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井上氏

井上氏(いのうえし)は日本の氏族のうちのひとつ。尊卑分脈によると清和源氏頼季流とされる。源満仲(多田満仲)の子源頼信が長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を扶植、さらに三男の頼季が嫡男源満実とともに信濃国高井郡井上を本貫として井上氏の祖となったとしている。源平の戦いとして知られる治承・寿永の乱では同族とされる村山七郎義直が村上氏の支族とされる栗田氏と共に市原合戦で笠原氏を相手に戦ったのをはじめ、北信濃の源氏方として平家方と戦いを繰り広げ、平家物語では保科党を率いる井上光盛が横田河原の戦いで源義仲方として参陣して活躍し、信濃源氏の代表格として扱われている。その後は義仲の上洛には従軍せずに源頼朝に従った様だが、甲斐源氏一条忠頼と共に頼朝に危険視された光盛は、元暦元年(1184年)7月に鎌倉に召喚される途上の駿河国蒲原駅で誅殺される。承久の乱では光盛の次男井上光清(正光)が仁科盛遠に従い後鳥羽上皇側に立って参戦している。更に文永5年(1268年)には井上盛長が善光寺を焼き払い誅殺された記録が尊卑文脈所載の井上系図にある。井上氏は近隣の村上氏や同族とされる高梨氏に比して総領家を中核とする武士団の形成が大きく遅れたとされる。また盛長の誅殺以後、井上一族では仏門に入る者が多く、武士団としての発展が阻害されたとする向きもある。文永2年(1265年)には井上正頼が在庁官人として信濃大掾を称している(『鎌倉遺文』)。南北朝時代の井上氏に関しては史料が残されていないが、応永7年(1400年)の大塔合戦では井上左馬助光頼が高梨氏や須田氏、島津氏、小柳氏、布野氏、中俣氏などと共に大文字一揆衆の一翼として、守護方の小笠原氏と戦っている。応仁2年(1468年)隣接する須田郷に攻め入って逆に須田雅政によって討ち取られた記録がある。その翌年にも井上政家が隣接する高梨政高と狩田郷の領有を巡って争奪戦を展開している。そして室町時代後期には隣接する越後との関係を強め、越後守護家上杉氏と守護代長尾氏の争いに巻き込まれた。永正10年(1513年)高梨氏の支援を受けた長尾氏と対立する守護上杉定実を応援するため島津氏や栗田氏、海野氏らと越後に侵入しようとした。戦国時代には北信濃に侵攻してきた甲斐武田氏に対して長尾氏(上杉氏)方として対峙した。信濃を占領した武田家が織田氏の甲州征伐で滅亡した後、本能寺の変で織田政権も撤退した。この機(天正壬午の乱)に北信濃を支配下においた上杉氏も、豊臣政権によって会津に移封されて井上氏も同行した。この信濃の井上氏が嫡流であるが、播磨、安芸、三河などに同族と称する一族が存在する。また、時田氏(常田氏)、桑洞氏、保科氏、高梨氏、須田氏、佐久氏、関山氏、蘆田氏、赤井氏(丹波赤井氏)、荻野氏、内田氏などは系図上は井上氏の庶流である。(清和源氏頼季流井上氏)信濃井上氏と同族。南北朝時代ごろに安芸国に移る。戦国時代、井上光兼は近隣の有力国人である毛利氏に接近、毛利弘元の信任を得て勢力を伸ばし、光兼の子の井上元兼やその一族の多くは毛利元就の家督相続に貢献。毛利家中で重きをなしたものの、やがて傲慢な振る舞いで元就の怒りを買い、天文19年(1550年)の井上氏粛清により、元兼ら井上氏一族ほとんどが誅殺された。だが命を助けられた一族の者もおり、彼らは引き続き毛利氏に仕えた。小早川隆景に仕えた井上春忠などが知られる。なお、同じく助命された井上就在の子孫には、明治の元勲井上馨が出ている。この他、毛利斉煕の側用人の一人に「井上三郎兵衛」、文政年間の長府藩の城使に「井上丹下」の名がある。 太線は実子。細線は養子。徳川氏に仕え江戸時代に大名になった井上氏は、阿部定吉の子(又は外孫)である清秀が縁戚関係にあった井上氏に養子に入ったのがその始まりとされる。井上正就などがしられる。系図上は、源満実の子孫にあたり、信濃などの井上氏と同族とされる。 太線は実子。細線は養子。美濃斎藤氏流長井氏族の井上氏。長井道利の三兄弟に始まり、主家の斎藤氏滅亡後、井上姓に改め、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。織豊政権下で井上時利は760石を知行する旗本となったが、関ヶ原の戦いで西軍側に付いたため改易された。その後、子の井上利仲は罪を許され、江戸幕府の旗本として存続した。阿知使主の後裔である東漢氏族の一つ。姓は忌寸。河内国志紀郡井於郷(大阪府藤井寺市道明寺付近)を本拠地としたとみられる。西安で墓誌が発見された奈良時代の日本人井真成をこの氏族の出身とする説がある。

出典:wikipedia

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