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李元吉

李 元吉(り げんきつ、603年 - 626年7月2日)は、中国の唐の高祖李淵の四男。高祖の即位に伴い斉王に立てられ、太原を守ったが劉武周の侵攻を受けて失陥した。玄武門の変にて長兄の李建成とともに次兄の李世民(太宗)に殺された。603年、李淵と竇夫人(後に太穆皇后と追尊される)のあいだの四男として生まれた。小字(幼名)は三胡といった。617年、李淵が反隋の兵を起こすと、元吉は太原の留守となり、姑臧郡公に封ぜられ、斉国公に進み、総十五郡諸軍事となり、鎮北将軍・太原道行軍元帥を加えられた。618年、李淵が帝位につくと、元吉は斉王に進み、并州総管となった。619年、劉武周の侵攻を受けて元吉は逃亡し、并州(太原)は陥落して、李淵の譴責を受けた。まもなく侍中・襄州道行台尚書令・稷州刺史となった。621年、次兄の秦王李世民が王世充の拠る東都を囲み、竇建徳が敵側に来援すると、李世民自身は竇建徳を迎え撃ち、元吉と屈突通を守りに回した。王世充が組しやすしとみて出兵してくると、元吉は伏兵を置いて襲撃し、敵将を捕らえて功績を挙げた。東都が平定されると、司空に任ぜられた。623年、隰州総管を加えられた。 ときに唐建国における李世民の功績が大きく、長兄の皇太子李建成は位を奪われることを恐れた。元吉は李建成と結託して李世民の追い落としにかかり、讒言や謀殺の企みを繰り返した。626年、左衛大将軍に転じ、司徒に進み、侍中・并州大都督を兼ねた。突厥が辺境を侵した機会に乗じて、李建成は元吉を北伐のためといって推薦し、その兵をもって兵変を起こそうとした。元吉は李建成とともに宮廷に参内する途中、玄武門で李世民の兵に攻撃され、李建成は射殺され、元吉は尉遅敬徳に殺された。貞観初年に、改葬されて、海陵郡王に追封された。のちに巣王に改封され、曹王李明が後を継いだ。妻:楊氏。夫の兄・李世民に寵愛されて、李明を生まれた。梁郡王李承業・漁陽王李承鸞・普安王李承奨・江夏王李承裕・義陽王李承度

出典:wikipedia

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