恵恭王(けいきょうおう、758年 - 780年)は新羅の第36代の王(在位 : 765年 - 780年)であり、姓は金、諱は乾運。先代の景徳王の嫡男であり、母は舒弗邯(1等官)の金義忠の娘の満月夫人(景垂王后)。王妃は2人あって、先妃は伊飡(2等官)維誠の娘の新宝王后、次妃は伊飡金璋の娘。760年7月に太子に立てられており、765年6月の先王の死去に伴い王位に就いた。即位時の年齢は8歳であり、太后が摂政となった。在位中に貴族の内乱が頻発し、王自身も乱の中で殺害されるに至った。武烈王系の王統は恵恭王までで途絶え、次の宣徳王以降を新羅の下代という。767年7月に伊飡の金隠居を唐に朝貢使として派遣し、768年に唐の代宗から〈開府儀同三司・新羅王〉に冊封された。このとき同時に王母の金氏が大妃に冊立されている。その後も度々朝貢使・賀正使を派遣して唐との親密な関係を維持した。聖徳王・景徳王代を経て新羅の国勢が盛んになり、また儒教観念に支えられた律令体制が推し進められたことを受けて、五廟の制度を確立させたことが『三国史記』祭祀志に伝えられている。しかし現実には律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、恵恭王の在位中には合計で以下のように6件もの内乱が起こることとなった。反乱の主体が政治的に律令制・貴族連合制のどちらの推進派であったかについては井上秀雄著『古代朝鮮』による。こうした政治的対立の中で776年正月には教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派の金隠居の反乱、廉相・正門の反乱が続けて起こった後のことであり、貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている。在位16年、780年4月に貴族の内乱の中で王妃もろとも殺害された。死後、新羅王位を継いだ金良相(後の宣徳王)によって恵恭王と諡された。王陵については未詳である。『三国遺事』紀異・景徳王忠談師表訓大徳条には、恵恭王の出生と後に反乱のなかで命を落としたこととについてのような説話を伝えている。正式名称は聖徳大王神鐘といい、聖徳王の冥福を祈る目的で景徳王の時代から鋳造を始め、恵恭王7年(771年)になって完成したものをいう。制作には何度となく失敗しており、溶けた銅の中に少女を生贄として投げ込んでようやく鋳造に成功し、鐘を撞くと「エミレ(お母さん)!」と叫んでいるように聞こえたとの言い伝えからエミレの鐘の愛称がある。東洋における最大規模の梵鐘であり、高さ333センチメートル、口径227センチメートル、重さ25トンに及ぶ。大韓民国指定国宝第29号に指定されており、国立慶州博物館の野外庭園に展示されている。
出典:wikipedia
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