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彦坂郁雄

彦坂 郁雄(ひこさか いくお 1941年1月5日 -)は元競艇選手。選手登録番号は1515。現役選手時代は艇王の異名を取った。最初の選手登録地は出身地の静岡であったが、後に千葉へと移る。彦坂は競艇界に大記録を数多く樹立している。主な記録だけでもこれだけ保持している。また期勝率1位回数20回で、歴代2位の野中和夫でさえ10回。続いては今村豊の9回である(2007年5月11日現在)。そして連勝記録の37についても、第2位の同記録は山岡豊年の25であるので、かなりの差がある(2007年5月11日現在)。さらに最多タイ記録である連続優勝回数6回も保持していたが、2007年7月29日に前本泰和が7連続優勝を果たしたため、塗り替えられた。ただし、これらの記録は現在は一部を除き参考記録扱いとなっている(理由は後述)。彦坂のライバルとしてまず挙げられるのは、SGが4冠制となってから最初のグランドスラマーである岡山の北原友次である。北原とは同年代ということもあったが、とにかく色々な面においてライバル心をむき出しにし、また、この両雄は色々な面において因縁があった。1970年に常滑競艇場で行われた全国地区対抗競走で彦坂はSG初優勝(当時は4大特別競走といった)を果たすが、2着が北原だった。また、北原がグランドスラムを達成した1978年の総理大臣杯競走(丸亀競艇場)では、実は彦坂も完全優勝に王手がかかっていた。そして、北原以上の強敵が後に現れる。「モンスター」の異名を取った野中和夫である。野中は25歳でデビュー(1969年)するという遅さだったが、SGを優勝するのはその5年後の1974年。この年野中は、笹川賞競走(第一回の優勝者)、モーターボート記念競走、全日本選手権競走とSG3連覇の偉業を最初に達成。そして、期勝率第一位も1972年前期〜1976年前期までの間は、彦坂と野中の2人だけしかなっていない。いつしか、東の彦坂、西の野中と言われるようになったが、実はお互い、ほとんど口を聞くことはなかったそうで、お互いがライバル心を剥き出しにしていた感があった。ところで、野中が不正行為をはたらいたということで一時競艇界から事実上の追放処分を受けたことがあった。しかし結果的に不起訴処分となり、まもなく野中は復帰することになるが、1982年、蒲郡競艇場で行われた第28回モーターボート記念において、野中は施行者希望選手枠で出場。この大会がSG大会としては復帰緒戦であった。野中は優勝戦へも進出したが、ここで彦坂と激突。1コースに構えた野中に対し、5コース回りの彦坂はトップスタートを決めて野中にプレッシャーをかけ、2周1マークにおいて差しのハンドルを決め、そのまま押し切って優勝した。この大会の優勝戦では話題性や勢いに乗る野中が人気の中心となっていたが、彦坂は見事に野中討ちを果たしたと同時に、彦坂がSGの優勝戦において野中を直接対決で破ったのはこれが初めてであった。1985年、福岡競艇場で行われた第32回全日本選手権競走優勝戦において、これまで唯一取り残していたSGタイトルを見事制覇。史上3人目、4冠制となってからは北原友次に次いで、史上2人目のグランドスラムを達成した。さらに彦坂の偉業はこれで終わらない。翌1986年より新設された、優勝賞金3000万円の賞金王決定戦の優勝戦にも登場。人気を背負っていたのは当時無冠の帝王と呼ばれた香川の安岐真人であったが、彦坂はズブリと2コースから差しのハンドルを決め、安岐の悲願を打ち砕いた。と同時に彦坂は初代同大会優勝者となり、またSG5冠制となってからは最初のグランドスラマーとなった。なお賞金王決定戦歴代優勝者の中で、長らく関東在住者はこの彦坂だけであったが、2012年(第27回大会)に山崎智也が優勝するまで26年間にわたって、関東から賞金王は出ていなった。1988年3月、彦坂は戸田競艇場で行われた第23回総理大臣杯競走において同大会3度目の優勝を果たした。この時既に47歳。またトップクラスに君臨してからも約30年にもなろうとするが、彦坂にはまだまだSGを優勝できる力が備わっていた。しかしその半年後、競艇界を揺るがす大激震が走る。桐生競艇場の開設32周年競走において整備違反の行為を行ったという理由で、選手会が規定により彦坂に対して引退勧告を行ったというニュースが報じられた為である。同年9月、整備違反による彦坂の引退が正式に決定した。引退記者会見も行われたものの、彦坂のコメントは歯切れが悪く、事の真相が明かされることはなかった。当時、競艇界では整備違反を行う選手が後を絶たず、潜在的ながらも大きな問題となっていた。中には雑誌「競艇マクール」にて、整備違反のいくつかの手口が紹介されたこともあったという。競艇界は当初、整備違反をした選手については引退後の生活を考慮して、波風が立たぬ公式理由を付けて「引退」させるという手法を取っていたが、それでは中々に根絶する事ができなかった。業を煮やした競艇界はとうとう「整備違反があれば公表する」「偽計業務妨害容疑で警察に告訴する」といった強硬方針に舵を切る。事実、この頃、当時の有力選手が理由も明らかにしないまま、あるいは不自然な理由で突然引退するケースが目立った。彦坂のちょうど1年前の桐生開設31周年競走では高峰孝三と、地元群馬のスター選手安部邦男の「私物持込違反」が発覚し、両者は引退に追い込まれた。その後、1988年にも騒動が続き、4月に大村競艇場で「整備違反行為」の発覚という事態が起き、そのショックも覚めやらぬ5月の笹川賞では前々年の優勝者であった新田宣夫の整備違反が発覚し、これで新田も引退を余儀なくされた。さらに決定的ともいえる伏線が1988年6月に発生した。同年5月に選手が各々専用のプロペラを持参してレースに参加する制度、いわゆる「持ちペラ」が試行という形で解禁されることになったが、その持ちペラ解禁を逆手に取り、当時競艇界の次代を背負って立つニューリーダーとして嘱望されていた長崎の有力若手選手・国光秀雄が蒲原陽一・江川寛の2選手と共謀してペラを不正に作為していたことが発覚して大村警察署に逮捕され、その結果3人とも即刻競艇界から追放された。その余波は彦坂までにも及んだわけである。前述した通り、彦坂がなぜ整備違反に及んだのかという事実は現在も明らかにされておらず、ことの詳細は不明であるが、彦坂の一件を境に、整備違反を理由に引退に追い込まれる選手はほとんどいなくなった。しかしながら彦坂の突然の引退のニュースは、野中の一時引退のときよりもインパクトが大きかった。なお、この一件で彦坂は懲戒選手扱いとなり、公式記録はレースの優勝者など修正の効かない記録を除き、参考記録扱いとなっており、競艇殿堂・競艇マイスター入りの資格も失っている。また、2012年秋に実施したボートレース60周年記念の企画「次世代へ語り継ぎたいファン投票」のリストからも他の懲戒選手同様、外れていた。彦坂のその後の消息は千葉市内で実業家に転進し、日本国外にも進出している。

出典:wikipedia

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