相馬 黒光(そうま こっこう、1876年9月12日 - 1955年3月2日)は、夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を起こした実業家、社会事業家である。旧姓は星、本名は良(りょう)。旧仙台藩士・星喜四郎、巳之治の三女として仙台に生まれた。少女期より横浜バンド出身である押川方義の教会「仙台日本基督教会」へ通い、キリスト教信仰を持ち、12歳で洗礼を受けた。母みのじは漢学者・星雄記の三女で、五女が佐々城豊寿である。小学校初等科卒業後、裁縫学校に進むが、進学を強く希望し、1891年に、学費の安かったミッションスクール宮城女学校(現・宮城学院中学校・高等学校)に入学が叶った。しかし、アメリカ式教育の押しつけに反発する生徒たちによるストライキ事件に連座して自主退学し、横浜のフェリス英和女学校(現・フェリス女学院中学校・高等学校)に転校した。しかし、明治女学校の講師で文士の星野天知と知り合ったことをきっかけに文学に傾倒し、ミッションスタイルのフェリスに飽き足らなさを感じて退学し、1895年に、星野をはじめ北村透谷、島崎藤村らが講師を務める憧れの明治女学校に転校。1897年に同校を卒業した。明治女学校在学中に島崎藤村の授業を受け、また従妹の佐々城信子を通じて国木田独歩とも交わり、文学への視野を広げた。「黒光」の号は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格の激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」という意味でつけられたものと言われている。卒業後まもない1898年長野県でキリスト信者の養蚕事業家として活躍していた相馬愛蔵と結婚し、愛蔵の郷里安曇野に住んだ。しかし、黒光は養蚕や農業に従ったが健康を害し、また村の気風に合わなかったこともあり、療養のため上京し、そのまま東京に住み着くことになった。勤め人を嫌った愛蔵の意向で、1901年東京本郷に小さなパン屋中村屋を従業員ごと買い取り、開業。1904年にはクリームパンを発明した。1907年には新宿へ移転、1909年には新宿駅近くに開店した。夫とともに、中華饅頭、月餅、インド式カリー等新製品の考案、喫茶部の新設など本業に勤しむ一方で、絵画、文学等のサロンをつくり、荻原碌山、中村彝、高村光太郎、戸張弧雁、木下尚江、松井須磨子、会津八一らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれた。また、岡田式静座法を信奉し、10年間一日も欠かさず静坐会に出席した。黒光は、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山の支援者となり、碌山の作品『女』像は黒光をモデルとしたものだと言われている。また、亡命したインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースらをかくまい、保護し、1918年には、長女俊子がボースと結婚した。そのほか、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせ面倒をみ、ロシア語を学んだりした。夫が死去した翌年の1955年、78歳で死去した。子供の友人に朝日新聞社で編集局長・専務を務めた信夫韓一郎がいた。青春時代の若かりし頃、実父と折り合いが悪く家出同然の生活を送っていた信夫にとって、黒光はよき理解者であり話相手であった。信夫は超が付く程の冠婚葬祭嫌いとして知られる人物であったが、黒光の病気が悪くなると、「黒光さんの葬式だけは逃げられない」と言って礼服を作り、周囲を大いに驚かせたという。長女・俊子(インド人ラース・ビハーリー・ボースと結婚、2児をもうけたのち26歳で病死)、長男・安雄(新宿中村屋2代目社長)、次女・千香子、三女・睦、次男・襄二、三男・不明、四男・文雄(17歳でブラジルへ渡り2年後マラリアで死亡)、五男・虎雄、四女・哲子。養女・浦子(黒光の叔母の娘・佐々城信子と国木田独歩との子)。父方の従兄弟に多田駿、遠縁に郭沫若がいる。
出典:wikipedia
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