百済 河成(くだら の かわなり、延暦元年(782年) - 仁寿3年8月24日(853年9月30日))は、平安時代初期の貴族・画家。氏姓は余(あぐり。無姓)のち百済朝臣。百済の第28代の王である恵王の後裔で、余時善の子で、子に岑人がいたとする系図がある。官位は従五位下・安芸介。大同3年(808年)に左近衛府に任ぜられるが、絵画に優れていたことから宮中に召し出された。弘仁14年(823年)美作権少目。天長10年(833年)外従五位下に叙せられる。承和年間に備中介・播磨介・安芸介を務めるなど地方官を歴任した。この間、承和7年(840年)兄・福成らとともに合わせて3人が百済朝臣姓の賜与を受け、承和12年(845年)には内位の従五位下に叙せられている。仁寿3年(853年)8月24日卒去。享年72。最終官位は散位従五位下。個人名の残っている最初の画家で、平安時代世俗画の出発点とされる人物。名人として伝説は多いが、絵画作品は残っていない。描いた肖像画は本人にそっくりで、山川草木は精妙でまるで生きているようであったという。庭園造営も手がけ、嵯峨院の造営に際しては御堂の壁の絵をかくとともに、滝殿の石組みも造り上げたという。この滝殿は名古曽滝と呼ばれたが、水は平安時代中期に枯れ、石組みだけが残った。のち、1922年に「大沢池 附 名古曽の滝跡」の名称で国の名勝に指定され、1994年から行われた発掘調査で中世の遣水が発見され、1999年に復元が完了している。また、武芸に長じ良く強弓も引いた。人物は「生けるが如く」と称されている。『六国史』による。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。