桓武天皇(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、日本の第50代天皇(在位:天応元年4月3日(781年4月30日) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))。白壁王(後の光仁天皇)の第1王子として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済系渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王が宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、翌4年1月2日(773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家の藤原百川による擁立があったとされる。天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日(5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日(5月12日)に即位の詔を宣した。延暦2年4月18日(783年5月23日)に百川の兄の藤原良継の娘藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもある夫人藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が断絶し天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、僅か10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。また蝦夷を服属させ東北地方を平定するため3度に渡る蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美を征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、翌22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長子)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道との所謂徳政相論)。また、健児制を導入した事で百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、やがて国衙軍制の成立を見ることになり、さらに後の武士の発生に繋がっていく。文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄と空海が唐から帰国し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎたことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へと繋がる温床となったともされる。その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日(800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追尊し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど歴代天皇の中でも稀に見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位が、これらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。ほか諱は山部(やまべ)。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)が、漢風諡号として桓武天皇が贈られた。また山陵の名を以て柏原(かしわばら)天皇(帝)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。上記とは別に、京都府京都市伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている。在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出された改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて京都市伏見区桃山町の現陵の場所に定められた。尤もその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため、確かな場所は不明とするほかない。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、且つ同京最初の天皇となったことに因んで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。桓武天皇の生母である高野新笠の出身は百済系渡来人氏族で史姓の和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后・井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位・夫人の位までであった。桓武天皇は即位間もなく天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣・菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月、新笠を葬る際、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(朱蒙)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これに因んで新笠に「天高知日之姫尊」の諡号を贈った。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野に度々狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信を尚侍としている。平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、今上天皇は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った。この発言を日本の主要マスコミのほとんどは大きく報じなかったが、韓国では大きな反響を呼び、「皇室は韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われたほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった。なお、今上天皇は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している。これらについて水野俊平は、自著の中で朝鮮半島からの帰化人による古代日本への影響の大きさを認めつつも、彼等の日本社会への同化は大きく(生母の高野新笠は百済第25代王・武寧王の子とされる純陀太子から9代目)、すでに6代前に帰化して日本名(和氏)を持っていることを指摘した。また、高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来系氏族和氏の出身という記述が続日本紀にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。