LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

藤原縄主

藤原 縄主(ふじわら の ただぬし、天平宝字4年(760年) - 弘仁8年9月16日(817年10月29日))は、奈良時代から平安時代前期にかけての貴族。藤原式家、参議・藤原蔵下麻呂の長男。官位は従三位・中納言、贈従二位。延暦2年(783年)従五位下・中衛少将に叙任。のち右衛士佐・近衛少将や、少納言・式部少輔など、文武の諸官を歴任する。延暦10年(791年)従五位上・左中弁に叙任されると、延暦12年(793年)正五位下と桓武朝半ばから順調に昇進し、延暦17年(798年)参議に任ぜられ公卿に列す。桓武朝末にかけて議政官として式部大輔・左京大夫・近衛中将などを兼帯する一方で、延暦18年(799年)からは皇太子・安殿親王(のち平城天皇)の春宮大夫も務めた。大同元年(806年)平城天皇が即位すると従三位・大宰帥に叙任され大宰府に赴任する。大同2年(807年)観察使制度の設置により大宰帥のまま西海道観察使にも任ぜられる。この間の大同3年(808年)に観察使に対して封戸が支給されることになった際、既に大宰帥としての公廨を支給されており俸給が重複するため、封戸の支給を辞退するよう上表しているが、許されなかった。大同5年(810年)薬子の変が発生し、妻の尚侍・藤原薬子は自殺、子の貞本は連座して飛騨権守に左遷されるが、大宰府に赴任していた縄主は乱に関与せず難を逃れる。弘仁3年(812年)中納言に至った。弘仁8年(817年)9月16日薨去。享年58。淳和朝の天長元年(824年)に従二位の位階を追贈されている。酒を好んだが、職務を欠くようなことはなかった。親族にも慕われたという。注記のないものは『六国史』による。注記のないものは『尊卑分脈』による。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。