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カリブソング

カリブソング(1986年4月13日 - 1994年10月20日)は、日本の競走馬。1988年に中央競馬でデビュー。1990年にフェブラリーハンデキャップを制し最優秀ダートホースに選出されるなどダート競走で頭角を現す。のち芝の競走でも活躍し、翌1991年には日刊スポーツ賞金杯と目黒記念の2重賞を制し、GI競走の天皇賞(秋)でも2着の成績を残した。9歳の1994年にはブリーダーズゴールドカップに勝利したが、同競走から10日後の調教中に急性心不全で死亡した。"※以下、馬齢は日本で2000年以前に使用された表記(数え年)で記述する。"1986年、北海道門別町の野島牧場に生まれる。父は数々の活躍馬を輩出していたマルゼンスキー。母は地方競馬の南関東や東海地区で走り、12勝を挙げたエスプリディア。叔父にはチェリーリュウ、リンドプルバンといった中央の活躍馬がいた。野島牧場々主の野島春男はかつて公営・名古屋競馬場で調教師を務め、競走馬時代のエスプリディアも手掛けており、繁殖牝馬としても大きな期待を寄せていた。しばらくは無難な種牡馬と交配させて様子を見たのち「そろそろ良い馬を出しそうだ」というタイミングでマルゼンスキーを交配し誕生したのが本馬であった。育成段階から評判となっており、野島は馬主への売却に際して「重賞の一つや二つは勝てますよ」と申し添えたという。競走年齢に達した1988年秋、茨城県美浦トレーニングセンターの加藤修甫厩舎に入る。調教で騎乗した栗原敏男(後に担当厩務員)は、馬体の良さと乗り味の良さに「これは相当な馬が入ってきたと思った」と述懐している。なお、後にカリブソングは調教で極めて動きの良い馬として知られるようになり、併走での調教のとき適当なパートナーが見つからないため、カリブソング1頭に対して複数の馬がリレー方式で併せるという光景が美浦トレセン北馬場の名物となった。12月3日、中山開催の新馬戦でデビューし、3着となる。周囲を気にする様子があったことから2戦目にはブリンカーを着用して臨み、逃げ切りでの初勝利を挙げた。しかし以後も競走に集中できなかったり、調教で放馬して柵に衝突するなど気性面の問題を抱え、続く勝利のないまま翌1989年2月に5戦目を消化した時点で放牧に出された。加藤は当時のカリブソングについて「相手に負けるというよりも、自分に負けていた馬」と評している。秋に帰厩してからは気性面にいくらかの改善が見られ、復帰初戦を勝利。続く2戦を3、2着としてから、以後年を跨いで3連勝を挙げた。2月にはフェブラリーハンデキャップで重賞に初出走。61.5キログラムの斤量を負う前年の最優秀ダートホース・ダイナレターを抑えて1番人気に支持されると、好位から最後の直線で抜け出して重賞初勝利を挙げた。続くマーチステークスで2着となってから笹針を打つため放牧に出され、秋の復帰戦オールカマーで芝の重賞に初出走するも7着。その後ダートに戻ってオープン特別競走を連勝し、年末にはウインターステークスに出走。1番人気に支持されたが、最後の直線で前の馬が壁になる場面もあり、先に抜け出したナリタハヤブサを半馬身とらえきれず2着となった。このとき、同馬の調教師である中尾謙太郎、騎手の横山典弘はいずれも「まさかカリブソングに勝てるとは」というコメントを残している。当年はこれが最後の出走となったが、年度表彰では180票中157票を集め、最優秀ダートホースに選出された。翌1991年は、年初開催に行われる芝の重賞・日刊スポーツ賞金杯から始動。59キログラムという斤量で5番人気の評価だったが、残り200メートル付近で一気に抜け出し、2着に2馬身半差を付けて勝利。加藤は「今までの成績からダート馬のイメージが強かったが、私自身芝でも走れると思っていました」と語り、騎乗した柴田政人は「これで芝の目途もたったし、ダート馬のイメージも払拭できた」と語った。以後は芝路線を進み、続くアメリカジョッキークラブカップでの2着を経て、2月の目黒記念では出走馬中最高重量の60.5キログラムを背負い勝利した。日経賞2着を経て天皇賞(春)でGI競走に初出走したが、10着と敗れ放牧に出される。秋は毎日王冠4着を経て、天皇賞(秋)に出走。外枠に入った1番人気のメジロマックイーンがスタート直後に一気に内側へ進路を取って馬群が混乱したが、カリブソングは不利を被ることなくレースを進め、2位入線のプレクラスニーから4分の3馬身差で3位に入線。1位入線馬メジロマックイーンがスタート直後の斜行のかどで18着へ降着となったことから、繰り上がりの2着となった。厩務員の栗原は勝利の自信を抱いていたというが、調教で見せていた気を抜く悪癖をここでも出していたとして、「必ず勝負所で手応えが悪くなっていた。それでまた伸びるところがこの馬のいいところではあったのだけれど、やはり一線級に入ったとき、弱点にはなる。結果2着に繰り上がったわけだが、その後のことを考えても、あれが精一杯だったのかもしれない」と述べている("競走詳細")。その後に出走したGI競走のジャパンカップと有馬記念は10着、11着と敗れ、翌1992年以降も勝利から遠ざかる。重い斤量を負わされることが多かったため1993年4月に出走した大井競馬主催の帝王賞以降は「同じ斤量なら対戦相手のレベルを落とす」という方針でローテーションが組まれた。同競走に続いて出走した新潟大賞典の後に屈腱炎を発症。8歳と引退も視野に入る年齢だったが、加藤は「もうひと花」を期して現役続行を選択し、カリブソングは長期休養に入った。復帰戦となった翌年の帝王賞ではスタートで躓きながらも5着。その後の3戦も勝てないながら1着と差のない競馬を続けた。そして10月10日、道営競馬主催のブリーダーズゴールドカップに出走。スタート直後から逃げを打つと、道営代表ササノコバンの追走を1馬身弱抑え、目黒記念以来約3年半ぶりの勝利を挙げた。ブリーダーズゴールドカップから10日後の10月20日、カリブソングはアルゼンチン共和国杯に向けた調教中、ゴール板を過ぎた第1コーナー付近で突如転倒。診療所に運ばれたが、急性心不全のため死亡した。9歳没。

出典:wikipedia

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