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夕凪 (2代神風型駆逐艦)

夕凪(ゆうなぎ / ゆふなぎ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。神風型(2代目)の9番艦である。建造時の艦名は第十七号駆逐艦。この名を持つ日本海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「夕凪」に続いて2隻目。八八艦隊計画で建造された神風型駆逐艦の最終艦。太平洋戦争時は旧式化しており、緒戦時は第四艦隊の指揮下にあった。1942年(昭和17年)8月上旬の第一次ソロモン海戦では第八艦隊各艦と共にガダルカナル島に突入して米艦隊との夜間水上戦闘に参加。1943年(昭和18年)6月以降、戦局が悪化する中で最前線での強行輸送任務(鼠輸送)に従事し、ソロモン諸島における数々の海戦に参加した(コロンバンガラ島沖海戦、第二次ベララベラ海戦、ブーゲンビル島沖海戦等)。1944年(昭和19年)3月以降は船団護衛に従事し、6月下旬のマリアナ沖海戦に参加したがヒ71船団を護衛した後の8月下旬、米潜水艦の雷撃で沈没した。1923年(大正12年)1月27日、佐世保海軍工廠で建造予定の駆逐艦に第十七駆逐艦の艦名が与えられる。同日附で艦艇類別等級表に一等駆逐艦として登録される。同年9月27日、第17駆逐艦(夕凪)は佐世保海軍工廠で起工。1924年(大正13年)4月23日、第17駆逐艦(夕凪)は進水。進水翌日、第17駆逐艦は第十七号駆逐艦と改名される。同年12月1日、初代「夕凪」は除籍された。同日附で日本海軍は樅型駆逐艦「菊」艦長山田定男少佐を、第17号駆逐艦艤装員長に任命する。1925年(大正14年)2月9日、山田少佐は制式に第17号駆逐艦長(初代)となる。初代幹部は、砲術長高田俐大尉、航海長渋谷清見大尉、水雷長杉浦嘉十大尉、乗組大前敏一少尉、機関長奥村繁喜機関大尉。4月24日、第17号駆逐艦は竣工した。1928年(昭和3年)8月1日附で第一号型駆逐艦は神風型駆逐艦と改称。第17号駆逐艦も夕凪と改名された。夕凪とは夕方における海上の無風状態のことだが、アメリカ人研究者は『その使命とデザインからすると似ても似つかぬ艦名』と評している。1926年(大正14年)5月1日、日本海軍は駆逐艦2隻(第15号駆逐艦《朝凪》、第17号駆逐艦《夕凪》)により第29駆逐隊を編制。駆逐隊司令岩崎本彦中佐。9月10日、第29駆逐隊は第二艦隊に編入12月1日、第29駆逐隊司令は岩崎本彦大佐(補第4駆逐隊《羽風、秋風、太刀風、帆風》司令)から山本松四中佐(前職第7駆逐隊《松、杉、柏、榊》司令)に交代。12月25日、第13号駆逐艦(疾風)が第29駆逐隊に編入。第29駆逐隊は定数4隻(第11号《追風》、第13号《疾風》、第15号《朝凪》、第17号《夕凪》)を揃える。当時の第二艦隊は、第四戦隊(霧島、比叡)、第五戦隊(由良、名取、川内)、第二水雷戦隊(旗艦《五十鈴》、第3駆逐隊《汐風、島風、灘風、夕風》、第5駆逐隊《第3号、第5号、第7号、第9号》、第29駆逐隊)、第二潜水戦隊(旗艦《長鯨》、第14潜水隊、第17潜水隊)という編制だった。1926年(大正15年)12月1日、第17号駆逐艦長として駆逐艦浜風(初代)艦長久我徳一中佐が着任(後任の浜風艦長は栗田健男少佐)。同日附で艦隊の編成がかわり、第二艦隊(旗艦金剛)は第四戦隊(金剛、比叡)、第五戦隊(加古、古鷹、神通、那珂)、第二水雷戦隊(旗艦《夕張》、第5駆逐隊、第22駆逐隊《第27号〔皐月〕、第28号〔水無月〕、第29号〔文月〕、第30号〔長月〕》、第29駆逐隊《追風、疾風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《第19号〔睦月〕、第21号〔如月〕、第23号〔弥生〕、第25号〔卯月〕》)、第二潜水戦隊となる。1927年(昭和2年)8月4日、美保関事件が発生し12月1日の編成替で第二水雷戦隊旗艦は夕張から名取に変更される。同日附で第29駆逐隊司令山本松四大佐は天龍型軽巡洋艦2番艦龍田艦長へ転任、第28駆逐隊(蓼、蓮、蓬)司令千谷定衛中佐が第29駆逐隊司令に任命された。同時に久我(第17号駆逐艦長)も免職(翌年2月15日、第40号駆逐艦《東雲》艤装員長。7月15日、初代駆逐艦長)。樅型駆逐艦菫艦長藤田類太郎少佐が第17号駆逐艦長となる。1928年(昭和3年)8月1日附で第17号駆逐艦は夕凪と改名、藤田の役職名も第17号駆逐艦長から夕凪駆逐艦長に替わった。12月10日、藤田(夕凪駆逐艦長)は峯風型駆逐艦4番艦島風艦長へ転任。中円尾中佐(疾風艦長)は睦月型10番艦「三日月」艦長へ転任。峯風型7番艦羽風艦長園二郎少佐は、神風型2隻(夕凪、疾風)艦長の兼務を命じられた。第29駆逐隊司令も千谷定衛大佐から染河啓三大佐(第15駆逐隊《萩、薄、藤、蔦》司令)に交代した。1929年(昭和4年)3月4日、第1駆逐隊(神風、野風、沼風、波風)と第29駆逐隊の司令を交代する人事が行われる(染河大佐《第29駆逐隊司令》は第1駆逐隊司令へ、高橋忠治中佐《1駆司令》は29駆司令へ)。11月1日、夕凪駆逐艦長には樅型橘艦長高橋一松少佐が着任した。疾風駆逐艦長には津田源助少佐(秋風艦長)が任命される。11月30日、高橋忠治大佐(第29駆逐隊司令)は第30駆逐隊司令へ転任、駆逐艦睦月初代艦長等を歴任した白石邦夫中佐(第25駆逐隊《梨、竹、樅、榧》司令)が第29駆逐隊司令となる。1930年(昭和5年)12月1日、白石邦夫大佐(第29駆逐隊司令)は出雲型装甲巡洋艦2番艦「磐手」艦長へ転任、後任の29駆司令は山本弘毅大佐となる。1931年(昭和6年)12月1日、第29駆逐隊司令山本弘毅大佐は川内型軽巡洋艦3番艦那珂艦長に補職され、吹雪型駆逐艦綾波初代艦長後藤鐡五郎中佐が第29駆逐隊司令となる。同日附で高橋中佐(夕凪艦長)は佐世保鎮守府附。朝凪駆逐艦長伊崎俊二中佐が、神風型2隻(朝凪、夕凪)艦長を兼務する。1932年(昭和7年)9月15日、伊崎俊二中佐は馬公要港部参謀に補職。桃型駆逐艦「檜」艦長小西要人少佐が、神風型2隻(朝凪、夕凪)艦長を兼務した。1933年(昭和8年)3月15日、小西少佐(朝凪、夕凪艦長)は免職。日本海軍は佐藤寅治郎少佐に対し、駆逐艦4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)の艦長兼務を命じた。4月1日、樅型2隻(竹、梨)艦長を兼務していた吉村真武少佐が神風型2隻(朝凪、夕凪)艦長に補職され、佐藤の兼務は神風型2隻(追風、疾風)に戻る。11月1日、後藤鐡五郎中佐(第29駆逐隊司令)は第4駆逐隊(羽風、秋風、太刀風、帆風)司令へ転任、後任は藤田類太郎中佐(第27駆逐隊《蓼、蓮、蓬》司令)。11月15日、第29駆逐隊は第一艦隊所属。1934年(昭和9年)6月下旬、連合艦隊(司令長官末次信正中将、旗艦金剛)は第一艦隊・第二艦隊の演習を実施。第一水雷戦隊も参加した。6月29日、演習中に第二艦隊・第二水雷戦隊(旗艦那珂)で衝突事故が発生(深雪、電)、「深雪」は沈没した。同年11月1日、吉村真武少佐(夕凪艦長)は吹雪型駆逐艦磯波艦長へ転任。後任の夕凪艦長は、海軍水雷学校教官を務めていた原為一少佐。11月15日、藤田類太郎大佐(第29駆逐隊司令)は第20駆逐隊(東雲、磯波、吹雪)司令へ転任、後任の29駆司令は広瀬末人中佐(第2駆逐隊《峯風、沖風》司令)。神風型4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)は竣工より第29駆逐隊として行動を続けたが、1935年(昭和10年)11月15日に行われた編制替で、日本海軍は神風型2隻(朝凪、夕凪)により第28駆逐隊を再編。駆逐隊司令には大藤正直中佐を任命する(大藤は、駆逐艦深雪衝突沈没時の艦長)。司令駆逐艦は朝凪。同日附で原為一少佐(夕凪艦長)は睦月型駆逐艦8番艦長月艦長へ転任。若竹型駆逐艦8番艦刈萱艦長山隈和喜人少佐が夕凪駆逐艦長に任命された。1936年(昭和11年)6月1日、第28駆逐隊(朝凪、夕凪)は水上機母艦「神威」と共に第三航空戦隊を編制。司令駆逐艦は「夕凪」に変更。神威以下第三航空戦隊は、南洋方面における航空機基地調査に赴いた。12月1日附で、第三航空戦隊は連合艦隊附属の第十二戦隊に改編される。旗艦は竣工したばかりの敷設艦沖島。同日、大森中佐(第28駆逐隊司令)は馬公要港部港務部長へ転任。後任の28駆司令は森友一中佐。また山隈和喜人少佐(夕凪艦長)は吹雪型白雲艦長へ転任。樅型駆逐艦「柿」艦長大迫東少佐が夕凪駆逐艦長となる。1937年(昭和12年)8月27日、日本海軍は再び第三航空戦隊を編成(水上機母艦《神威》、第28駆逐隊《朝凪、夕凪》)。本艦は10月20日附で第3予備艦となり、佐世保警備戦隊に編入。12月1日、森友一中佐(第28駆逐隊司令)は第9駆逐隊司令へ転任。1938年(昭和13年)2月10日、西岡茂泰中佐は第28駆逐隊司令に任命される。6月1日、鈴木保厚少佐は神風型2隻(夕凪、朝凪)艦長兼務を命じられる。夕凪駆逐艦長の任を解かれた大迫は、後日夕雲型駆逐艦1番艦「夕雲」2代目艦長に任命され、同艦沈没時に戦死した(第二次ベララベラ海戦)。8月5日、西岡中佐(第28駆逐隊司令)は、第28駆逐隊司令と第21駆逐隊(初春、子日、若葉、初霜)司令の兼務を命じられる。8月25日、塚本道太郎少佐(サボ島沖海戦時の朝潮型夏雲艦長。同艦沈没時に戦死)は臨時の駆逐艦峯風艦長の任を解かれ、鈴木少佐(夕凪、朝凪)艦長は峯風艦長の兼務も行うことになった。10月20日、西岡中佐は第22駆逐隊司令に補職。それまでの22駆司令伊原美岐雄中佐が、第28駆逐隊・第21駆逐隊司令を兼務する。11月10日、鈴木少佐(夕凪、朝凪、峯風)艦長は神風型姉妹艦追風艦長に任命される。岩橋透少佐(当時、樅型駆逐艦葦艦長)が、駆逐艦3隻(夕凪、朝凪、峯風)艦長を兼務した。12月1日、樅型駆逐艦蔦艦長岩上次一少佐が朝凪艦長に任命され(ミッドウェー海戦時の駆逐艦萩風艦長)、岩橋少佐の艦長兼務は2隻(夕凪、峯風)にかわる。12月5日、水上機母艦能登呂艦長早川幹夫大佐が第28駆逐隊司令に任命、井原大佐(第21駆逐隊司令)は兼務を解かれた。睦月型2隻(水無月、皐月)艦長を兼務していた久保木英雄少佐が「峯風」艦長を兼務することになり、岩橋少佐の役職は夕凪駆逐艦長のみとなった(久保木少佐はビスマルク海海戦における駆逐艦荒潮沈没時に戦死)。1939年(昭和14年)11月15日、早川幹夫大佐(28駆司令)は第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)司令に補職。第41駆逐隊(朝雲、夏雲、山雲、峯雲)司令だった柴田力大佐が、後任の28駆司令となる。12月1日、岩橋透少佐(夕凪艦長)は吹雪型駆逐艦3番艦「初雪」艦長へ転任。後任の夕凪駆逐艦長は、鴻型水雷艇雉水雷艇長田中忠敏少佐。元夕凪艦長の岩橋少佐は、初雪艦長を経て朝潮型5番艦朝雲艦長となり、スラバヤ沖海戦、第三次ソロモン海戦、ビスマルク海海戦等、数々の激戦に参加している。1940年(昭和15年)9月25日附で田中忠敏少佐(夕凪艦長)は海軍中佐に昇進。9月30日、山下正男少佐(舞鶴防備隊分隊長)が夕凪駆逐艦長に任命される11月15日まで神風型2隻(朝凪、夕凪)は引き続き第28駆逐隊を編成。11月上旬にかけて朝凪は函館港を、夕凪と第22駆逐隊(文月、皐月、長月、水無月)は佐世保軍港および長崎軍港の防御を担当した。当事、長崎(三菱重工業長崎造船所)では大和型戦艦2番艦武蔵(昭和15年11月1日進水)や橿原丸級貨客船2番艦橿原丸(空母隼鷹)の建造、佐世保海軍工廠では陽炎型駆逐艦12番艦磯風(昭和15年11月30日竣工)の艤装を行っていた。11月15日附で第28駆逐隊は解隊。第28駆逐隊司令柴田力大佐は第5防備隊司令へ転任。神風型2隻(朝凪、夕凪)は再び第29駆逐隊に編入され、同隊は定数4隻(追風、疾風、朝凪、夕凪)を揃えた。当時の第29駆逐隊司令は清水利夫中佐(前職占守型海防艦2番艦国後艦長)。第29駆逐隊は第四艦隊・第六水雷戦隊(旗艦「夕張」)に所属。トラック泊地に進出し、同方面で行動する。1941年(昭和16年)9月1日、第29駆逐隊司令清水利夫大佐は初春型駆逐艦4隻(初春、子日、若葉、初霜)で編制された第21駆逐隊司令に補職。後任の第29駆逐隊司令は瀬戸山安秀大佐(第11掃海隊司令)。太平洋戦争緒戦時、第29駆逐隊は引き続き南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官(旗艦鹿島)の麾下にあり、第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将、旗艦「夕張」、第29駆逐隊《追風、疾風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、如月、弥生、望月》)として中部太平洋諸島から南東方面の作戦に従事した。12月11日、第十八戦隊(天龍、龍田)や第六水雷戦隊各艦と共にウェーク島攻略戦に参加した第29駆逐隊(追風、疾風)のうち疾風が撃沈され、第30駆逐隊も如月を喪失した。第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)や第二航空戦隊の支援を受けた夕凪以下第29駆逐隊(追風、朝凪、夕凪)・第六水雷戦隊・第十八戦隊各艦は、第二次ウェーク島攻略戦に参加した。1942年(昭和17年)1月15日附で駆逐艦2隻(29駆《疾風》、30駆《如月》)はそれぞれの駆逐隊から除籍され、第29駆逐隊は神風型3隻(朝凪、夕凪、追風)、第30駆逐隊は睦月型駆逐艦3隻(睦月、弥生、望月)となった。その後も第六水雷戦隊として各艦(夕張、追風、朝凪、睦月、弥生、望月)等と行動を共にする。3月10日、SR方面攻略部隊(第六水雷戦隊)はニューギニア島東部サラモアで揚陸作戦を実施中、アメリカ軍機動部隊(レキシントン、ヨークタウン)艦載機の空襲を受ける(ラエ・サラモアへの空襲)。輸送船4隻沈没、本艦以下多数の艦艇(夕張、追風、朝凪、夕凪、津軽、聖川丸、掃海艇)等が損傷。特に夕凪は直撃弾で機関部に損傷を受け、戦死29名、負傷者約40名。主計科が全滅状態になるなど、大きな損害を受けた。応急修理の後、第六水雷戦隊はトラック泊地に回航。3月26日、第29駆逐隊(追風、夕凪、朝凪)はトラック出発。4月1日、佐世保へ戻った。4月15日附で夕凪駆逐艦長は、山下正男少佐から岡田静一大尉(当時、重巡摩耶水雷長)に交代。4月23日、第29駆逐隊(追風、朝凪)は佐世保を出撃。夕凪は佐世保での修理を続けた。5月中も夕凪は佐世保で修理を続けた。5月25日、睦月型9番艦菊月の除籍(5月4日、ツラギ島で沈没)により第23駆逐隊(夕月、卯月)は解隊される。それにともない、同隊の睦月型12番艦夕月が第29駆逐隊に編入され、定数4隻(夕月、追風、朝凪、夕凪)を回復した。同日附で第29駆逐隊司令は瀬戸山安秀大佐から鳥居威美中佐(第23駆逐隊司令)に交代した(瀬戸山は6月25日より第27駆逐隊司令)。5月31日、夕凪は佐世保を出撃、船団護衛に従事しつつパラオに進出する。また第六水雷戦隊各艦も整備を終えて、前線に向かった。夕凪は船団護衛に従事。一方、第六水雷戦隊は6月下旬から7月上旬にかけてガダルカナル島への日本軍飛行場設営作戦に従事する。この飛行場は完成直後にアメリカ軍に奪取され、ヘンダーソン飛行場と命名された(ウォッチタワー作戦)。1942年(昭和17年)7月10日、第六水雷戦隊が解隊された(梶岡司令官は横須賀鎮守府附)。同時に構成兵力(夕張、第29駆逐隊《夕月、追風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、弥生、望月、卯月》)は第二海上護衛隊(4月10日編成、司令官茂泉慎一中将/第四根拠地隊司令官兼務)へ編入された。旧第六水雷戦隊所属各艦は引続き第四艦隊(旗艦鹿島)の麾下にあって行動する。だが第30駆逐隊が第二海上護衛隊として護衛作戦に従事する機会は訪れず、わずか4日で第八艦隊(7月14日編制、司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐、参謀大前敏一中佐)へ異動した。8月5日には特設水上機母艦能代丸も除かれ、代艦として浮島丸が編入した。また旧第六水雷戦隊各艦は引き続きニューギニア・ガダルカナル島飛行場建設任務に従事することになった 。7月18日、佐世保での修理を終えた朝凪がラバウルに到着して夕張以下僚艦と合流する。7月25日、朝凪は陸軍参謀辻政信中佐を乗せてラバウルを出撃。ブナ(パプアニューギニア)に向かう途中で、連合軍双発爆撃機の空襲を受けて損傷。至近弾により辻陸軍参謀も負傷した。同艦は7月28日、ラバウルに帰投。その後朝凪は修理のため内地へ帰投(8月10日トラック発、輸送船2隻を護衛して23日横須賀着)。夕凪が活躍した第一次ソロモン海戦に参加できなかった。また第29駆逐隊僚艦(追風、夕月)も飛行機救助任務や揚陸作戦に投入されており、別行動だった。第一次ソロモン海戦(1942年(昭和17年)8月8日-8月9日で、本艦は外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官直率部隊(旗艦鳥海)に編入、三川艦隊(重巡洋艦4隻《第八艦隊旗艦鳥海、第六戦隊〔青葉、加古、衣笠、古鷹〕》、軽巡洋艦2隻《第十八戦隊〔天龍〕、第二海上護衛隊〔夕張〕》、駆逐艦《夕凪》)として行動を共にする。ガダルカナル島およびサボ島に突入、連合軍の水上部隊と砲火を交えた。8月10日、三川長官直率隊(鳥海、天龍、夕張、夕凪)はラバウルに戻る。カビエンに帰投した第六戦隊はアメリカの潜水艦S-44の雷撃により加古が喪失した。第一次ソロモン海戦で勝利した日本海軍だったが、ガダルカナル島およびヘンダーソン飛行場の奪還には失敗した。8月11日夜、第29駆逐隊(追風、夕凪)はラバウルを出撃、13日にガ島へ突入し、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を実施。14日夕刻、ラバウルに戻った。8月25日から26日かけての第二次ソロモン海戦前後における夕凪は、第八艦隊各艦(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)や外南洋部隊増援部隊(江風、磯風、陽炎)等とソロモン諸島で行動した。ガダルカナル島の戦いが本格化するにつれて内南洋方面の作戦輸送の重要性が増し、第四艦隊(司令長官井上成美中将)と第八艦隊(司令長官三川軍一中将)は海上交通保護に関する協定を結ぶ。第二海上護衛隊(夕張、夕月、夕凪、追風)は八月下旬までソロモン諸島方面の作戦に従事し、続いて九月上旬にかけてナウル島・オーシャン島攻略作戦に従事。夕凪は9月中旬から海上護衛作戦に加わり、平洋丸を護衛して9月20日トラック泊地を出発、23日ラバウル着。以後、第二海上護衛隊戦力(夕張、第29駆逐隊《追風、夕凪、朝凪、夕凪》、浮島丸、長運丸、横鎮部隊《旗風》)に加え、佐鎮部隊から派遣された峯風、連合艦隊からの応援駆逐艦等で護衛作戦を実施する。10月と11月はマーシャル諸島方面で行動。なお10月下旬、第四艦隊司令長官は井上成美中将から鮫島具重中将に交代していた。11月中旬、第29駆逐隊(夕凪、朝凪)は香取型練習巡洋艦2番艦鹿島(第四艦隊司令長官鮫島具重中将座乗)を護衛してトラック泊地を出発、クェゼリン環礁等を航海した。12月2日、2隻(鹿島、夕凪)はトラック泊地に帰投。以後、夕凪はトラック泊地周辺およびサイパン方面の船団護衛任務に就いた。1943年(昭和18年)1月および2月、引き続きトラック泊地とサイパン間の船団護衛任務に従事。3月18日、夕凪は佐世保に戻った。1943年(昭和18年)3月20日、日本海軍は望月型・水無月型駆逐艦、神風型駆逐艦、峯風型駆逐艦の一部ボイラー・主砲・魚雷兵装を撤去し、対空火力を強化した上で甲板に輸送物資と十米特型運貨船2基を搭載する改造を行うよう通達した。第一次の改造対象は2隻(卯月、夕凪)、第二次改造予定は3隻(文月、三日月、追風)となる。当時の佐世保海軍工廠は阿賀野型軽巡洋艦2隻(矢矧、酒匂)等の建造や、最上型重巡洋艦1番艦「最上」の航空巡洋艦改造工事など多数の艦艇の整備・修理を行っていた。4月1日、第八艦隊司令長官は三川軍一中将から鮫島具重中将に交代。同日附で第29駆逐隊と第34駆逐隊は解隊された。2隻(夕張、夕凪)は第四艦隊(南洋部隊)から第八艦隊(外南洋部隊)に編入される。横須賀鎮守府附となった29駆司令鳥居威美大佐は、4月20日附で第十戦隊附、4月27日附で第16駆逐隊(雪風、初風、天津風)司令となった。当時の夕凪は引き続き佐世保にあって、各艦(最上、足柄、日向、千歳、涼風、江風)等と共に、整備と修理を受ける。5月から6月にかけて、夕凪以下佐世保入港艦艇は整備・修理を実施。5月23日附で夕凪駆逐艦長は岡田静一少佐から、峯風型駆逐艦7番艦羽風沈没時艦長の鹿嶋正徳少佐に交代(岡田少佐は6月25日から姉妹艦旗風艦長。翌年3月1日より海軍水雷学校教官)。また開戦時の夕凪艦長山下正男少佐も、夕凪艦長の交代と同日附で白露型駆逐艦10番艦涼風艦長に任命された。6月11日、夕凪は佐世保を出撃、ラバウルへ進出すると6月27日に駆逐艦3隻(望月、皐月、夕凪)でコロンバンガラ島輸送を実施する。同時期、連合国軍はカートホイール作戦を発動して、アメリカ軍はレンドバ島に上陸を開始しニュージョージア島の戦いが始まった。当時のラバウルには、軽巡夕張以下駆逐艦部隊(新月、秋風、望月、皐月、夕凪)等が停泊していた。7月1日の第一次レントバ島突入作戦は、第11駆逐隊司令指揮の先行隊(天霧、初雪、長月、水無月、三日月)と第三水雷戦隊司令官直率隊(新月、望月、皐月、夕凪)で実施されるが、米艦隊は出現しなかった。7月2日の第二次レントバ島突入作戦では、夕張艦長(舟木守衛大佐)指揮下の陽動隊(夕張、三日月、夕凪)として行動する。陽動隊は2日午後3時にブインを出撃、モノ島南方を行動して3日朝になりブインへ戻った。7月4日、コロンバンガラ島への輸送任務のため第一回輸送隊(指揮官金岡国三第22駆逐隊司令:第22駆逐隊《長月、皐月》、新月、夕凪)と、7月5日出撃予定の第二回輸送隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第30駆逐隊《望月、三日月》)が編制され、第一回輸送隊は夕刻になりブインを出撃する。同日4日深夜、クラ湾に差し掛かったところで、ニュージョージア島バイロコに対して艦砲射撃中の米艦隊(指揮官ヴォールデン・L・エインスワース少将)を発見、輸送任務を断念して魚雷攻撃を敢行。魚雷は駆逐艦ストロング ("USS Strong, DD-467") に命中し、ストロングは魚雷命中と陸上からの反撃で沈没した。輸送隊は5日朝、ブインに戻った。7月6日、クラ湾夜戦で駆逐艦2隻(新月、長月)が沈没、特に秋月型駆逐艦5番艦新月の沈没により第三水雷戦隊司令部は全滅した(三水戦司令官秋山輝男少将戦死)。高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長有賀幸作大佐が増援部隊の指揮を継承した後(鳥海の代艦として駆逐艦雪風を臨時第八艦隊旗艦に指定)、伊集院松治大佐(金剛型戦艦1番艦金剛艦長)が7月7日附で第三水雷戦隊司令官に任命される(着任10日)。第三水雷戦隊の準備が整うまで、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が増援部隊の指揮を執ることになった。7月9日、外南洋部隊指揮官(鮫島中将)直率の日本艦隊(主隊《鳥海、川内》、警戒隊《雪風、夕暮、谷風、浜風》)、輸送隊(皐月、三日月、松風、夕凪)はニュージョージア諸島に向かうが米艦隊は出現せず、コロンバンガラ島輸送作戦を実施して全艦無事にブインへ帰投した。7月12日の輸送作戦は、増援部隊指揮官伊崎俊二少将(第二水雷戦隊司令官)を指揮官とする警戒隊(神通、清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)と輸送隊(皐月、水無月、夕凪、松風)で実施。エインスワース少将指揮下の米巡洋艦部隊と夜間戦闘になり米艦隊に損害を与えた上で輸送作戦も成功したが、日本側は神通が喪失した。伊崎少将及び第二水雷戦隊司令部は全滅した。日本海軍は7月20日附で第四水雷戦隊を解隊し、第四水雷戦隊司令官高間完少将を第二水雷戦隊司令官に任命。四水戦戦力と二水戦残存戦力を統合し、新たな第二水雷戦隊を編制する。旧四水戦の第27駆逐隊(駆逐隊司令原為一大佐、昭和9年から昭和10年当時の夕凪艦長)も二水戦所属となり、原司令は白露型駆逐艦2番艦時雨に乗艦してニュージョージア島の戦いに加わった。夕凪は7月18日のブイン空襲時に損傷(同空襲で駆逐艦初雪が沈没)、夜戦部隊から外された。同日夜における水上作戦で夜間空襲により夜戦部隊は駆逐艦2隻(清波、夕暮)を喪失、3隻(熊野、水無月、松風)が損害を受けた。損傷各艦はラバウルで応急修理を実施。7月29日、駆逐艦2隻(夕凪、水無月)は輸送船2隻(白山丸、国川丸)を護衛してラバウルを出発、8月2日トラック到着。サイパンを経由し、内地に帰投した。夕凪は9月21日に佐世保を出撃、サイパンおよびトラック泊地を経由して9月29日ラバウルに到着した。10月初頭、コロンバンガラ島撤退作戦(セ号作戦)に参加。つづいてベララベラ島撤退作戦にともなう10月6月から7日にかけての第二次ベララベラ海戦では夜襲部隊(秋雲《第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗》 、風雲 、夕雲 、磯風 、時雨 、五月雨)、輸送部隊(駆逐艦文月、夕凪、松風小発6隻、浮舟隊)等として海戦に参加する。ニュージョージア諸島撤退後も、本艦は引続き外南洋部隊増援部隊の各艦と共に、最前線の輸送任務に従事した。10月20日附で、睦月型8番艦長月沈没時艦長の古川為夫少佐が夕凪駆逐艦長に任命される。激戦により最前線の駆逐艦は次々に損傷あるいは沈没し、10月下旬時点の増援部隊(第三水雷戦隊)健在兵力は(軽巡《川内》、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》、第11駆逐隊《天霧》、第22駆逐隊《文月、水無月》、第30駆逐隊《卯月》、夕凪)という状態になった。11月1日、連合軍はタロキナ(ブーゲンビル島)に上陸を開始、ブーゲンビル島の戦いがはじまる。11月1日から2日にかけて第五戦隊司令官大森仙太郎少将指揮下の日本艦隊はタロキナへの逆上陸を企図してラバウルに集結。主隊/第五戦隊(妙高、羽黒)、第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将指揮下の第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)、十戦隊司令官大杉守一司令官指揮下の第二警戒隊(軽巡《阿賀野》、駆逐艦《長波、初風、若月》)、第11駆逐隊司令(山代勝守大佐)指揮下の輸送隊(天霧、文月、卯月、夕凪、水無月《水無月はブカ島行》)という兵力区分である。だが、陸戦隊の揚搭に手間取り航程に2時間の遅れが生じ、さらに当時の夕凪は26ノットしか発揮できず、逆上陸作戦は中止。ブカ島にむかった水無月以外の輸送隊は反転してラバウルに帰投した。このあと大森少将指揮下の連合襲撃部隊は米艦隊(指揮官アーロン・S・メリル少将)との夜戦に臨むが、2隻(軽巡川内、駆逐艦初風)が沈没、撃退された。11月5日、病気療養のため古川為夫少佐(夕凪駆逐艦長)は免職。後任の夕凪艦長は岩淵悟郎少佐。岩淵は太平洋戦争開戦時の陽炎型9番艦天津風水雷長で、当時の天津風艦長は原為一中佐(元夕凪艦長。現時点で第27駆逐隊司令として時雨に乗艦)。その後、岩淵は天津風水雷長をへて軽巡阿武隈水雷長、重巡最上水雷長を歴任。睦月型11番艦望月艦長に補職されたが、着任前に望月は沈没、望月には赴任できなかった。岩淵が着任した当日ラバウル空襲があり、第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦部隊は大打撃を受けた。新艦長着任直後の11月6日、タロキナ(ブーゲンビル島西岸中央部)に対する逆上陸作戦のため阿賀野以下支援部隊と、第31駆逐隊司令香川清登大佐指揮下の挺身輸送隊(警戒隊《大波、巻波》、輸送隊《天霧、文月、卯月、夕凪》)で出撃。輸送隊は7日午前0時過ぎにタロキナ到着、陸軍部隊の揚陸に成功したのち、同日午前10時頃ラバウルに帰投した。同時期、軽巡夕張がラバウルに到着し、第三水雷戦隊旗艦に復帰する。夕凪以下増援部隊(第三水雷戦隊)は輸送任務の傍ら、訓練を実施した。11月24日、ガロベ島輸送作戦中の空襲で夕張は損傷、内地修理を余儀なくされた。翌11月25日、セント・ジョージ岬沖海戦で駆逐艦3隻(夕雲型《大波、巻波》、初雪型《夕霧》)が沈没した。この海戦以降、南東方面に対する駆逐艦輸送(鼠輸送)は打ち切られ、潜水艦・大発動艇・空輸に頼らざるを得なくなった。損傷各艦はトラック泊地に後退し、ラバウルに残る第三水雷戦隊は3隻(天霧、秋風、夕凪)となり、三水戦司令部は12月2日よりラバウル陸上へ移動した。12月11月(ラバウル)と13日(カビエン)、夕凪は座礁事故を起こした。13日の場合、康寧丸と曳航油槽船(特二〇号。搭載量1000トン)救援のため行動中、悪天候による視界不良によってカビエン(ニューアイルランド島)で座礁、軽度の損傷を受けた。B-24爆撃機に空襲されるが不発弾で済み、14日に僚艦水無月の曳航で離礁した、同日深夜にラバウルへ戻った。12月16日附で第三水雷戦隊司令官は伊集院松治少将から中川浩少将に交代(12月17日、退任および着任)。応急修理を終えた夕凪は、トラック泊地よりラバウルに戻ってきた三水戦各艦と共に引き続き最前線への強行輸送作戦に従事する。12月29日、機関故障を起こした夕凪は特設運送船清澄丸の護衛艦に指定され、ラバウルを出発。カビエンに立ち寄り、3隻(夕凪、第22号掃海艇、清澄丸)はトラック泊地に向かった。1944年(昭和19年)1月1日、アメリカの潜水艦バラオ ("USS Balao, SS-285") が清澄丸を雷撃して大破させた。夕凪1隻では曳航できず、連合艦隊は第十四戦隊司令官伊藤賢三少将を指揮官とする清澄丸救難隊(那珂、谷風、夕凪、第22号掃海艇)を編成し、またカビエン輸送任務に従事していた軽巡大淀と秋月型駆逐艦1番艦秋月も清澄丸の救難に一時協力した。清澄丸はトラック泊地に入港できたが、2月中旬のトラック島空襲で撃沈された。1月中旬、前年11月のラバウル空襲で大破、トラック泊地に回航されていた夕雲型駆逐艦4番艦長波の内地修理が決まる。1月15日、長良型軽巡洋艦1番艦長良は長波を曳航してトラックを出発、駆逐艦2隻(卯月、夕凪)は警戒隊として同行する。1月18日、長波回航部隊はサイパンに立ち寄る。1月24日、長波回航部隊(長良、長波、卯月、夕凪)は豊後水道を通過。1月25日、2隻(長良、長波)は呉に到着。2隻(卯月、夕凪)は佐世保へ帰港。佐世保海軍工廠は阿賀野型軽巡洋艦4番艦酒匂の建造等や修理整備で多忙だったが、2隻の修理を実施する。2月11日には「皐月」も佐世保に到着、共に修理に従事する。3月以降はサイパンへの船団護衛に従事した。3月上旬、第十一水雷戦隊司令官高間完少将座乗の天龍型軽巡洋艦2番艦「龍田」(龍田艦長鳥居威美大佐は29駆解隊時の駆逐隊司令)以下、護衛艦9艦(軽巡《龍田》、駆逐艦《野分、朝風、夕凪、卯月》、海防艦《平戸》、敷設艇《測天、巨済》、第20号掃海艇)は東松二号船団(加入船舶12隻)を護衛、サイパン・グアム方面への船団護衛任務に就くことになった。3月13日未明、旗艦龍田および輸送船国陽丸が八丈島西方40浬でアメリカの潜水艦サンドラス ("USS Sand Lance, SS-381") の雷撃で沈没した(国陽丸の沈没は3時29分、龍田の沈没は15時36分)。卯月と択捉型海防艦平戸はアメリカの潜水艦に対し爆雷攻撃を行い、この間に高間司令官は龍田から第4駆逐隊野分に移乗して旗艦を変更した。パガン島に向かった高岡丸を除く船団は3月19日にサイパン島到着、ここでテニアン島行きの2隻(柳河丸、巨濟)、グアム島行きの3隻(玉鉾丸、朝風、第20掃海艇)、エンダービー島行きの2隻(第一眞盛丸、測天)に分離。卯月以下トラック島行きの4隻(卯月、夕凪、対馬丸、あとらんちっく丸)も船団から分離し、20日附で第二海上護衛隊の指揮下に入った。4月中旬、夕凪は東松六号船団に加入。船団部隊指揮官松山光治少将(第七護衛船団司令官)の指揮下、護衛艦(帆風〔旗艦〕、夕凪、卯月、三宅、海防艦6号、海防艦10号、12号駆潜艇、掃海艇2隻《20号、28号》、敷設艇3隻《猿島、巨濟、由利島》)で加入船舶18隻を護衛する。東松六号船団は4月15日東京湾を出撃。被害なく4月23日朝、サイパンに到着した。その後も夕凪は各方面への輸送船団を護衛した。5月1日、夕凪は第22駆逐隊に編入され、同隊は3隻(皐月、水無月、夕凪)となる。5月22日、船団護衛任務中の神風型8番艦朝凪が小笠原諸島沖合でアメリカの潜水艦ポラック("USS Pollack, SS-180")の雷撃により、地点で沈没した。5月下旬、夕凪は第十一水雷戦隊指揮下各艦(名取、長良、霜月、松、清霜)と共に内海西部で行動。5月27日、連合艦隊より中部太平洋方面部隊への復帰とサイパン進出を命じられるが、第三水雷戦隊司令部(サイパン島陸上)は機関修理後でよいと通達した。6月6日、第22駆逐隊僚艦水無月がアメリカの潜水艦ハーダー("USS Harder, SS-257")の雷撃により地点で撃沈され、第22駆逐隊は2隻(皐月、夕凪)となった。6月6日、夕凪は佐世保を出港。6月13日、サイパン島に対する米艦隊の艦砲射撃が開始されて日本海軍は『あ号作戦』(マリアナ沖海戦)を発動。第三艦隊司令長官小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊はマリアナ沖を目指して進撃を開始し、機動部隊補給部隊も指定配備点に向かった。6月18日朝、速吸船団(給油艦速吸、駆逐艦3隻《初霜、夕凪、栂》)は補給部隊と合同。6月20日、補給部隊は護衛艦(卯月、雪風、夕凪、初霜、響、栂)と油槽船(速吸、日栄丸、国洋丸、清洋丸、玄洋丸丸、あづさ丸)という編制で航行中、米軍機動部隊艦載機の空襲を受けた。油槽船2隻(清洋丸、玄洋丸)が被弾炎上。玄洋丸は卯月に、清洋丸は雪風に、それぞれ処分された。補給部隊は6月23日にバコロド(フィリピン中西部ネグロス島)へ帰投した。夕凪は24日ギマラス(バコロドの対岸)着。6月26日早朝、船団はバコロドを出発。午前10時、速吸は補給部隊から分離、3隻(速吸、響、夕凪)は座礁した雪風を救助した。7月7日未明、マニラ湾西口で夕雲型駆逐艦9番艦玉波がアメリカの潜水艦ミンゴ("USS Mingo, SS-261")の雷撃で撃沈された。7月10日、給油艦2隻(速吸、旭東丸)は駆逐艦3隻(夕凪、響、藤波)に護衛されてマニラを出港。損傷して速力を出せない軽巡北上はマニラに残った。速吸船団(速吸、旭東丸、夕凪、響、藤波)はサンベルナルジノ海峡および紀淡海峡経由で、7月17日呉に帰投した。1944年(昭和19年)7月上旬、マリアナ沖海戦に続くサイパンの戦いでサイパン島地上戦に巻き込まれた第三水雷戦隊司令部は全滅、第三水雷戦隊司令官中川浩少将も戦死した。そこで日本海軍は第三水雷戦隊の残存艦艇を基幹として、8月20日附で第三十一戦隊 を編制する。三十一戦隊司令官は江戸兵太郎少将。旗艦予定だった長良型3番艦「名取」が編成直前の8月18日に撃沈されたため、代艦として長良型2番艦五十鈴を旗艦に指定する。第三十一戦隊の編成と共に第22駆逐隊は解隊され、残存2隻(皐月、夕凪)は第30駆逐隊に編入(駆逐隊司令沢村成二大佐)、同隊は駆逐艦5隻(卯月、夕月、秋風、皐月、夕凪)となった。各艦・各隊は瀬戸内海で戦隊訓練・対潜訓練を実施した。だが、8月25日に船団護衛任務中の夕凪はアメリカの潜水艦ピクーダ("USS Picuda, SS-382")の雷撃で撃沈された。沈没に至る経過は以下のとおりである。8月上旬、夕凪はヒ71船団に加入。第六護衛船団司令官梶岡定道少将(開戦時の第六水雷戦隊司令官)指揮のもと、護衛艦(空母《大鷹》、駆逐艦2隻《藤波、夕凪》、海防艦《平戸〔旗艦〕、倉橋、御蔵、昭南、第11号海防艦》)で加入船舶20隻(速吸、旭東丸、帝洋丸、あづさ丸、二洋丸、第2八紘丸、瑞鳳丸、永洋丸、吉備津丸、玉津丸、摩耶山丸、阿波丸、帝亜丸、能代丸、能登丸、香椎丸、日昌丸、北海丸、鴨緑丸、伊良湖)を護衛。8月8日、ヒ71船団は門司(山口県)を出撃した。途中馬公市(台湾)に寄港して「伊良湖」以下5隻を分離、別の1隻と第一海上護衛隊5隻(神風型2番艦《朝風》、第三掃蕩小隊《佐渡、松輪、日振、択捉》)を編入して護衛を強化、8月17日に出発した。8月18日午前5時24分、永洋丸が地点で雷撃を受けて損傷、夕凪は同船を護衛して台湾高雄市に引き返した。米潜水艦レッドフィッシュ("USS Redfish, SS/AGSS-395")の戦果だった。夕凪離脱後のヒ71船団は、同日夜から8月19日にかけて米軍潜水艦のウルフパックに襲撃され、大鷹含め5隻沈没(大鷹、帝亞丸、速吸、帝洋丸、玉津丸)、損傷(能代丸、阿波丸)という大損害を被った。8月22日、神風型2隻(夕凪、朝風)は海防艦と共にルソン島沖でマタ24A船団の護衛中、船団中のタンカー第二八紘丸(日本油槽船、10,022トン)がアメリカの潜水艦スペードフィッシュ ("USS Spadefish, SS-411") の雷撃によりバサレン湾に座礁したため、その警戒として付き添った。 8月23日、夕凪の姉妹艦朝風がアメリカの潜水艦ハッド("USS Haddo, SS-255")の雷撃により、近くの陸地に曳航されたあと沈没した。8月25日、バサレン湾を警戒中、付近を通りかかったマタ26A船団がアメリカの潜水艦ピクーダの魚雷攻撃を受ける様子を目撃し、現場へ対潜掃討に向かった。だがピクーダが発射した魚雷が艦橋後部(左舷)に命中し、衝撃で缶室が爆発。夕凪の船体は両断され、ついに沈没した。乗員約40名が戦死、さらに僚艦の爆雷攻撃の影響で救助された重傷者多数が戦死した。沈没地点記録。夕凪から無事生還した岩淵悟郎少佐(夕凪艦長)は、9月1日附で夕凪駆逐艦長の職務を解かれた。9月12日、梶岡定道少将はヒ72船団(ヒ71船団復航便)を指揮中に乗艦(海防艦平戸)がアメリカの潜水艦グロウラーの雷撃で撃沈され、自らも戦死した。9月18日、岩淵少佐(元夕凪艦長)は松型駆逐艦11番艦榧艤装員長、9月30日附で榧駆逐艦長(初代)に任命された。10月10日、神風型2隻(夕凪、朝風)は神風型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍。本艦は第30駆逐隊からも除籍された。

出典:wikipedia

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