弐・大友ヲ始トシテ、菊池・原田・松浦・小玉党以下、神社仏寺ノ司マデ、我モゝゝト馳集ル。大将ト覚敷(おぼしき)者ダニモ十万二千余騎、都合ノ数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」(「八幡愚童訓 甲」。「九國ニハ、少貳・多友、紀伊ノ一族・ウスキ・ヘツキ・松浦黨・菊池・原田・兒玉黨已下、神社佛寺之司マテ、我モゝゝト馳集リキ、十万二千余騎ト云フ、都合ノ數ハ、イクラ、何千万騎ト云事ヲ不知、」「九国ニハ少弐大友(トモ)ヲ始トシテウスキ(臼杵)戸次松浦党菊池原田小玉党以下神社仏寺ノ司マテ我モゝゝト馳集マル。大将トヲホシキ者タニ 十万ニ千余騎都合数ハ何千万騎ト云事ヲ不知。」「九國ニ馳集軍丘(ママ)誰々ソ少貳大友菊池原田紀伊一類臼木戸次松浦黨兒玉黨以下神社佛寺之司及モ我モ々ト打立ケル大将軍一万二千余騎都合其勢十万騎ト云ヘ共[米+攵]ヲ不知」「此九國にては、かねて攻来へしと思ひし事なりけれは、来ぬときより、馳参る軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、たとひ異敵十萬に及ふとも、何ほとの事かあらんとて、いさましく見えにけり」とあり、「十万」云々は武士勢のことではなく来襲してくるであろう蒙古勢のことになっている。
出典:wikipedia
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