公益財団法人 修養団(こうえきざいだんほうじん しゅうようだん、略称SYD)は、日本の公益財団法人である。以前は文部科学省所管であったが、公益法人認定法の制定に伴い現在は内閣府の認定を受けている。修養団は、1906年(明治39年)2月11日に蓮沼門三が作った思想教化団体である。蓮沼が東京府師範学校(現・東京学芸大学)時代に始めた「美化運動」がその起源である「総親和」「総努力」をスローガンに皇国魂を普及させる「白色倫理運動」を展開、大正デモクラシーに逆行する日本精神の普及を行った。昭和初期には当時の国家主義者から期待された団体である。また、1937年(昭和12年)8月24日の閣議決定に始まる国民精神総動員運動を民間の側から推進した団体でもある。修養団は蓮沼の『道のひかり』を教典とし、日本主義による倫理の確立を目指している機関紙『向上』を発行している。現在、子どもを対象にした自然体験キャンプや海外の恵まれない子どもたちとの交流活動のほか、家庭教育や社会人教育などの事業を展開している。1923年(大正12年)に財団法人化、2011年(平成23年)4月1日に公益財団法人としての認定を受けた。2代目団長に平沼騏一郎、初代後援会長に渋沢栄一などの著名人の名前が見られる。また、その後の会長には大槻文平、副会長には小山五郎、三田勝茂、日向方斉などの名が見られる。修養団の教えは企業にとって都合が良かったため、太平洋戦争前から住友金属、日立製作所などの大手企業が修養団の教えを広めた。また、「日本が戦時色を強めれば強めるほど、軍部からも産業界からも、植民地統治の当局者からも大きな期待がかけられた団体」だった。太平洋戦争中は戦時体制を支える団体として、六百万人くらいの団員を抱えていた(太平洋戦争敗戦時で、団員の累計は六百二十万人)。太平洋戦争後、GHQによって解散されないよう立ち回り、敗戦後すぐに運動を再開させた。佐高信の取材によると、修養団のメンバーは、「占領軍によって破壊されたタテの秩序を、企業をテコにして再建するんだという意識だった」という。修養団の起源は、蓮沼が青山師範学校(現・東京学芸大学)時代に始めた「美化運動」であるこの「美化運動」を母体として次に作られたのが「風紀革正会」である同好会的な学生の運動だった「風紀革正会」が更に大きくなって社会教育運動のための団体に変わったのが修養団で、1906年(明治39年)2月11日に旗揚げされた。この時、蓮沼が起草したのが次の三大主義である。また、修養団の団員になるためには次の2つの誓願をしなければならなかった。その他、入団時には、「帝国風紀革正の同志たることを誓約す」という一文に署名することが求められた。大正時代の入団案内には、次のような一文が見られる。これは規約の第1条である。修養団旗揚げ時、蓮沼は次のような設立趣意書を読み上げている。第2代団長だった平沼騏一郎は首相になってから、「総親和」「総努力」「大愛の精神」というスローガンを言いだすが、これらは全て修養団の言葉からとられている。佐高信は、いかなる時も怒りを抑えよ、という教えは、何事も「自分の未熟さや自己修養の不足に還元される『永遠の内向主義』」であり、「自己修養という道徳的色彩をまとっているだけになかなか反駁しがたい」、また、企業にとっては都合がよい教えである、と評している。修養団は当初は学校を中心とした精神運動だったが、1909年(明治42年)の春に蓮沼が渋沢栄一を訪ねたことで実業界との関係を持ち始めることになる。渋沢は紹介状を持たない人物とは会おうとしなかったが、蓮沼は渋沢に会うために10メートル余りに及んだ長文の手紙を書いて送り、なんとか面会にこぎつけ、資金援助を得ることができるようになった。渋沢栄一が修養団において果たした役割は小さくないが、かと言って修養団を全面肯定したわけでもなかった。渋沢は、蓮沼の「精神の修養」を重視する姿勢を評価して後援したが、その「空想」的な部分や「法華経のお題目式」の手法に違和感を持っており嫌っていた。本心はともかく、渋沢が援助の手を差し伸べて以降、修養団は政財界や教育界の有力者からの後援を得られるようになった援助した代表的な人物は、森村市左衛門、手島精一、新渡戸稲造、岡田良平、井上友一、床次竹次郎などである財閥グループの中では小倉正恒が熱心だったので、住友財閥と修養団の関係が深い住友財閥が修養団の受け入れを決めたのは、小倉が本店理事だった1919年(大正8年)12月のことである激化する労働争議に対抗するために、小倉は、住友製鋼所、住友伸銅所(後の住友金属工業)、住友電線へと、修養団支部を拡大していった。小倉以外では東芝の大田黒重五郎、秩父セメントの諸井恒平も熱心だった。修養団は、八幡製鉄、東京電気会社(現・東芝)でも導入された修養団の導入は、労働争議対策としては実際に効果を上げたようで、当時流行していたサボタージュがなかなか実行できなかったという。修養団創立10周年の1916年(大正5年)の段階では団員3千人だったが、1921年(大正10年)には修養団の規模は、支部175、団員6万6718人にまで拡大した。支部は、師範学校、各地の大学の他、工事事業場、市町村に拡大し、地方連合会の設立にまで至った1923年(大正12年)に財団法人化、1924年(大正13年)に初代団長だった田尻稲次郎が亡くなり、代わって平沼騏一郎が第2代団長になってから修養団は大躍進の時代に入った。1926年(大正15年)、代々木にある現在の修養団の土地を宮内省御領地から無償貸与されて、修養団会館を建設した。なお、同じころ、蓮沼と盟友で「青年団運動の父」と呼ばれる田沢義鋪の尽力で明治神宮外苑に日本青年館が建設されている。修養団の活動が労働者・企業レベルへ広まっていった要因の1つは、田沢義鋪の協力によるところがある。修養団の企業への浸透は、協調会の修養団式講習会を通じて始まった。協調会とは、1919年末に「官民一致の民間機関」として設立された労働問題を専門に扱う団体である官僚側からは床次竹次郎内務大臣(当時)と財界からは渋沢栄一や日本工業倶楽部の人間が中心になって設立された。協調会は多種多様な事業を行ったが、中でも、労働争議の調停と修養主義に基づく労務者講習会の実施が大きな効果をあげた。協調会の内実は、実際は修養団そのもので、講習を取りしきったのは修養団だった。講習の受講者の多くが修養団に入団して団員となり、その団員を拠点として企業内に修養団の活動が広まっていった昭和初期に入り国家社会主義や革新右翼、観念右翼が跋扈し始めると、国家主義者は修養団に期待をかけるようになり出した。そして実際に修養団は「日本が戦時色を強めれば強めるほど、軍部からも産業界からも、植民地統治の当局者からも大きな期待がかけられた団体」になった。実際に修養団は、国家に対して様々な協力を惜しまなかった。例えば、1937年(昭和12年)8月24日の閣議決定に始まる国民精神総動員運動を民間の側から推進した。それ以外にも、社会事業として、1934年(昭和9年)9月の東京府委託満州開拓団移民訓練所、満州国産業開発先遣隊員短期訓練事業、知識階級百日訓練道場などを行った。このうち、訓練所の事業では80人の花嫁を含めて約250人を満州に送った。太平洋戦争中、修養団は戦時体制を支える団体として六百万人くらいの団員を抱えていた(太平洋戦争敗戦時で、団員の累計は六百二十万人である)。修養団は、太平洋戦争終結までの修養団の評価について、「戦後占領軍GHQから団体の解散を命ぜられず存続できた事実」を根拠にして、「戦後、一部の学者が修養団をわが国最大のファッショ的教化団体であったと評している」と抗弁している。しかし、同じ文章中に「一部の逸脱があったとは言え」と書かざるを得ず、「根本において決してファシズムとは言えなかった」「そうした社会情勢の中で、文部・内務両省共管になる財団法人の社会教育団体が友好国、同盟国、及びその指導者、統率者を賞賛し、そこから何かを学びとろうとし、また全体・一斉主義の教化活動を推し進めていったことは、当時にあっては非難されるべきものではない」と歯切れの悪い言い方をしている。日本の敗戦後、大部分の教化団体はGHQによって解散させられたが、修養団はうまく立ち回り解散を免れた。教化団体で解散を免れたのは、修養団以外では報徳会のみである。蓮沼は「敗戦の道義的責任を痛感して」主幹を一時やめた(1951年(昭和26年)に復帰)。しかし、その後も、敗戦後ほとんど間もない1945年(昭和20年)11月15日には蓮沼が昭和天皇に社会教育について進講、10月から12月にかけては、国民道義昂揚協議会、家庭教育振興協議会、貯蓄推進協議会、家庭生活科学化協議会、幹部勤労者啓発会、勤労者啓発会を各地で開催するなど運動は活発だった。太平洋戦争後、修養団の活動が太平洋戦争前のよう広く一般人に対して行われることはなくなったが、企業に対する活動はそのまま残った。むしろ、企業だけでなく、国・地方公共団体の行う社会教育運動の領域に手を広げていった。戦後の修養団を物心両面で支えたのは企業だと言ってよい。修養団は、1974年4月に宗教右翼を中心にして結成された「日本を守る会」に結成当初から参加している。この事実は修養団が1985年に発行した『修養団運動八十年史』内に一言も触れられておらず、また、それを調べた文献もないので、修養団が「日本を守る会」の活動でどのような役割を果たしたのかは不明である。日本の社会教育活動において、修養団から広がったものも多いといわれる。また、その当時修養団が全国各地で実施した野外研修の朝礼に行われた体操は「国民体操」(松元稲穂による考案)と呼ばれ、この国民体操をベースに作られたのがNHKラジオ体操であるという説がある。修養団は伊勢に神都国民道場というものを持っていて、日本の企業が自社の新入社員に対して愛社心を植え付けるために伊勢の五十鈴川に入らせる社員研修をそこで行っていたこの社員研修は「みそぎ研修」と通称されている。これを指導するのが修養団である。修養団が、大手企業から依頼されて新入社員に施している修行というものの内容については比較的よく知られている。書かれた時期が古いが、堀幸雄はその著書『戦後の右翼勢力』(増補版)の中で、1982年4月20日付の毎日新聞の記事を引用している。その内容は以下のようなものである。毎日新聞以外では、タイム誌のアラン・タンズマン記者が実際に体験してそのレポートをタイム1983年1月31日号(国際版は2月7日号)に書いている。タンズマンの言によると、水の冷たさは寒いを通り越して痛いという感覚だったという。上記の記事では男性の例しか出てこないが、女性の場合は薄物をまとわせ、男の場合と同様に鉢巻きをさせて、夜か朝に、明治天皇の和歌を唱和させ一分間五十鈴川に肩までつからせる。修養団は、これを「水行」と呼んでいる。これは夏冬無関係に行われる。鉢巻きには「愛 汗」と書かれている。佐高信が取材した時の道場主いわく、みそぎ研修の目的は「バカになってものごとに挑むきっかけをつかませることだ」という。少なくとも1992年から1993年頃までは、日立グループ、住友金属、宇部興産、三菱金属、トヨタ車体、東芝、三菱電機、松下電器産業などが継続的にこのような社員研修を行っていた。松下幸之助は修養団の精神に感銘し、顧問を務めた(昭和51年(1976年)~平成元年(1989年))。また、安岡正篤も同様に蓮沼門三の考えに共感し、顧問を務めている(昭和45年(1970年)~昭和59年(1984年))。第2代団長である平沼騏一郎は在任中に枢密院議長に就任し、また後には内閣総理大臣に就任して(昭和14年)、自らの国政運営の指針として修養団の精神である「総親和、総努力」を挙げた。そのほか、土光敏夫、松下幸之助、安岡正篤などもバックアップしてきた。平成17年(2005年)11月13日(日)、今上天皇・皇后の行幸啓を受けて、明治神宮会館において創立100周年記念式典が開催されている。式典での『天皇陛下のおことば』が宮内庁のホームページに掲載されている。また、それに先立つ同年11月1日(火) 、皇居において財団法人修養団理事長より「財団法人修養団創立100周年記念式典について」と題して、天皇・皇后に説明がなされている。大正14年(1925年)頃、第2代団である平沼騏一郎が修養団後援会の設立を発起し、同年5月30日に丸の内の日本工業倶楽部において設立総会が開催された。歴代後援会長は以下の通り。現在は、個人会員と共に企業会員の制度がある。
出典:wikipedia
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