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ナバス・デ・トロサの戦い

ナバス・デ・トロサの戦い(スペイン語:、アラビア語:)は、1212年7月16日にイベリア半島、現アンダルシア州ラ・カロリーナ内のナバス・デ・トローサで、カスティーリャ王をはじめとするカトリック諸国連合軍とムワッヒド朝のカリフ率いるイスラム諸国連合軍の間で行なわれた戦いである。この戦いの意義の大きさから当時の年代記作者たちは単に「あの戦い」(La Batalla)と記すことが多い。1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世は、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、この戦いでムワッヒド朝はトルヒージョ(現エストレマドゥーラ州)、プラセンシア(同)、タラベーラ・デ・ラ・レイナ(現カスティーリャ=ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)などの重要な町を奪った。そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった。しかも同年、その敗戦につけこんだレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。これは退けたものの、このようにカスティーリャ王国は、東隣のアラゴン連合王国とは条約で国境を定めていたが、西隣のレオン王国やポルトガル王国とは国境紛争が繰り返されている状況であった。1199年にヤアクーブ・マンスールを継いだムハンマド・ナースィルは1211年、10万を越える大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、カラトラーバ騎士団の守るサルバティエーラの要塞を占領して、カトリック諸国の心胆寒からしめた。ムワッヒド朝が新たに攻撃の準備をしていることを知ると、教皇インノケンティウス3世とトレドの大司教は、カトリック諸国間で争うのをやめ、カスティーリャ王アルフォンソ8世の指揮下で一致団結して対イスラム戦争を戦うように命じた。教皇の仲裁の下で、カスティーリャ王アルフォンソ8世、ナバーラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世は同盟を確約した。カトリック連合軍の構成は次のようであった。アルフォンソ8世の指揮する軍勢はカスティーリャの20の町の軍団の連合であった。メディーナ・デル・カンポ、マドリード、ソリア、アルマサン、メディナセーリとサン・エステバン・デ・ゴルメスなどの町が含まれていた。ビスカヤ(Vizcaya)の領主ディエゴ・ロペス2世デ・アロ(Diego López II de Haro)が旗の持ち手になった。そしてナバーラ王サンチョ7世、アラゴン王ペドロ2世、ポルトガル王アフォンソ2世の軍である。ポルトガル軍はこの戦いには参戦したものの、王自身は参戦しなかった。それからテンプル騎士団、サンティアゴ騎士団、カラトラーバ騎士団、オスピタル騎士団などの騎士修道会や、フランスの司教に率いられた騎士らが加わった。レオン王アルフォンソ9世はアルフォンソ8世と敵対していたために来なかったが、レオン王国の騎士たちは王の名代としてはせ参じた。1212年の夏にこうしてカトリック連合軍はトレドに集結した。そしてムハンマド・ナースィル率いる親征軍と歴史的な決戦をすべく南方へ向かって進軍した。アルフォンソ8世にとってはアラルコスの雪辱を果たす好機でもあった。しかし、教皇至上主義の騎士たちの一部が連合軍から刃こぼれするように脱落していった。つまり、キリスト教連合軍の指揮官アルフォンソ8世に従ってついてきただけの義勇兵的な騎士たちには、政治的な了解などの強い動機があったわけではなかった。彼らにとって暑くて不快な慣れない気候は耐えられないものだったのである。このように、カトリック連合軍は必ずしも足並みが揃っているわけではなく、当初6万を超えた兵力は5万程度まで減少した。アンダルシア地方のハエンの住民の間の小競り合いに半ば介入する形で、1212年7月16日にハエン近郊のナバス・デ・トローサで両軍は戦闘を開始した。カトリック連合軍の配置は、カスティーリャ王と騎士修道会の軍勢が中央に陣取り、ナバーラ王、アビラ、セゴビア、メディーナ・デル・カンポ(バリャドリッド)の軍勢が右翼、左翼にアラゴン王の軍勢が陣取っていた。はじめは小競り合いのような戦いが繰り返された。カトリック連合軍は約5万、ムワッヒド軍は約12万5千の兵力であった。ムワッヒド軍は正面からの衝突をなるべく避けて、カトリック連合軍が疲れてくるのを待つ戦術をとった。イスラム軍はカトリック軍の2倍をはるかに凌駕する兵力であり、後退するように見せかけて、主力の厚みを生かして一気に反攻するつもりであった。つまり、カトリック連合軍を挑発しておいて混乱しているところを、アンダルスと本国のベルベル人で構成された圧倒的な戦力をもってイベリア半島から一気に叩き出すつもりであった。イスラム教徒軍が後退を始めた時、それを見ていたカトリック連合軍の陣中では、アルフォンソ8世が臣下である騎士たちや王子の正面にいた。アルフォンソ8世はカトリック王たち共通の、そして自分自身に課せられた使命を果たすチャンスと見てとった。アルフォンソ8世は、ムハンマド・ナースィルの本陣の反対側の脇腹に突撃をかけた。この攻撃はカトリック連合軍の士気を奮い立たせた。一方、ムワッヒド軍は大混乱に陥った。アラゴン軍やナバーラ軍の小競り合いのような戦いも形勢が一気に傾いた。この時、伝説のように語られるナバーラ王サンチョ7世の突撃が行なわれた。ナバーラ王は揮下の精鋭を率いてムハンマド・ナースィルの本陣めがけて突攻し、本陣のテントを鎖のように守る屈強な奴隷による親衛隊を打ち破って、テントまで斬り込んだ。ムハンマド・ナースィルとその軍勢は慌てふためいて、9万とも10万ともいえる犠牲者を出して敗走した。一方、カトリック連合軍の戦死者は2000人ほどであった。主な犠牲者は騎士修道会に集中していた。カラトラーバ騎士団の旗手であるペドロ・ゴメス・デ・アセベード(Pedro Gomez de Acevedo)、サンティアゴ騎士団修道長(comendator)アルフォンソ・フェルナンデス・デ・バリャドーレス(Alfonso Fernandez de Valladares)、サンティアゴ騎士団隊長ペドロ・アリアス(Pedro Arias、大怪我を負い8月3日死亡)、テンプル騎士団隊長ゴメス・ラミレス(Gomez Ramirez)、カラトラーバ騎士団隊長ルイ・ディアス(Ruy Diaz)は、指揮ができないほどの悲惨な怪我をしていた。一方、敗北したムハンマド・ナースィルは本国へ逃げ帰ることはできたものの、翌年マラケシュで事故死した。ナバーラ王国の盾形紋章はこの戦いを契機に、赤地に金の鎖が描かれて中央にエメラルドが配される図柄となった。この紋章は今もスペイン王国の紋章の右下部分に見ることができる。ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝の受けた打撃は壊滅的ともいえるもので、以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退と後退の一途をたどることになった。そしてムワッヒド朝の本国であるマグリブにおいても、やや時期が遅れたものの、衰退に拍車をかけることになった。一方でカトリック諸国のレコンキスタの進展にははずみをつけることになった。カトリック諸国間の内紛や1225年の大飢饉がなければ、もっとレコンキスタが加速したであろうと言われている。ナバス・デ・トロサの戦いの後、カスティーリャ王国はバエサとウベダを獲得した。これはナバス・デ・トローサ近郊の主要な砦であり、アンダルシアへ侵入する玄関口ともいえる拠点であった。カスティーリャ王国のレコンキスタは フェルナンド3世の時代、1236年にコルドバ、1246年にハエン、1248年にセビリアを占領して飛躍的に進展した。新たにアルコス、メディナ=シドニア、ヘレス、カディスを獲得している。1251年にはナスル朝グラナダ王国を除いて、タイファ諸国はすべて併合された。一方、アラゴン王国はハイメ1世の時代、1228年から4年をかけてバレアレス諸島を征服し、1238年9月にバレンシアを占領した。バレンシアは13世紀の地中海においてジェノヴァやヴェネツィアに次ぐ商業都市となった。アラゴン王国は、バレアレス諸島からサルデーニャやシチリアまでの西地中海域を支配する「帝国」へと成長した。()

出典:wikipedia

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