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五辻宮

五辻宮(いつつじのみや)は鎌倉時代後期から南北朝時代のころまで存在していた宮家の一つ。持明院統と大覚寺統の争いに加えて鎌倉幕府の介入にも翻弄された宮家である。宮号は初代・守良親王が外祖父・藤原実仁より相続した館が、上京五辻(現:京都市上京区)にあったことに由来する。亀山天皇の第五皇子・守良親王を初代とするが、その後所領を鎌倉幕府の介入により、実子ではなく久明親王(持明院統)の子(後の深草宮)に譲らされた。一方、守良親王の実子も「五辻宮」を名乗り、同時期に同名の2つの「五辻宮家」が存在していた。このような例は、明治時代 - 昭和時代に存在した久邇宮家の他には例がない。前述のように、守良親王は鎌倉幕府の介入により屋敷を実子ではない人物に譲らされた。これは当時の将軍・守邦親王と深草宮(煕明親王)が兄弟であったことによるものと考えられ、守良親王の本意ではなかったと思われる。正慶2年/元弘3年(1333年)、足利高氏の軍に追われ、光厳天皇らを連れて東国へと落ち延びようとした六波羅探題の軍勢を討ち取った近江国の野伏たちが「先帝第五宮」を擁したと伝えられている(『太平記』第9巻「番場自害事」)が、この第五宮は守良親王であるとされている。また、この頃に南部氏や多賀大社に対して討幕への助力を求めたとされている。その後、経緯不詳ながら五辻の館のみは守良親王に返却されたらしく、守良親王皇子・宗覚は後にこの屋敷を大徳寺に寄進した。宗覚も「五辻宮」と呼ばれていた(二代目五辻宮)。その後また「五辻宮」なる人物が後醍醐天皇により九州に派遣されたという。この「五辻宮」は守良親王の子孫と思われるが詳細は不明である。永享4年(1432年)、後崇光院の元に「五辻入道宮」なる人物が訪れ、九州の所領について斡旋を要請した。そこで後崇光院は大内氏に宛てて添状を書き、更に、宮の子息に偏諱を与えて「成煕」を名乗らせたという(『看聞日記』永享4年8月22日)。「五辻入道宮」と成煕は添状を持って九州に下向したが、その後の二人の消息は不明である。鎌倉幕府の介入により二代五辻宮となった深草宮は、元徳元年(1329年)9月には、北条守時によって五辻の館と備前国草部郷の領地を安堵されたが、その後、五辻の館のみ元の所有者であった守良親王に戻された。建武の新政が失敗に終わると、足利尊氏により、建武3年(1336年)8月に再び所領を安堵された。貞治6年(1367年)の頃には久明親王の孫・祥益が「五辻親王家」と呼ばれている(『天竜寺重書目録』)が、深草宮や祥益が親王宣下を受けた記録は残っていない。その後は暫時衰微したらしい。

出典:wikipedia

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