J-7(殲撃七型、Jian-7、-7)は、中華人民共和国の戦闘機。NATOコードネームは「フィッシュベッド」()。1961年、中華人民共和国はJ-6(殲撃六型)に続きMiG-21F-13のライセンス生産をソ連と合意し、見本用の部品と生産キットが渡されたものの、中ソ対立によってロシア人技術者がソ連に引き揚げてしまい、中華人民共和国では部品や図面のみで独自に生産することになった。しかし本格的な超音速機である当機の製造には当時の中華人民共和国の技術では足りず、工作の準備や技術向上にかなりの時間を必要とすることになる。遅延の原因として文化大革命の影響も大きい。因みに南昌飛機製造公司が開発したJ-12は、当機の就役の遅れを補う目的で開発されたが結局物にならなかった。最初のプロトタイプは1965年11月に完成し、翌1966年1月17日に初飛行。飛行試験の後に1967年には実用化された(中国航空機産業史には6月に量産が承認されたとあるが、空軍史では3月に実戦配備、同年6月にアメリカ軍の偵察機を撃墜したと記載されており、両者の食い違いから正確な実戦配備月日は不明)。1969年の珍宝島事件(ダマンスキー島事件)に際してはJ-6などとともに戦線へ投入されたが、同地域では数機のJ-7がソ連空軍のMiG-23との空中戦で一方的に撃墜されたほか、9K32「ストレラ-2」地対空ミサイルの攻撃によって失われている。1979年の中越戦争でも使用された。その後もJ-7は本家MiG-21とは似て非なる改良(詳細は派生型の項を参照)が続けられるが、外見上の大きな相違点としてはMiG-21P以降大型化されたショックコーンやMiG-21PF以後に設けられた機体背面・操縦席後方の膨らみがJ-7ではJ-7IIIを除き小型のままで、また最新型まで機首に機関砲を搭載しており全体的に第1世代のMiG-21のような風貌が目立つ。これは前述のとおりMiG-21F-13の図面をベースに改良を続けたためと思われる。MiG-21Mをもとにした派生型も開発されたが、比較的少数の配備に留まっている。本家MiG-21の生産が1975年に終了したのに対し、J-7は21世紀に入ってもしばらく生産が続き、戦闘機型で最後の機体となったバングラデシュ向けのF-7BGIは2013年に引き渡しが完了、2016年7月24日には全てのJ-7系列で最後の機体となった練習機型であるJJ-7Aの機体試験が完了し、J-7系列の生産は全て終了した。機体価格が安いこともあり、中華人民共和国の友好国を中心とした発展途上国に相当数が輸出されているが、西側諸国の新型機を購入できるような先進国への販売は行われていない。中ソ対立後に、ソ連機を仮想したアグレッサー機としてアメリカに輸出されたのが唯一となっている。J-7は、輸出名称としてF-7の名称を使用している。
出典:wikipedia
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