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千川上水

千川上水(せんかわじょうすい)は、玉川上水を水源とし、境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近)から江戸城の城北地域へ流れた総延長約22kmの用水路(上水)であり、江戸の六上水のひとつであった。現在は使用されておらず、大部分が暗渠化されているが、東京都の清流復活事業により一部区間には高度処理下水を流し、水辺が復活している。玉川上水の流路上、東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近にある境橋(旧武蔵国多摩郡上保谷村地先)に分水口があり、ここから豊島区西巣鴨まで、武蔵野台地上をほぼ東西に流れる。分水口付近の海抜は約64m、巣鴨付近は約23mであるから、落差は約41mとなる。なお、流路は台地上で、神田川(支流の善福寺川、妙正寺川等を含む)と石神井川との分水界をほぼ成している。現在、練馬区・武蔵野市への移管分2.1kmを除いた部分(13.8km)を、東京都第四建設事務所が管理している。練馬区が平成15年に千川上水の現況を調査している。分水口からまず武蔵野市と西東京市、武蔵野市と練馬区のそれぞれ境界に沿って流れる。やがて練馬区内に入って青梅街道を越えた時点で暗渠となり、「千川通り」(東京都道439号椎名町上石神井線)と沿って流れている。西武新宿線上石神井駅~上井草駅間の鉄橋前後で開渠となる。この開渠部分を最後に暗渠となり、水路が地上に出ることは無くなる。その後、ほぼ千川通り沿いに練馬区と杉並区との境界を経て、西武池袋線に沿って富士見台駅から江古田駅付近を流れる。この間にある中村橋駅の駅名はこの上水に架かった橋の名に由来する。豊島区に入り、南長崎でほぼ直角に曲がって北東に流れを変える。千川駅、大山駅、板橋区役所前駅付近を経由し、ほぼ中山道沿いに板橋駅を経由して東へとすすみ、かつての旧千川上水浄水場跡である千川上水公園で終点となる。同公園には駒込の六義園への地下貯水槽が現在もあるが、都営三田線巣鴨駅をつくる際に道路の開削に伴い、導水できない状態となっている。なお、現在でも一部途切れている箇所はあるものの、そのまま存置されている。ただし、敷設してから時間が経過しているため管が錆びるなど老朽化しており、現在、使用できる状況にはないとしている。開渠部の全区間において、清流復活事業による流水(下水高度処理水。計画水量は10,000m³/日)が見られる。この水は暗渠のはじまる伊勢橋地点にて回収され、善福寺川へと送水されて、同川の渇水対策に役立てられている。その先の暗渠部について、事業開始当初は計画水量の30%が流されていたが、設備破損により板橋区内で全量が漏水していることが報告され、これと前後して流水が止められている。清流復活事業によって流水が復活したことで、現在暗渠となっている練馬区、豊島区などで千川上水の復活を求める声が一部住民から上がっている。これに対する区の返答は現在、以下のとおりである。千川上水緑道(上石神井1丁目)付近では、練馬区は同緑道を親水緑道として整備する構想を練っていたが、東京都の都市計画道路補助229号線の建設計画に、当該地区が取り込まれることになったことから実現困難となったと説明している。また、富士見-江古田間では、水面が地盤から2mの深さにありそのまま活用するのは困難と説明。このため、広い歩道区間に、地下を流れる水を水源としたせせらぎを設け、親水緑道として再整備することを検討するとしている。豊島区は1991年(平成3年)に60周年記念事業として千川上水の復活事業を行うことを決定。平成4年度に暗渠管の調査を実施したところ、管内20箇所の異状、土砂の堆積、逆勾配等も見つかった。このため、東京都建設局河川部に調査結果を報告、通水工事を要請したものの、相当の整備復旧費が必要となり都費の支出は困難との結論が出され、通水を断念した(このため、現在も暗渠内の水流は豊島区部分を通っていないものと推測される)。当面の区の財政状況なども勘案し、現段階での整備は困難としている。分水口から青梅街道までの千川にはコイ、オイカワ、カワムツ、ヌマエビなどの生物が多い。暗渠化される昭和45年以前の千川上水では、練馬区と杉並区の区境(西武新宿線上井草駅付近)でも、カワトンボやゲンジボタルが群れ飛ぶ水棲昆虫の宝庫でもあった。魚類については、ウグイやシマドジョウなどが多かった。1696年(元禄9年)に江戸幕府将軍徳川綱吉により上水開削が命じられる。公の目的は、小石川御殿(綱吉の別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕府祈願所)等への給水だが、六義園(綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷)内の池へも大量に引水された。分水口のある境橋が仙川村(現在の東京都調布市東端から三鷹市南部にかけての一帯)のすぐ近くで、この仙川村を通した上水だったことにその名は由来している。上水路の設計は海運の発展に多大な寄与があった豪商の河村瑞賢がこれを行い、多摩郡仙川村の太兵衛・徳兵衛が開削にあたった。『御府内上水在絶略記』には、太兵衛・徳兵衛の開削の功により、仙の字を吉字に改めて千川とし、両人にこれを名字として賜った旨の記述がある。巣鴨に達した上水の水は、地中に埋められた木樋により、前述の5か所をはじめ、江戸の本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などに飲料水として供給された。寛永寺への給水は、途中で谷田川の流れる谷を越える必要があり、密閉された樋による「サイフォンの原理」の応用で一度水を谷底まで落とし、掛樋で谷田川を渡し、寛永寺のある対岸の台地上へポンプなしで上げることができたといわれる。1707年(宝永4年)になると、流域農民からの嘆願により、農業用水としての利用が許されることになる。一方、江戸の飲料水としての利用は、「江戸に火事が多いのは上水が普及し地脈が乱れたから」との噂が流れたこと等から、1722年(享保7年)に市内への給水が止められた。その後、村々の農業用水のみに使用されていたが、下町の町人がこの上水の復活をたびたび請願したために、1781年(天明元年)に再開された。しかし、水量不足等で1786年(天明6年)に廃止となった。明治以降は、水車による精米、精麦、製粉が行われるようになったほか、工業用水としても利用されるようになった。主な利用者として、鹿島紡績所、王子製紙、大蔵省紙幣寮抄紙局(現国立印刷局王子工場)がある。現在は上水の水は使用されていない。飲料水としての利用も、1880年(明治13年)に、岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により開始された。1881年(明治14年)に政府は、沿岸住民に上水を汚さないよう命じる「千川水道取締ニ関スル禁令」を出した。その後、東京市の改良水道の普及で1908年(明治41年)、千川水道会社は解散した。練馬区史によれば、[1948年]昭和23年10月11日付けで練馬区議会議長上野徳次郎から東京都知事安井誠一郎宛に提出された請願書により、千川上水の氾濫、幼児の水死事故、および都市計画樹立の障害を主たる事由として暗渠化が求められ、練馬区内では、[1952年]昭和27年より暗渠化工事が着手され昭和40年代前半には暗渠化が完了した。1970年(昭和45年)には東京都水道局板橋浄水場が上水からの取水を止め、1971年(昭和46年)には大蔵省印刷局抄紙部への給水が止み、ここに千川上水は上水としての使命を終えた。その後、1982年(昭和57年)に東京都の「マイタウン東京」構想により野火止用水、玉川上水、千川上水の清流復活事業が計画され、1989年(平成元年)には千川上水の開渠部約5キロメートルにわたって下水処理水等活用による清流が復活した。

出典:wikipedia

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