台湾地区(たいわんちく)、あるいは自由地区(じゆうちく)は、中華民国政府が1955年の大陳島撤退後も実効支配している全地域を指す政治的・行政上の用語。他にも国際的に使用される同義語として台澎金馬(たいほうきんま)がある(詳細は下記参照)。対義語は、中華人民共和国(中国)の支配地域を指す中国大陸(ちゅうごくたいりく)あるいは大陸地区(たいりくちく)。地理上の範囲としては、台湾本島、澎湖群島、金門島、馬祖島、烏坵島、東沙諸島、南沙諸島の一部(太平島、中洲島)、及びそれらの付属の島嶼からなる。特に台湾本島、澎湖群島、金門島、馬祖島は台湾地区の主要な構成要素とされている。なお、域内の行政区画については、台湾の行政区分を参照のこと。1945年9月、中華民国の南京国民政府は大日本帝国の統治下にあった台湾を接収し、中国大陸と台湾を統治するようになった。しかし、第二次国共内戦が激化すると、南京国民政府は中国大陸の支配地域を相次いで喪失し、1949年6月の首都・南京陥落と共に「中国政府」としての機能を果たせなくなった。その後、南京国民政府は蒋介石の指導の下で同年12月に中国大陸から台湾へと避難し、1950年1月に台湾国民政府として再起動した。しかしその後も中華民国は実効支配領域を狭めていき、1955年の大陳島撤退でようやく現在の台湾地区が実効統治範囲として定まった。台湾国民政府を組織する際、中華民国の実効支配地域が劇的に縮小しにもかかわらず、蒋介石は基本的に中国大陸も支配していることを前提とした組織づくりを行った。これは、蒋介石が将来的に「反政府組織・中共」(中華人民共和国)の「占領地域」を武力で奪還(大陸反攻)する方針でいたためで、政府機構のあり方と実効統治区域の乖離状態は一時的なものとして問題視されなかった。しかし、冷戦の長期化と共に大陸反攻が不可能となると、政府組織を運営する上で様々な矛盾が生じるようになり、蒋経国時代の1980年代に理想と現実の矛盾解消を求める声が大きくなっていった。1988年に総統職に就任した李登輝は、中華民国憲法を修正して政府組織を現状の実効統治範囲に適したものへ是正することにした。その際、台湾国民政府の実効統治範囲を指す法律上の適切な呼称が今まで無かったため、公式的な中華民国全土とは別に中華民国実効統治区域のみを指す概念として「自由地区」が生み出され、1991年の第1次憲法修正時に初めて法律上の用語として使用された。更に、1992年には自由地区と同じ意味を持つ「台湾地区」が、(中国大陸との民間の各種往来について定めた法律)内にて使用された。なお、単に「台湾」としなかったのは、中国側から台湾独立と受け取られる恐れがあること、また台湾側も、法理独立につながることから、政治色を無くす意図があったからである。現在、法律や公文書等で使用される言葉には4種類がある。「台湾地区」の概念に対する認識は、政治的・思想的な立場の違いによって差異がある。
出典:wikipedia
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