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藤原道頼

藤原 道頼(ふじわら の みちより)は、平安時代中期の公卿。関白藤原道隆の庶長子。祖父・兼家の養子となった。舅の藤原永頼の屋敷であった山井殿を継承したことから「山井大納言(やまのいのだいなごん)」と号した。藤原道隆の長男として山城守藤原守仁の娘を母に生まれたが、道隆は高階貴子と高階氏を重んじた為に異母弟の伊周よりも低く置かれていた。(これは貴子が定子を筆頭とする四人の后がねとなる娘達を産んでいた事、貴子の父の高階成忠が公卿となった事も大きい)。道隆の父・兼家は道頼を可愛がり、道隆に乞うて自分の養子に迎えてその六男とした。寛和元年(985年)に叙爵(従五位下)を受けて侍従・近衛中将などを歴任後、永延3年(989年)に蔵人頭に任じられた。正暦元年(990年)5月13日に参議に昇進する。翌年9月7日に伊周と共に権中納言に任じられるが、その翌年には舅の源重光から譲られて権大納言に昇進した伊周に官位を抜かれ、正暦4年(993年)8月28日に内大臣に昇った伊周の後任の権大納言に任じられた。長徳元年(995年)に25歳の若さで薨去している。『大鏡』によると、まるで絵から抜け出してきたような美しい容貌をしていたとされる。性格も「御心(こころ)ばへこそ、こと御はらからにも似たまはずいとよく、また、ざれをかしくもおはせしか」と異母弟の伊周や隆家よりも優れていると言われるほどに良く、軽妙洒脱でおもしろみのある人物であったという。『枕草子』ではその美しさは伊周よりも優れていたというが、世間からは酷く悪く言われていて気の毒だったと言う。『栄花物語』でも美貌と性格を讃えられており「ただ今人にほめられて、ようおはしける君」と誰からもほめられて評判が良かったと書かれている。彼の死に叔父の道長は「故殿(兼家)の養子になっていた事もあり自分も格別に目をかけようと思っていたのに」と道頼の死を残念に思っており、伊周も異母兄の死という世の中の成り行きを恐ろしく思って胸を痛めていた。『落窪物語』に登場する右近の少将道頼のモデルであるという説がある。道頼の遺児忠経は大叔父の道長の後見を受けており、長保2年12月に元服し、寛弘3年(1006年)と長和2年(1013年)に賀茂祭の勅使に選ばれていたが長和3年(1014年)に亡くなっている。忠経の子は延暦寺の第35代天台座主であった覚尋。なお、武蔵七党の1つ西党の系図では同党の祖である日奉宗頼は道頼の子と伝えられているが、これを裏付ける史料は無い。

出典:wikipedia

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