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白地城

白地城(はくちじょう)は、阿波国三好郡白地(徳島県三好市池田町白地)にあった日本の城。土佐国の戦国大名・長宗我部元親が四国統一の拠点とした城として知られる。白地城は四国の中央部の山間地に立地し、西の境目峠を越えると伊予国・北の猪ノ鼻峠を越えると讃岐国、東の吉野川を下ると徳島平野を中心とする阿波国の中心部、南に吉野川をさかのぼると土佐国と、四国の十字路といえる位置にあった。南北朝時代から戦国時代にかけては白地城を中心とした一帯は大西氏(おおにしし)が支配し、阿波の守護大名である細川氏、戦国時代にはその細川氏から実権を奪った三好氏に服属した。しかし、天正3年(1575年)に土佐を統一し、四国統一を狙う長宗我部元親がその地理的重要性に目をつけ、翌天正4年(1576年)攻略に成功、時の城主大西覚養は落ち延びた。『元親記』には元親の発言として「先づはこの大西さへ手に入り候へば阿讃伊予三ケ国の辻にて何方へ取り出づべくも自由なりと満足し給ひけり」とある。その後は長宗我部氏の四国征伐の拠点として使われ、天正13年(1584年)の豊臣秀吉の四国攻撃の際には逆に防衛拠点となった。戦役の後、廃城となった(地域の拠点としての役割は近くの大西城が持つこととなった)。昭和後期まで曲輪・堀などの遺構が多く残っていたが、「かんぽの宿」(現あわの抄)の建設に当たってほとんどの遺構が破壊された。現在は周辺にわずかに土塁や切岸が残る。あわの抄近くに『白地城址』の石碑と、大西神社がある。

出典:wikipedia

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