犬塚 稔(いぬづか みのる、1901年2月15日 - 2007年9月17日)は、日本の脚本家、映画監督である。最高齢の映画人であった。長谷川一夫のデビュー作と引退作の脚本を執筆し(デビュー作『稚児の剣法』 は監督兼任)、勝新太郎の当たり役『座頭市』の脚本家としても知られる。1901年(明治34年)2月15日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)花川戸に生まれ、台湾の台北市で少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身の一つとされる『成美団』の座付作家・大須賀豊(本名・犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した。成人して台北銀行(※犬塚本人の回想では台湾銀行)に就職するが、演劇に興味を持ち退職。演劇作家になるべく東京に戻ろうとするが、途中京都で出会った白井信太郎から映画の脚本家になることを強く勧められ、1924年(大正13年)1月、松竹下加茂撮影所の脚本部に入社。賀古残夢や野村芳亭などの監督作品の他、衣笠貞之助が監督した前衛映画『狂つた一頁』(1926年)の脚本なども手掛けた。1927年(昭和2年)、新人俳優・林長丸(後の長谷川一夫)を松竹キネマ(現在の松竹)がスターとして売り出すことになった。白井は林を売り出す面白いチャンバラ映画の脚本を明日までに書いてくれと切り出し、犬塚は何とかこれを3日に伸ばしてもらい、林の「林長二郎」改名・映画デビュー作『稚児の剣法』の脚本を3日で書き上げた。白井はこの脚本を気に入り、犬塚に同作品の監督も命じた。こうして『稚児の剣法』は犬塚の監督デビュー作ともなった。また、犬塚は同作品のカメラマンとして、杉山公平の撮影助手を務めていた円谷英二を登用した。こうして『稚児の剣法』は、当時としては珍しい新人で固められた映画となった。この監督デビュー作は松竹の宣伝が功を奏したこともあって大ヒットし、以後犬塚も売れっ子監督として、阪妻プロや第一映画、松竹などを転々とする。第二次世界大戦終戦後は東宝(宝塚映画)、大映で各1本ずつ監督した他は脚本業に専念。大映に移籍して、勝新太郎が個性派俳優に転機するきっかけとなった『不知火検校』の脚本を手掛け、更に子母澤寛の短編集『ふところ手帳』の1エピソードを膨らませた『座頭市物語』の脚本を執筆。時代劇のヒーロー座頭市の強烈なキャラクターを作り上げた。なお自身の著書では、子母澤は座頭市の些細な原案しか執筆しておらず、実質的な設定は犬塚自身が手掛けたと述べている。その説については支持する者も多いが異論もある。詳細は座頭市#裏話#原作を参照。しかしシリーズが進むうちに勝や製作会社の大映との間で作品イメージをめぐって対立するようになり、『座頭市二段斬り』(1965年)を最後にシリーズを離れ、同時に映画界からも離れてテレビ時代劇に仕事の場を移すこととなる。その後も勝の懇願を受けて映画『新座頭市物語 折れた杖』やテレビシリーズ『座頭市物語』などの脚本を手掛けるが、1989年(平成元年)、松竹で製作された映画『座頭市』の脚本料をめぐって勝との間で訴訟沙汰となる(その後和解)。以後、第一線から姿を消すが、以後、映画史関連の各種インタビューでの露出や講演執筆活動は行っていた。2002年(平成14年)、NHK-BSのドキュメンタリー『「101歳のシナリオ」〜日本映画に生きた男・犬塚稔〜』で健在ぶりが紹介され、映画ファンに驚きを与えた。同年には自伝エッセイ『映画は陽炎の如く』も出版され、100歳を越す現役作家の著作として記録的なものとなった。晩年は滋賀県高島市安曇川地域に在住して執筆を続けていたが、2007年(平成19年)9月17日、自邸にて老衰のため、天寿を全うした。満106歳没(享年107)。
出典:wikipedia
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