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サンカ (集団名)

サンカは、日本の山地や里周辺部で過去に見られたとされる不特定の人々を指す言葉である。その指し示す範囲は広く、回遊職能民であったり特殊な窃盗団など、時代や立場によって定義や趣旨も大きく変わり、語義を明確にすることは難しい。不特定の人びとの総称として用いられることが多く、様々な漢字が存在する。「山窩」、「山家」、「三家」、「散家」、「傘下」、「燦下」(住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という意味)などと表記される。「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ(箕直)」、「ミツクリ(箕作)」、「テンバ(転場)」など、地方によって呼ばれ方も違う。(それぞれの呼称は、「ホイト(陪堂)」、「カンジン(勧進)」など、特定の芸能を指す言葉と併用されることも多い。)サンカの実態調査を試みた立場による呼び名の違いもある。定住することなく仕事を求め村々を移動する。定住ではないため拠点(天幕、急ごしらえの小屋、自然の洞窟、古代の墳遺跡、寺等の軒先など)を回遊し生活しており、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくなかった人々であったとされている。サンカは明治期には全国で約20万人、昭和に入っても終戦直後に約1万人ほどいたと推定されているが、実際にはサンカの人口が正確に調べられたことはなく、以上の数値は推計に過ぎない。地域によって異なり、「ポン」と呼ばれるサンカは川漁、副業的な位置として竹細工などをしていた。また「ミナオシ」、「テンバ」と呼ばれるサンカは箕、かたわらささら、箒の製造、行商、修繕を主な収入源としていたとされる。「サンカ」という言葉は、江戸時代末期(幕末)の広島を中心とした中国地方の文書にあらわれるのが最初である(ただし、それよりもさかのぼるとする意見もある)。幕末期においては、サンカの呼称は西日本に限られたとされている。第二次世界大戦前の時代において、「サンカ」の語が漢字表記「山窩」として一般に広く知られるようになったのは、サンカ小説によって流行作家の地位を確立した三角寛が発表した一連の作品群によるところが大きい。三角以外にも、いくつかの大衆小説で「山窩」がとりあげられている。また戦後には、三角の協力を仰いだ映画『瀬降り物語』(中島貞夫監督)や、五木寛之の小説『風の王国』、さらに現代書館から刊行された『三角寛サンカ選集』全7巻によって、ふたたび一般に認知されるようになった。江戸時代末期から大正期の用法から見て、本来は官憲用語としての色合いが強い。その初期から犯罪者予備軍、監視および指導の対象者を指す言葉として用いられたことが、三角寛の小説における山窩像の背景となっている。また、サンカを学問の対象として捉えた最初の存在と言ってもよい柳田國男やその同時代の研究者らも、その知識の多くを官憲の情報に頼っている。官憲の刑事政策によって幕末から発生した、流民の虞犯者に対して「川魚漁をし、竹細工もする、漂泊民」の呼称であるサンカが(「山窩」という当て字で)使われた。それがマス・メディアに載って流通し、一人歩きした果てに、日本の中で異なる習俗をもった異なる種族の如き意味を孕むに至ったという。官憲からの情報で「山窩らしき」者を調査した民俗学者の柳田國男は、鷹野弥三郎のサンカ=犯罪者論を鋭く批判し、彼等の窃盗は「財貨に対する観念の相違に基づく」ものであるとして一応擁護の立場に立っている。第二次大戦後には山間の非定住者への偏見を是正しようという試みが文学の世界を中心に多く見られるようになるが、そのころには山間や里部の不定住者の実態がほぼ消失しているであろうという考えが強かったため、実際にサンカと呼ばれた人びとからの直接的な取材はあまりおこなわれず、その試み自体が事実を正しく反映していないと思われるケースも多い。近年では単純な貧困層(山間や里部でさまざまな隙間産業的な生業に就いていた者)と犯罪者あるいは犯罪者予備軍の隠れ家としての性格のあった生活形態を持っていた者を切り離して考えようという見方が一般的になりつつあるが、全国的にサンカの名称が使われ出したのは、もっぱら官憲の用語としてであったことを考え合わせると、これもまた反動的であり、中立性を欠いてるという他ない。強い監視が必要であると過去に目されていた一定の集団は、単純な貧困層より早い段階(おそらく昭和初期)に社会構造の変化や官憲の圧力により山間部や里部からは姿を消したのであろうという考察もある。今日では、社会学的な側面で「サンカ」という言葉やそれを取り巻く状況を検証する動きが成果を上げており、議論に一定の方向性が生まれつつある。サンカと呼ばれた不特定の層は徐々に元の生活圏に近い集落や都市部などに吸収されたと考えられる。これを境に里周辺部の非定住者の姿は見られることが少なくなった。全国民の戸籍が登録される体制が整ったため、江戸時代に人別から洩れた層も明治以降の戸籍には編入されるようになったと考えるのが合理的である。江戸時代において無籍者に定住できる土地はなく、明治以降は政府が定住を指導したと考えられる。国家の近代化に伴う戸籍整備は徴税や徴兵など必然性がある。戸籍と定住を強要されていった結果、戦後に日本文化と同化し姿を消したという主張をする論者もいる。近代の社会形態の変化に伴い、過去に里周辺部などに見られた貧困層の多くが、都市のなかでも人口の流動性が高く生活困窮者の多い地域に移住したのではないかという主張もある。明治以降、官憲にとって監視や注意が必要であったのは、その生業から流動性が高かった人びと全般であり、その際に用いられたのが「サンカ」という概念であったという主張もある。サンカに関する最初の学術研究と呼べるのは、柳田國男の研究である。彼は、『人類学雑誌』に『「イタカ」及び「サンカ」』と題された文章を1911年(明治44年)から1912年(明治45年)にかけて寄稿している。大垣警察署長であった広瀬寿太郎の聞き書きとして、ブリウチ セブリ ジリョウジ(なお南方熊楠の書簡に寄れば、呪療師の意かという)アガリの実態を柳田の実体験をまじえて記述している。サンカは、柳田や喜田貞吉による大正期のもっぱら推論によってなされた問題提起、三角と同じく新聞記者であった鷹野弥三郎の取材記事以後、昭和時代に入ってからの後藤興善の『又鬼と山窩』(1940年)がみられる程度で、研究対象としてはほとんど顧みられることがなかった。サンカに関する一般的な知識は、三角寛の創作によるところが大きい。三角は、新聞記者という経歴から実録小説の形を採ったスキャンダラスな山窩小説を、昭和初期から太平洋戦争(大東亜戦争)直前にかけて執筆して一世を風靡した。終戦後、三角は戦前から1950年代にかけて全国で収集したというサンカに関する資料を基に、論文「サンカ社会の研究」を執筆。1962年には、東洋大学から文学博士の学位を取得している。1965年には、この論文を基にした著作『サンカの社会』(1965年)が刊行され、三角は一躍サンカ研究家として脚光を浴びることとなった。しかし、この研究は掲載されている写真の信憑性(別々の場所で違う日時に撮影されたはずであるにもかかわらず、同じ人物が同じ服装で写っている。後に筒井功によって写真のモデルが特定された)、さらに江戸時代末期の偽書『上記』を元にしたと考えられる「サンカ文字」が紹介されるなど、そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。現在でもサンカと呼ばれた経緯を持つ職業に就いていた人びとを探すことは、一般に考えられているよりも容易である。しかし、その人びとの持つ知識が、フィールドワークと称される聞き取り調査の過程で、研究者の考えや一般的な「山窩」に対する知識に影響を受けているケースが多く、その証言の解釈には慎重な態度が求められる。三角寛が書いた小説が基であって流浪民としてのサンカは存在していないとする説。サンカという言葉自体は官憲の文書に存在したり、古文書にも存在しているがいわゆる乞食や被差別民を意味する言葉であって、それを見た人間が三角寛の書いたサンカは実在すると誤解したため、誤った説が伝わるようになった。サンカを山岳信仰や密教における山伏や、経済的な互助組織である無尽講などと関連づけた創作や論文体の物が読み物として流通することが多いが、それらを関連づける根拠は極めて曖昧であり、サンカの実態そのものがほぼ失われてしまった現代において、検証は困難である。そのため、研究と称した自家中毒的な文章が増殖する傾向にある。サンカを含めた「山の民」というカテゴリーで論考を試みる向きもあるが、江戸時代において、身分制のなかで統制されてきた他の職能民と、あってはならない存在であるがゆえに「無籍非人」と称されたサンカを同一のカテゴリーで論考するには困難がともなう。近年ではサンカという言葉が一人歩きをし、以前にはサンカと呼ばれなかった人々をサンカという言葉の範疇で語ろうとする論者もいる。これらはサンカという言葉の流動性を示す端的な例であると言える。

出典:wikipedia

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