『トラ・トラ・トラ!』()は、1970年に公開されたアメリカの戦争映画。1941年の日本海軍による真珠湾攻撃をめぐる両国の動きを題材に据え、日本との合同スタッフ・キャストで制作された。1970年のアカデミー視覚効果賞を獲得。『トラ・トラ・トラ!』は真珠湾攻撃にいたる日米両国の動きを描き、日本では高い評価を受けて熱狂をもって受け入れられた。しかし、開戦前の米国側の危機管理の甘さが強調されていることや、日本軍が圧倒的に優勢であること、また長尺である割にアクションシーンが最後だけであるため、米国での興行成績は振るわなかった。この反省を踏まえた1976年の『ミッドウェイ』は米国中心視点で製作されることになった。本作の公開はベトナム戦争の真っ只中であったが、米国が攻撃されるというだけでなく、日本側の視点を大幅に取り入れた映画を製作したという点では、当時の米国の懐の深さを表していると言える。真珠湾奇襲を防ぐことができなかった原因を、ワシントンの政府上層部の責任として描いていることも当時としては斬新であった。それまで奇襲攻撃を許した責任の多くを問われていたウォルター・ショート司令官やハズバンド・キンメル提督は、大統領をも情報共有から除外したワシントンの隠蔽体質のために有効な対処手段をとることができなかったというように描かれている。また、製作当初は事実関係が未確認であった空襲開始前の駆逐艦ワード(ウォード)による日本海軍特殊潜航艇甲標的への砲撃および撃沈シーンが描かれている(ワード号事件)。映画内では、甲標的への攻撃行動とその報告が握りつぶされるまでの過程が描かれており、アメリカ側の怠慢を示すシーンになっている。このような劇場公開当時一般にあまり知られていなかったエピソードを映画に取り入れている点も高く評価されている。もともと本作は、英米仏独のスタッフを結集してノルマンディー上陸作戦を描いた大作『史上最大の作戦』が成功したことに気をよくした20世紀フォックスが、ラディスラス・ファラゴのノンフィクション『破られた封印』(The Broken Seal)を原作に、日米双方の視点から真珠湾攻撃を描こうとした企画であった。豪腕で知られた当時の社長ダリル・F・ザナックは『史上最大の作戦』をまとめあげた実績を持つエルモ・ウィリアムズを起用して製作がスタートした。アメリカ側、日本側双方の場面を別個に撮影して組み合わせる方針であったため、日本側シークエンスの監督に誰を起用するかという意見を求められたエルモは迷わず黒澤明の名をあげた。この話を聞いた当時の黒澤明はそれほど乗り気でなかったというが、東宝の手を離れて黒澤プロダクション(以下黒澤プロ)を完全に独立させた直後という事情もあり、ハリウッドと組んで大作を撮るという話は渡りに船でもあった。黒澤も当時力をいれて進めていた『暴走機関車』の製作が一時中断になったことから『トラ・トラ・トラ!』の製作にのめりこんでいく。黒澤は膨大な資料を収集した上で、小国英雄、菊島隆三と共同で脚本を執筆し、1967年5月3日に準備稿『虎・虎・虎』を完成させた(黒澤明は脚本執筆のため阿川弘之の『山本五十六』からも多くのアイデアを得たが、後に黒澤が降板したことから阿川の名前がクレジットに入ることはなかった)。また、黒澤の誘いで日本側シーンの音楽担当として武満徹も参加することとなった。一方アメリカ側のシークエンスは監督としてドキュメンタリー映画出身で『ミクロの決死圏』『海底二万哩』で知られるリチャード・フライシャーが起用され、1967年7月にハワイでエルモ・黒澤・フライシャーらが一堂に会して製作のための話し合いを行ったが、黒澤はフライシャーを好まず、ほとんど成果を見なかった。結局プロデューサーのエルモが脚本の決定稿をまとめあげたが、黒澤は自分の脚本部分のカットが多かったことが気に入らなかった。ここで製作が行き詰るかに見えたが、社長のザナックが自ら来日して黒澤を訪ね、黒澤も訪米してザナックと会談を行ったことで状況は好転した。アメリカでは撮影用に多くの軍用機が手配され、日本でも福岡県の芦屋町に航空母艦赤城と戦艦長門の巨大なオープンセットが製作されたことで製作は順調に進んでおり、黒澤が山本五十六などの軍人役としてプロの俳優でなく演技の素人を大量に起用したことが各所で話題となっていた。1968年12月2日、京都の太秦にある東映京都撮影所でいよいよ『トラ・トラ・トラ!』日本側シークエンスの撮影が開始された。ところがそのわずか三週間後の12月24日、20世紀フォックスは病気という理由で黒澤の降板を発表することになる。この三週間の間、撮影はほとんど進まなかった。その原因として黒澤の異常なこだわりや精神不安定があげられる。下記がその例である。スタッフからの不満も常に耳に入っており、現場でも黒澤の状態を確認していたエルモだったが、なんとか黒澤をフォローしながら撮影を続けさせようとした。しかし撮影がほとんど進まなかったため、12月24日苦渋の決断を下し、黒澤に直接会ってその監督降板を伝えた。「病気による降板」(黒澤の「病気」の問題は後に映画にかけられていた保険の支払いに関する争いにつながる)という形で行われた監督降板劇の真相はいまだに不明な点が多いが、黒澤と20世紀フォックスの間の契約に関する詳細な問題や、撮影方針の食い違い、黒澤が自らの権限に関しての認識が不十分だったことなどさまざまな問題が背景にあったとされている。また、黒澤自身が生前「僕には(軍隊体験、戦場体験がないので)戦争映画は撮れない。客席に弾が飛んでこない限り、あの恐ろしさは伝わらないだろう」と語っていたともいう。この降板劇の経緯から以後日本では、黒澤の「気難しい完全主義者」というイメージが強くなったとも言われる。この降板と「病気」名目について、土屋嘉男が黒澤本人に聞いたところ、黒澤は真っ先に「山本五十六の長官室に時代劇に使う連判状があったんだよね。怒る方が当たり前だろう?」と情けなさそうに答え、「俺は、いつもの俺のやり方でやったんだよ。俺は病気でもなんでもなく元気だよ。君にはわかってもらえるけど、そんなことも解らない連中がウヨウヨ居るんだよね」と嘆いている。土屋はまた、「場所が京都東映だったのがいけなかった。東宝だったら慣れっこになっているので何の問題もなかったと思う。東映がいけないという事ではなく、黒澤さんのやる事成す事が一つ一つ奇異に見えたに違いない。当然のことである」と述べている。さらに土屋は、「当時東映ではヤクザ映画を撮っており、本物のヤクザに偽物のヤクザが、撮影所内にウロウロしていた。黒澤さんの最も忌み嫌うヤクザ。そんな最悪の環境の中で、一段と自己を貫こうとしたに違いない。しかも、身内と思い込んでいた日本側の製作者等にも裏切られ、かつてない傷心を一人味わったことと思う」と黒澤に一定の理解を示している。そもそもはじまりの段階で、日米で認識のずれがあり、黒澤は総監督のつもりでいたが、20世紀フォックスはあくまでも日本側部分の演出の担当のつもりであった。この監督解任騒動は黒澤のキャリアに大きな傷を残すことになった。それから3年後の1971年12月22日、黒澤明は自宅で自殺を図り、後に「3年も熱中していた企画を突然打ち切られたら、監督は殺されるのと同じことだ。」と語っている。黒澤明監督の降板と前後してプロデューサーのエルモをはじめとする20世紀フォックスの製作陣は黒澤監督に代わる日本側の後任監督の人選を限られた時間の中で早急に行うこととなった。当初、黒澤監督と共に第2班監督として準備段階から参加し北海道ロケの演出を務めていた佐藤純弥にメイン監督として撮影の引き継ぎを要請したが佐藤はその直後に降板。その後、製作総指揮のダリル社長と息子のリチャード・ザナック、そしてエルモの3人で日本側シーン撮影に関する国際電話会談が行われたがダリル親子は当初エルモに日本側シーンの撮影を日本からハワイに移し、スタッフ・キャスト(日本側)はすべて現地の人間で編成し撮影することを提示してきたという。しかしエルモは当初の企画意図に反するこの案に反対し日本側シーンの撮影は後任の日本人監督を立て日本人スタッフ・キャストで引き続き撮影することを強く主張しダリル親子を説得、承認された。まず日本側後任監督として20世紀フォックスからオファーを受けたのは『人間の條件』等で知られ海外の映画祭で数々のグランプリに輝いていた小林正樹であったが断られ、その後も市川崑、岡本喜八、中村登、映画『黒部の太陽』撮影中の熊井啓などにオファーしたものの「黒澤監督が降ろされた事情もはっきりとしないのに引き受けられない」とことごとく断られた。また、当時、東宝から独立し自身を社長とする株式会社三船プロダクションを立ち上げた三船敏郎にもオファーがあった。20世紀フォックスとしては三船プロダクションに日本側撮影を委託し、また三船に山本五十六長官役で主演してもらうという内容であった。当時の新聞にも報じられたものの結局、三船は三船プロダクション社長の立場からオファーを断っている。因みに三船は黒澤監督降板前後に東宝が製作していた戦争大作企画「8・15シリーズ」の第2作『連合艦隊司令長官 山本五十六』(丸山誠治監督作品)で山本五十六長官役で主演。その後、本作『トラ・トラ・トラ!』が完成し日本公開されたのと同時期に公開された「8・15シリーズ」第4作『激動の昭和史 軍閥』(堀川弘通監督作品)でも同じく山本長官を演じている。なお、この作品にも山村は重要な役柄で出演している。黒澤監督の降板後、それまで日本側シーン撮影に参加していたスタッフは後任監督が決定するまでの間、撮影スタジオの東映京都撮影所に留まっている者もいたがメインスタッフだった黒澤組のスタッフや助監督らは既に芦屋に建造されていた戦艦・長門と空母・赤城の原寸大オープンセットやスタジオセットを準備していた村木与四郎、近藤司率いる美術スタッフらを除いてほとんど降板した。また、企画段階から参加し音楽担当で作曲作業を進めていた武満徹も降板している。黒澤が意欲的に抜擢した素人俳優たちは黒澤降板後に解雇され、源田実中佐役で出演予定だった山崎努をはじめとする職業俳優出演者の一部も降板した。上記のように日本の映画人に次々にオファーを断られていた後任の日本側監督人選であったが、遂に日活でアクション映画の旗手として活躍していたベテラン監督舛田利雄が日本側監督を引き受けた。舛田は一度、20世紀フォックスから後任監督のオファーを断っていたが、製作期間の余裕が無くなってきており20世紀フォックスは再び舛田にオファーを出した。舛田も「面白そうだから」との理由で一度は断った日本側監督を引き受けることとなった。しかし、ただでさえ後任監督人選に時間をかけすぎたため、舛田は短期間のスケジュールの間に日本側シーンすべてを自分1人で演出するのは難しいと考え20世紀フォックス製作陣に対しもう1人、共同監督を立てることを提案する。その共同監督の人選をフォックスに一任された舛田は「以前から一緒に仕事をしてみたい」と考えていた松竹の野村芳太郎と大映の三隅研次(三隅は舛田との面識は無かった)に共同監督の要請をしたが両人とも別の撮影が入っているとの理由で断られた。そこで舛田は以前パーティーで顔を合わせていた東映のアクション映画の旗手、深作欣二に電話を掛け協力を要請し結果、「ハリウッドの映画制作に興味がある」という深作が共同監督を引き受ける。こうして舛田利雄と深作欣二が後任監督に決定し両監督を中心に日本側撮影が再開されることとなった。撮影は2班に分かれベテランの舛田は主に東映京都撮影所におけるセット撮影と芦屋の戦艦・長門、空母・赤城の原寸大オープンセットでの撮影部分を担当し、深作は主にフロントプロジェクションによる特撮合成が必要になる零戦のコクピット内のシーンの撮影を担当した(肝心のフロントプロジェクションだがハリウッドからわざわざ取り寄せたものの故障が多く撮影は困難を極めたため、クランクアップ後も深作自身は大変悔いを残す結果となった)。日本側撮影のメインカメラマンは慣れない東映スタッフとの仕事ということもあり舛田たっての希望で日活の姫田真佐久が参加した。日本側脚本の大半は黒澤らが執筆したものが使われることとなったが、大幅にカットされている。(黒澤の強い要望から製作会社との協定が結ばれ、本編では一切黒澤の名前がクレジットに出なかった)。日本側出演者は当初の素人俳優からあらためてプロの俳優たちが起用された。まず、主役の山本五十六長官役には舛田の推薦で山村聡に決まる。当時、山村は撮影場所の京都で別の作品の撮影が入っており山村自身は不本意ながらも出演オファーを受け、専用のかつらを装着し撮影に臨んだ。山村の起用については掛け持ち出演であり、日本側では珍しくないもののハリウッドでは契約関係等でご法度ということになるため舛田がフォックス側を説得した。源田実中佐役は降板した山崎努から三橋達也に交代した。三橋も出演オファーの話を聞いた際、黒澤監督との関係もあり困惑したが知人から「あの事件のことは君には一切関係ない」と言われ出演を快諾した。その他、黒澤監督時はキャスティングが決定していなかった真珠湾攻撃時の飛行隊長淵田美津雄中佐役は田村高廣に決定。南雲忠一海軍中将役の東野英治郎、三川軍一海軍中将役(完成作品では山口多聞海軍少将役に変更)の藤田進は引き続き新体制後の現場に参加した。また近衛公爵役の千田是也、駐米大使館書記官役の久米明らも新体制後も撮影を続けたが、黒澤組の撮影したシーンはすべて撮り直された。こうしたスタッフ・キャスト新体制の下、日本側撮影は無事クランクアップした。国際的に公開された「アメリカ公開版」(インターナショナル版)とは別に、日本でのみ劇場公開された「日本公開版」が存在する。「アメリカ公開版」との主な違いは、オープニングクレジットと「アメリカ公開版」ではカットされた2つのシーンが「日本公開版」には追加されている点である。この「日本公開版」は日本での劇場公開後、テレビ放送やビデオソフトが普及し始めた時期に発売されたVHSビデオとレーザーディスクが1980年代に市場に出回って以降は長らく公開される機会がなかったが、2008年に発売されたDVDボックス『トラ・トラ・トラ!コレクターズボックス(3枚組)』の特典ディスクにテレビ放送された素材(画面サイズが)のものが収録され(発売当時、「日本公開版」の上映フィルムが日本国内では所在が確認できなかったため)久々に日の目を見ることとなった。その後2009年に、製作40周年記念としてハイビジョン画質で収録されたBlu-ray Discが発売(4000セット完全生産限定)。その際Blu-ray版には新たに発見された劇場公開当時の「日本公開版」がシネスコ画面の完全な形で収録されている。その他には日本語吹替や多数の映像特典も収録されている。2015年3月には製作45周年記念版(Blu-ray Disc)が発売されている。現在では「日本公開版」の他、上記と同内容の映像特典を収録したレンタル盤Blu-rayもリリースされている。また、ハリウッドでの編集作業には舛田も同席し完成作品にも反映されているが本作に「アメリカ公開版(インターナショナル版)」と「日本公開版」の2種類が存在することは当時舛田には知らされていなかった。本作撮影のため、米国製練習機のT-6 テキサンやバルティBT-13を改造し、旧日本海軍の航空機が飛行可能な実機として再現された。機種は零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機、九七式艦上攻撃機で、特に九七式艦上攻撃機はT-6とBT-13をつなぎ合わせて製作されるという念の入れようであった。日本機とは外観の大きく異なる米国機の中から、なるべくシルエットの似た機体を選び、更に現存する実機を大量に調達した上で、飛行に支障が出ない範囲内で大改造を施し、出来る限り“本物”に似せようと工夫を重ねたスタッフの努力は高く評価されている。こうして再現された日本海軍の航空機には多くの米国人スタントパイロットが“日本海軍パイロット”に扮して乗り込み、危険な超低空飛行や空中戦などのアクロバットを繰り返して、迫力あるシーンを造り上げた。これらにより、払暁に発艦していく攻撃隊のシーンや真珠湾に向かう編隊飛行、並びにクライマックスの攻撃シーンなどの映像が描き出された。また、墜落していく戦闘機など実写では撮影困難な一部のシーンや、荒波の中を進む機動部隊はミニチュアによる特撮である。この映画で再現された日本海軍機は、その作りこみにより、現存する実機を除けば日本海軍機に似ている飛行可能な機体であるため、後に作られた多くの戦争映画や欧米の航空ショーにも動員され、日本軍機役で現在も活躍している(本作の“テキサン・ゼロ”は後に『ファイナル・カウントダウン』に再び真珠湾攻撃部隊として登場する。零戦と違い、九九艦爆と九七艦攻は飛行可能な現存機がないため、後年の『パール・ハーバー』にも再び出演している)。対する米軍側の軍用機の多くは、実際の戦闘に参加した機体と異なる型式があるものの、当時残っていた飛行可能な機体が各地から集められて実際に飛行シーンや戦闘シーンが撮影されている。日本機の空襲により地上で破壊される機体には、実物大セットの他にかき集められた中にあった飛行不可能なスクラップも使用され、撮影用のセットやミニチュアとは一線を画すリアリティを与えている(シーンによってはセットやミニチュアも使用されている)。中でも、編隊飛行のため多数を要したB-17は、森林消火に使われていた機体なども駆り出されて、そのうち一機は一発勝負である片脚着陸のスタントシーンもこなしている。日本側の航空母艦の撮影には、実際の空母であるレキシントンが使われた。そのため、この映画では航空母艦赤城の艦橋が右舷にある(実際の赤城の艦橋は左舷側にある。『パールハーバー』(2001年)ではレキシントンの飛行甲板の艦首側から艦尾側にかけて、つまり通常とは逆方向に強引に発艦し、日本空母独特の左舷艦橋を再現した)。攻撃隊発進を俯瞰でとらえたシーンでは左舷にあるアングルドデッキが確認でき、撮影に使われている艦が戦後型に改装された米海軍空母であることがわかる。また、両国の戦艦である、長門とネヴァダはほぼ実物大のオープンセットが組まれ、迫力ある画づくりに成功している。当時、長門や赤城のセットが作られた福岡県芦屋町の撮影村は一般にも公開され、後年の『男たちの大和』ロケセットと同じように連日多くの観光客でにぎわったという。劇中で日本海軍の下士官が部下のパイロット達に対して艦影の描かれたパネルを見せ、その艦種を言い当てさせる訓練をする場面がある。この中で、あるパネルを見せた時に部下が即座に「エンタープライズ」と答えるが、下士官は「ばかもん、赤城だ、自分たちの旗艦だぞ」と叱るシーンがある。この時パネルに描かれていたシルエットは実際の空母赤城とはまったく異なる艦形で、実は撮影で赤城として使用された米国海軍の空母レキシントンのシルエットが描かれていた。そのため、作中では「間違えている」というシーンであるが実際においては正しい、というシーンとなっている。
出典:wikipedia
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