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大同電力

大同電力株式会社(だいどうでんりょく、英文社名:"Great Consolidated Electric Power Company, Limited.")は、大正から昭和初期にかけて存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社、通称「五大電力」の一つ。大阪送電株式会社(おおさかそうでん)の社名で1919年11月に設立され、1921年2月に木曽電気興業・日本水力の2社を合併して大同電力に改称。木曽川などの河川において電源開発(水力開発)を手がけ、関西から中部、関東にかけて所在する電気事業者への電力供給を事業の中心とする卸売り電力会社として発展した。1939年4月に解散。保有していた発電所はその後の再編を経て関西電力・中部電力・北陸電力の3社に継承された。また傍系会社の系譜を引く特殊鋼メーカーの大同特殊鋼に「大同」の社名を残している。大同電力株式会社は、1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した、電気事業者への電力供給、すなわち電力の卸売りを主体とする電力会社である。大正末期から昭和戦前期にかけて大きな勢力を持っていた電力会社5社、いわゆる「五大電力」の一つに数えられる。1919年11月、「大阪送電株式会社」の社名で設立されたのが大同電力の始まりである。設立の前年にあたる1918年(大正7年)9月に中部地方を流れる木曽川の水力開発などを目的として設立されていた木曽電気興業(旧社名木曽電気製鉄)が主たる親会社で、同社が開発する水力発電所の発生電力を関西地方へと送電することを起業の目的とした。これら大阪送電・木曽電気興業の2社に加えて、北陸地方などにおける水力開発を計画し、関西方面への送電を構想するという点で起業目的が共通する日本水力の計3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社は発足した。初代社長は大阪送電・木曽電気興業両社の社長を兼ねていた福澤桃介である。発足後の大同電力は、木曽川において積極的な水力開発を手がけることにより規模を拡大していった。木曽川に建設された発電所のうち、1924年(大正13年)に完成したダム式の大井発電所は当時国内で最大の発電出力を擁した。電力の供給先はおおむね電気事業者であり、小売りの比率が1割程度あったため専業とは言えないが、電力の卸売りを事業の主体とした。大同電力が発足した第一次世界大戦後から大正末期にかけて、日本では5つの電力会社が業界内で巨大化していた。この5社がいわゆる「五大電力」で、大同の他は、関東の東京電灯、中京と九州北部の東邦電力、関西の宇治川電気、同じ卸売り会社の日本電力を指す。五大電力のうち特に宇治川電気・東京電灯とはしばしば対立し、初期には攻勢を仕掛けて大量の電力供給契約を獲得し、後期には一転攻勢を仕掛けられて電力料金の引き下げを要求されるなど、「電力戦」と呼ばれる紛争を生じた。業績について見ると、1920年代を通じて上昇し同年代後半にピークを迎えるが、1930年代に入ると下降し一時無配に転落。30年代中盤からは持ち直したが、このころより電力業界の再編を目指す「電力国家管理」政策の検討が本格化する。同政策は1938年(昭和13年)の電力管理法公布、そして翌1939年(昭和14年)4月の国策会社日本発送電設立という形で実行に移された。同社設立の過程で大同電力は電力設備の出資を命ぜられ、他の設備も強制買収の対象とされた上に、政府当局から残余の資産・負債についても日本発送電へ移管することを慫慂された。このことから大同電力は全社を挙げて日本発送電へと合流する道を選び、資産・負債を同社へと継承させて1939年4月に解散した。最後の社長(2代目社長)であった増田次郎は、解散により日本発送電の初代総裁に転じている。大同電力から日本発送電に継承された発電所は、第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)に実施された「電力再編成」に際して、新発足した電力会社9社のうち関西電力・中部電力・北陸電力の3社にそれぞれ引き継がれた。中でも大半を占めていた木曽川の発電所はすべて関西電力の帰属となっている。傘下に抱える関係会社には、北陸から関西への送電線を建設した昭和電力などがあった。傍系会社のうち親会社と同じく「大同」の社名を冠する企業は3社あり、そのうち大同電力の兼業部門を起源とする大同製鋼(旧・大同電気製鋼所)は、特殊鋼メーカーとして戦後発展した大同特殊鋼の前身にあたる。以下、沿革のうち大同電力発足に至る経緯(おおむね1921年まで)について記述する。大同電力の前身、大阪送電株式会社の基盤となった「大阪送電計画」は、愛知県名古屋市の電気事業者名古屋電灯が立てた構想に端を発する。後に大同電力初代社長となる福澤桃介が当時社長(1914年就任)を務めていた名古屋電灯では、明治末期に木曽川の水利権を確保していたが、福澤の社長就任後これに修正を加えて木曽川全体の開発計画を策定し、1915年(大正4年)9月にその旨を所管官庁の逓信省へ申請した。この時点では水力発電所を3か所設置する計画であったが、同年10月使用水量増加を追加申請、翌1916年(大正5年)6月には河水引用地点を見直し、最終的に4か所の発電所で計7万300キロワット (kW) を発電する計画とした。7万kWに及ぶ水力開発計画に対し、現実に名古屋電灯が持つ需要は、1916年末のものを見ても電灯・電力合計1万8千kW余りと計画に対して過少であった。このことから、木曽川開発で生ずる電力の余力は、当初から大阪方面へと送電することが想定されていた。名古屋電灯は1915年9月、大阪市と周辺町村を供給区域とする電力供給事業を申請。1916年6月の計画修正時には堺市や兵庫県尼崎市も供給区域に追加申請した。申請の一方で大阪方面における供給先確保に向け手始めに大口電力需要家との供給契約締結に努めたが、この方針には大阪の既存電力会社宇治川電気が反発したため、妥協して同社や大阪電灯との供給契約締結を目指した。宇治川電気・大阪電灯とは1916年5月から9月にかけて交渉を重ねたが、供給料金について名古屋電灯は1キロワット時 (kWh) あたり1銭2厘、大阪側2社は9厘以下を主張して折り合いがつかず、契約締結には至らずに終わった。1917年(大正6年)3月、前年に水利権を申請していた4地点のうち賤母水力(しずも-、発電所出力1万2,600kW)の1地点のみ許可が下りた。当時逓信省では、水利権の転売を防止するため起業の確実性を確認した上で許可を出す方針を採っていたことから、4地点のうち名古屋方面への需要に見合う賤母水力のみの許可となり、具体的な供給先を掲示できなかった残り3地点は見送られたのである。ここに至り名古屋電灯は大阪送電計画を一時棚上げし、電気で製鉄業をなすという「電気製鉄」の計画を立ち上げて、木曽川開発による電力を製鉄業に振り向けることとなった。そして翌1918年(大正7年)9月8日、水力開発事業と電気製鉄事業を名古屋電灯から分離し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した。ただし、電気製鉄事業は操業開始後まもなく頓挫している(電気製鉄事業の経緯は木曽電気製鉄#電気製鉄事業の展開に詳しい)。第一次世界大戦勃発後、大戦景気を背景として電力需要が急増した結果、名古屋電灯では一時供給力不足に陥っていた。1918年には電力だけでも2万2千kWの供給を行っていたのに対し、3万4千kWに達する新規の電力需要が見込まれていたのである。しかし発電所の新増設が進んだ上、1919年(大正8年)7月に木曽電気製鉄(木曽電気興業)の手により賤母発電所が運転を開始すると、名古屋方面での電力不足は緩和に向った。このような大戦景気による需要増を原因とする電力不足は名古屋のみならず全国的な現象であったが、中でも関西地方では著しい電力不足に見舞われた。例えば大阪では電力不足からしばしば送電停止措置が採られていたのにもかかわらず、供給の予約が6万kWを越えていた。京都方面でも新規供給の停止措置を行っており、このために大阪・京都では電力使用権の転売が横行した。関西地方における深刻な電力不足を受けて、名古屋電灯から水力開発事業を継承した木曽電気製鉄(木曽電気興業)は棚上げされていた大阪送電計画に再び着目し、実現に向けて動き出すこととなった。木曽電気製鉄には当時、許可済みの水利権が約5万kW分あるほかにも、水利権申請中の発電所が10万kW分存在していたが、名古屋方面ではそれらの電力の受け皿たり得ず、他地域への送電が必須であるという事情もあった。関西ではこの時、京阪電気鉄道が電力供給を求めており、同社取締役の林謙吉郎と木曽電気興業の社長福澤桃介が旧知の間柄であったという関係から、両社の間で提携話が浮上する。1919年1月に京阪の常務太田光熈と交渉が持たれ、最終的に京阪方面への電力供給を行う新会社設立の合意へと漕ぎ着けた。この時、京阪以外にも出資する電鉄会社がある方が有利だと判断し太田は複数社の重役に声をかけたが、大阪送電計画の実現に懐疑的で、中には福澤と組むのは危険だという者もあり、まったく賛同されなかったという。木曽電気興業・京阪電気鉄道の関係者が発起人となって新会社の設立準備を進め、1919年8月に電気事業の経営許可を逓信省に申請、10月にその許可を取得した。そして同年11月8日、東京市において創立総会が開催され、新会社「大阪送電株式会社」が発足した。資本金は2,000万円で、出資比率は木曽電気興業51.2%、京阪電気鉄道48.8%。取締役には木曽電気興業から福澤桃介・下出民義・増田次郎・村瀬末一、京阪電気鉄道から太田光熈・林謙吉郎・岡崎邦輔、計7名が就任し、社長に福澤、常務に下出・増田・太田・林の4名が選任された。本社は東京市麹町区八重洲町1丁目で、大阪市と名古屋市にそれぞれ支店を構えた。設立にあたって立案された大阪送電会社の事業計画によれば、木曽電気興業が水利権出願中の木曽川筋笠置発電所(岐阜県)から最大1万7,000kW、錦津発電所(同上)から最大1万8,000kWの電力供給を受け、両発電所から大阪・京都へと新設送電線により送電、さらに渇水時の補給用として大阪府下に出力1万kWの火力発電所を建設し、大阪市・京都市および周辺町村へと電力を供給する、という構想であった。これらの第一期計画に続いて、白山水力・矢作水力・久原鉱業が計画する水力発電所から10万kWの供給を受け京阪方面への供給力を増強する、という第二期計画も予定された。供給先は京阪電気鉄道に加えて市営事業を経営する京都市および大阪市も確保でき、京阪へ2万kW、京都・大阪両市へ各1万kWを供給することとなった。大阪送電会社の設立と時を同じくして、大規模水力開発と電力不足に悩む関西方面への送電を事業目的とする新会社が2社設立されていた。一つは、宇治川電気の関係者が中心となって1919年12月に設立した日本電力で、東海・北陸地方で水力開発を行い10万kWを関西地方へと送電する計画であった。もう一つは同年10月に設立された日本水力で、山本条太郎らと大阪電灯・京都電灯の関係者が中心となり起業し、関係者から北陸・東海・関西地方の水利権を集めて10万kWを発電、それを大阪電灯・京都電灯へと供給する計画であった。1919年後半に相次いで関西への送電を目指す新会社が設立されたものの、翌1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生してしまう。大同電力の説明によれば、この財界変動により生じた金融、産業界、電力需要その他の環境が、大阪送電会社と日本水力がそれぞれ別個に事業を行うには困難な状勢となったことから、自然と合同の機運が生じた、という。実際、日本水力側から見ると、恐慌の影響で資本金の払い込みや資金の借り入れが不可能となり資金が枯渇していた折であり、その打開策としての合併であった。また日本水力は販路に大阪電灯・京都電灯を確保していたが、大阪送電・木曽電気興業は十分な販路を持たない、という事情もあった。合併の議論は岡崎邦輔を仲介者として行われ、大阪送電・木曽電気興業社長の福澤桃介、日本水力社長の山本条太郎との間に3社合併の議論がまとまり、1920年9月に合併の覚書きを交換し、同年10月には合併契約の締結へと進んだ。そして1921年(大正10年)2月25日、大阪送電会社を存続会社とし木曽電気興業・日本水力の2社を吸収合併する形をとって合併が成立、大同電力株式会社が発足した。資本金は大阪送電会社の2,000万円に木曽電気興業の1,860万円、日本水力の5,000万円を引き継ぎ1,140万円の増資を加えて1億円とされ、形式的には対等合併ながら実質的には資産内容が優れる福澤系2社による日本水力の吸収であった。新社名は3社の「大同団結」により発足したことが由来で、福澤の考案による。社長には福澤桃介が留任、副社長には日本水力から宮崎敬介が入り、常務取締役には増田次郎・太田光熈と木曽電気興業から三根正亮、日本水力から近藤茂・関口寿の計5名が選ばれた。本社は東京市麹町区八重洲町1丁目に置き、大阪市・名古屋市にそれぞれ支店を構えたが、本社についてはまもなく麹町区永楽町1丁目(後の丸ノ内1丁目)の東京海上ビルに移している。大同電力は発足当初、電気事業以外に2つの副業をもった。木曽電気興業より引き継いだ製鉄事業と、日本水力より引き継いだ硫酸アンモニウム(硫安)製造事業である。これらの事業は景気に左右されやすいことから本業の電気事業の収益を確保すべく別会社とする方針が採られ、1921年11月、製鉄事業は大同製鋼株式会社、硫安事業は大同肥料株式会社(後の大同化学工業)へとそれぞれ分離された。電気事業専業となった大同電力は、以降電力設備の建設を進め、1922年7月に関西地方への送電を始めるなど、設備の拡充と供給の拡大を推進した。発足以降の沿革は、以下、建設、供給、業績の推移に分けて記述していく。以下、発足以降の設備投資について記述する。大同電力は1921年2月に発足した当時、木曽川筋に9地点、矢作川筋に1地点の計10地点の水利権を木曽電気興業から継承し、日本水力からも九頭竜川筋に2地点と支流打波川筋に2地点の計4地点を継承、合計14地点に水利権を保有していた。そのうち、大同発足までに完成していた水力発電所は木曽電気興業2か所、日本水力1か所の計3か所で、他に木曽電気興業の発電所1か所が建設中であった。前身各社から引き継いだ水利権のうち、大同電力はまず木曽川開発に注力する方針をとった。木曽川開発にあたり同社は「一河川一会社主義」を標榜、木曽川の水力を余す所なく有効適切に利用開発する、とうたった。具体的には、水量・落差ともに豊富な上流部には水路式発電所を連関的に建設、次いで水量は多いものの落差が少ない中流部にはダム式発電所を設置して尖頭負荷(電力ピーク)の増大に対応、最下流には逆調整用発電所を構えて河水を自然流量に戻し、一方で最上流部(支流王滝川)には貯水池を起こして全発電所の水量調整に当てる、という開発計画である。これらの方針に基づいて、大同電力は発足後ただちに木曽川開発に着手し、大正末期までに水力発電所5か所(須原・桃山・読書・大井・落合)を建設した。同時に送電線の延伸を進め、大阪では火力発電所4か所を新設あるいは買収している。1917年(大正6年)に水利権許可を得ていた木曽川の「大桑第一水力」は、水路が長すぎることから実際の開発にあたっては2地点に分割することになり、下流側は「須原水力」となった。同地点は須原発電所として大同発足直後ただちに着工され、1922年(大正11年)7月に竣工した。須原発電所は長野県西筑摩郡大桑村に設置され、水路式発電所で出力は9,200kW。エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス・エレクトリック製発電機各2台と日立製作所製変圧器を設置した。竣工とともに大桑発電所まで77キロボルト (kV) 送電線が完成、大桑発電所より名古屋市北区八龍町の六郷変電所へ至る既設送電線(同年6月全線竣工)と接続し、名古屋方面への送電を開始する。さらに翌1923年(大正12年)12月、大阪送電幹線が完成すると須原変電所を通じ154kVに昇圧した上で大阪方面へも送電するようになった。1932年(昭和7年)7月、洪水被害を受けて取水堰堤が一部崩壊した。このため堰堤を廃止して桃山発電所の放水をそのまま取水するように改造している。桃山発電所は「大桑第一水力」の一部を計画変更して開発された。すなわち、大桑第一水力を分割して生じた2地点のうち上流側にあたる「駒ヶ根水力」を、途中に景勝地寝覚の床があることからさらに分割して生じた2地点のうちの一つである(もう一つの地点は寝覚発電所となった)。1922年8月に着工、翌1923年12月に完成した。西筑摩郡上松町にあり、エッシャーウイス製水車2台とウェスティングハウス製の発電機2台および変圧器を設置して2万3,100kWの出力で発電する設計であった。桃山では、東京方面への送電を見越して、周波数を50・60ヘルツ双方に対応するよう水車・発電機が設計された。発電所に先立って1923年11月、須原発電所までの77kV送電線が竣工。翌1924年(大正13年)1月には東筑摩郡広丘村郷原(現・塩尻市広丘郷原)に新設された塩尻変電所までの77kV送電線も完成し、東京電灯への電力供給を開始している。読書(よみかき)は1917年に水利権の許可が下りていた地点の一つである。読書発電所は1922年3月に着工され、翌1923年12月に竣工した。西筑摩郡読書村(現・南木曽町読書)にあり、木曽川本流のみならず支流の阿寺川・柿其川からも取水可能な設計である。エッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス製発電機各3台にゼネラル・エレクトリック製変圧器が設置された。出力は4万700kW。東京電灯猪苗代第一発電所(出力3万7,500kW)を上回る、当時日本最大の発電所となった。送電線は後述の大阪送電線が接続した。木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月、「大井水力」の水利権許可が下りた。当初は水路式発電所の計画であったが、落差が少ないためダム式発電所とするのが有利との考えから、ダム式発電所として建設が始められた。この大井発電所は日本で初めての本格的ダム式発電所であったため、アメリカ合衆国へ技師を派遣、逆にアメリカから技師を招くなど技術導入に取り組んだ。1922年7月に着工、2年後の1924年12月に竣工した。大井発電所は岐阜県恵那郡蛭川村(現・恵那市蛭川)に位置し、製水車、ゼネラル・エレクトリック製発電機各4台、ウェスティングハウス製変圧器を設置。出力は4万2,900kWで、前年竣工の読書発電所を抜いて日本最大の発電所となった。読書発電所と同様、送電線は大阪送電線が接続した。大井水力と同様に1920年3月「落合水力」についても水利権許可が下りたが、建設に先立ち計画が変更され、上流部を「坂下水力」として分離した上で水路式からダム式発電所に衣替えした。この落合発電所は恵那郡落合村(現・中津川市落合)に所在。1925年(大正14年)4月に工事許可を得て、1926年(大正15年)12月に竣工した。ボービング (Boving) 製水車、ゼネラル・エレクトリック製発電機各2台を設置し、出力は1万4,700kWである。大井発電所に比べると小規模で、出力は3分の1、ダムの有効貯水量は7分の1に留まる。発電所とともに須原・六郷間の77kV送電線への連絡線も建設され、発生電力は名古屋方面へと送電された。なお落合水力の計画変更によって生じた「坂下水力」は、発電所の着工に至らず計画のままで終わっている。発電所の建設にあわせて送電線網も拡大した。前身木曽電気興業の時代から建設されていたのは名古屋方面とを結ぶ送電線群で、名古屋側では六郷変電所と瑞穂変電所(名古屋市瑞穂区石田町)を終端として賤母・六郷間送電線、須原・六郷間送電線、串原・瑞穂間送電線が順次整備された。また木曽川系統の賤母・六郷間および須原・六郷間送電線と矢作川系統の串原・瑞穂間送電線を名古屋近郊で連絡すべく1923年8月に勝川開閉所(東春日井郡勝川町、現・春日井市)と天白開閉所(愛知郡日進村、現・日進市)を結ぶ連絡線も建設されている。これらの一方で、大阪送電会社(大同電力)の企業目的である大阪送電計画を実現すべく、「大阪送電線」の建設も急がれた。この大阪送電線は、須原発電所構内の須原変電所を起点とし、途中読書・大井両発電所からの電力を集め、犬山(愛知県)を経て関西本線沿いを進み、大阪市郊外の北河内郡門真町(現・門真市)の大阪変電所を終点とする、亘長238キロメートル (km) の送電線である。日本水力がアメリカへと発注済であった鉄塔や碍子などの建設資材を転用し、大同発足翌年の1922年7月に一部が完成して大阪方面への送電を開始した。この時点では清洲開閉所(愛知県西春日井郡春日村、現・清須市)から大阪変電所までの区間のみ完成していたことから、名古屋方面への送電線に接続する勝川開閉所から清洲開閉所まで連絡線を建設、大阪変電所へと77kVの電圧で送電した。全面完成は1923年12月のことで、このとき須原変電所から清洲開閉所までの区間が完成、154kVによる高圧送電を始めた。大阪送電線の須原・清洲間竣工によって勝川・清洲間連絡線は使用されなくなったが、1926年3月になって大阪送電線の途中に犬山変電所(丹羽郡羽黒村、現・犬山市)が新設され、さらに神屋開閉所(東春日井郡坂下町、現・春日井市)との間に連絡線も整備されて再度賤母・六郷間および須原・六郷間送電線と大阪送電線が繋がった。大阪送電計画に関連し、送電先の大阪には渇水時の補給用に火力発電所が新設された。これが毛馬発電所で、1万2,500kWの出力をもって1922年10月に完成した。淀川沿いの大阪市友渕町に位置し、ウェスティングハウス製の蒸気タービン・発電機各1台をそろえる。続いて1923年10月、大阪電灯から火力発電所3か所を買収した。安治川東発電所・春日出第一発電所・春日出第二発電所であり、いずれも大阪市内の安治川沿いに立地する。大阪電灯からの発電所買収は、同社の市営化(大阪市による買収)に関連している。市営化交渉は1923年6月契約締結に至り、買収範囲は大阪市内と西成郡・東成郡における事業および関連財産、買収発電所は安治川西発電所(出力1万5,000kW)1か所と決定された。そして市営化の対象から外れた残余財産は大同電力が大阪電灯との間に買収契約を締結し、1923年10月1日付でそれらを継承した。大同が継承したのは3つの火力発電所以外は堺市周辺における配電設備などで、評価額は3,000万円。うち408万円を現金で支払い、1,296万円は年利率7.5%の自社社債、残りの1,296万円は自社株式(50円払い込み)をそれぞれ交付する条件であった。株式の交付は、大阪電灯が春日出第二発電所を中心とする資産を出資して新会社大阪電気株式会社を設立し、同社を大同電力が合併する、という方法を採っている。大同電力による自社発電所の建設は大正末期の落合発電所の完成により一段落となり、その後しばらく中断された。この間は傍系会社を相次いで設立し、これらを通じて電源開発を展開して購入電力を増していった。傍系会社のうち資本金が4 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5,000万円と大規模であったのは昭和電力と天竜川電力の2社である。昭和電力は1926年(昭和元年)12月の設立。1929年(昭和4年)6月に富山県から大阪府に至る亘長296kmの154kV送電線「北陸送電幹線」を建設し、大同電力傍系の神岡水電から3万kWを受電して八尾変電所(大阪府中河内郡志紀村、現・八尾市)において大同電力への電力供給を始めた。続いて庄川に出力4万7,500kWの祖山発電所(富山県)を新設し、大同電力への供給を増加した。なお大同電力が福井県の九頭竜川水系に有していた水利権は未開発のまま昭和電力に委譲されたので、北陸地方における自社発電所は既設の西勝原発電所のみで増加していない。一方天竜川電力は1926年3月に発足した。同社は天竜川に出力2万4,100kWの南向発電所(長野県)を1929年1月に建設。大同電力は同年2月南向発電所に自社送電線の「東京送電線」(送電電圧154kV)を接続して、その発生電力を受電した。東京送電線は南向から東京電灯釜無川変電所に接続する日野春(山梨県)までの区間が先行して完成し、翌1930年(昭和5年)8月に自社の東京変電所(神奈川県横浜市)まで延長して亘長225kmが全面完成している。なお1929年12月、東京送電線の途中松島開閉所(長野県上伊那郡中箕輪村、現・箕輪町)から塩尻変電所までの連絡線が竣工し、天竜川と木曽川の系統が連絡された。自社送電線は東京送電線のほかにも、犬山変電所から昭和電力八尾変電所に隣接する自社の八尾変電所までを結ぶ「大阪第二送電線」(送電電圧154kV)が、1930年9月に既設大阪送電線の増強用として建設された。大同電力は、落合発電所建設以来自社発電所の建設を中断していたが、後述の会社更生計画の一端として1933年(昭和8年)に自社開発の再開に踏み切り、1935年(昭和10年)に9年ぶりの自社発電所を完成させた。開発の対象となったのは木曽川・矢作川双方である。木曽川について見ると、前述の通り1921年2月の大同電力発足時には9地点、すなわち大桑第一・大桑第二・読書・賤母・落合・大井・笠置・錦津・今渡の各地点における水利権が許可済みであったが、1925年4月に支流王滝川・西野川に計3地点(王滝川第一・王滝川第二・西野川)の水利権を追加で獲得した。開発にあたっては水利地点の分割・改称が頻繁に行われ、1932年には王滝川における貯水池(三浦貯水池)の建設も許可されており、許可当初とは変更点が多々ある。自社電源開発再開の後、木曽川では1939年(昭和14年)までに笠置発電所・寝覚発電所および傍系会社の手による今渡発電所が完成し、三浦貯水池も着工された。一方矢作川では最終的に、中流部に3地点、支流段戸川に1地点、計4地点の水利権を保有し、それぞれ水力発電所を運転した。うち串原水力(串原発電所)は前述の通り木曽電気興業からの引き継ぎであるが、残りの時瀬・笹戸・旭の各地点は傍系会社尾三電力の合併に伴い1928年(昭和3年)に継承した地点である。尾三電力からの3地点は、同社によって時瀬・旭両発電所が建設済みで、笹戸水力のみ未開発のままであったが、自社電源開発再開後に笹戸発電所が建設された。また、1938年(昭和13年)5月の千早川水力電気の合併により、出力100kW前後の小水力発電所4か所を継承した。木曽川開発再開の第一号となったのは笠置発電所である。「笠置水力」として木曽電気興業時代の1920年(大正9年)3月に水利権を取得していた地点にあたる。当初は水路式発電所として許可を得ていたが、上流にダム式の大井発電所が建設された関係で、笠置発電所もダム式に模様替えした。所在地は岐阜県加茂郡飯地村(現・恵那市飯地町)。1934年(昭和9年)11月に着工、1936年(昭和11年)11月に完成した。出力は3万5,500kWであったが、完成翌年に使用水量の増加により4万500kWに増強されている。水車・発電機各3台と変圧器はすべて日立製作所製のものを設置。発生電力は発電所まで延伸された大阪第二送電線により関西方面へ送電されたため、笠置発電所の新設は同送電線の有効利用にも繋がった。名古屋電灯時代の1917年(大正6年)に水利権許可を受けた「大桑第一水力」は、実際の開発にあたっては3分割され、これまで須原、桃山と開発が進んできたが、残る寝覚水力だけは開発が延期されていた。同地点で1936年9月に着工、1938年(昭和13年)9月に完成したのが寝覚発電所である。所在地は長野県西筑摩郡上松町。元々は1万kW程度の発電所の予定であったが、木曽川のほか王滝川と小川からも取水するように設計を改め、出力は3万2,600kWとなった。ここでも使用水量増加のため、1939年3月に出力が3万5,000kWに増強されている。基本的に東京方面への送電にあてるが、余剰分を関西方面へも送電し得るようにするため、設備は50ヘルツ・60ヘルツ双方の周波数に対応する設計とされた。水車・発電機各2台と変圧器はすべて日立製作所製である。また寝覚発電所の建設に伴い、須原変電所より寝覚発電所を経て東京送電線の松島開閉所へ至る154kV送電線が1937年に完成し、木曽川筋と東京方面が直接154kV送電線で繋がった。渇水期の水力発電所は水量の減少から発電力も減退するため、これを補うために火力発電設備を必要とした。しかし上流部に貯水池を設けて豊水期に余水などを貯留して、渇水時にこれを適宜放水できれば、下流発電所では発電力の減退を免れ得る。こうした考えから、木曽川支流王滝川に計画されたのが三浦貯水池(三浦ダム)である。場所は長野県西筑摩郡王滝村で、御嶽山の西南麓に位置する。湛水面積2.79平方キロメートル、有効貯水量5,574万9千立方メートルを擁し、渇水期に貯水池から放水することで下流の既設発電所では合計5万5,000kWの発電力増加が見込まれた。1935年10月に着工。しかし大同電力時代には完成に至らず、日本発送電に引き継がれて1943年(昭和18年)6月に竣工した。木曽川最下流の「今渡水力」は1920年3月に許可を受けた地点の一つであり、ここも水路式発電所の計画であったが、上流地点との関係上ダム式に変更の上2地点に分割された。この地点の開発にあたって付加されたものが「逆調整池」の機能である。逆調整池がない場合、ダム式発電所で河水を発電に用いると、発電量に応じた放水となってしまう。そのためダム式の大井発電所が完成すると、木曽川下流域にある用水組合が取水に支障を来たすと主張し、大同電力との間に紛議を起こしてた。大同はこの対策として、自然の流水に還流して下流へと放流すべく逆調整池発電所の建設に踏み切り、木曽川・飛騨川合流点の上流側への設置を計画。同じころ飛騨川を開発していた東邦電力でも木曽川合流点の上流側での逆調整池式発電所を計画しており、両社の協議の結果2つの計画を合同して、合流点直下にダムを建設して逆調整池式発電所たる今渡発電所を建設することになった。大同電力からは「今渡水力」を2分割したうちの下流側「今渡第2水力」の水利権が提供された。1935年7月、開発主体の愛岐水力株式会社が発足。今渡発電所は1936年6月同社によって着工され、1939年3月に竣工した。前述の通り矢作川の発電所は串原発電所を除き傍系会社尾三電力株式会社(びさんでんりょく)に関係している。尾三電力というのは、元々矢作川開発を行うべく「矢作川水電」の名で発起されていた会社である。設立前に大同電力関係者が参加して尾三電力に改称し、大同の傍系会社として1921年(大正10年)7月30日に資本金500万円で設立された。その後時瀬・旭両発電所を建設、発生電力をすべて大同電力への供給へ当てていたところ、別会社とする必要性がなくなったとして1928年9月末をもって大同へ吸収された。尾三電力関連の発電所を纏めると以下の通りになる。所在地はすべて愛知県東加茂郡旭村(現・豊田市)である。大同電力が保有していたが開発に至らず未完成のまま1939年の会社解散を迎えた水利権許可地点は、三浦貯水池を除くと以下の7地点である。未開発地点の一部は大同解散の後、それを継承した日本発送電や同社の後身関西電力(1951年発足)の手により発電所が建設された。該当するものは兼山・常盤・御岳と丸山(二股を吸収)の4地点である。以下、大同電力が所有した主要電力設備を一覧表として纏める。大同電力の発電所のうち水力発電所は下表の通りである。発電所名、運転開始年月、所在地、取水河川、出力をそれぞれ記した。自社で建設したものが大部分であるが、合併により木曽電気興業(旧・木曽電気製鉄)・日本水力(旧・北陸電化)・尾三電力・和泉川水力電気より継承したものもある。1939年の解散後はすべて日本発送電へと継承され、1951年(昭和26年)の「電力再編成」に際しては関西電力・中部電力・北陸電力の3社へと分割して引き継がれている。補遺大同電力の発電所のうち火力発電所は下表の通りである。発電所名、運転開始年月、所在地、出力をそれぞれ記した。4か所のうち自社建設は1か所のみで、残りは大阪電灯からの継承である。解散後はすべて日本発送電へと継承されたが、2か所はその後廃止され、「電力再編成」により関西電力に帰属した2か所も追って廃止されている。補遺以下、大同電力の供給実績について記述する。はじめに、大同電力解散直前の1939年(昭和14年)4月1日時点における事業者別の電力供給kW数および電灯取付個数を以下に記し、供給の概要として示すこととする。1939年4月1日時点電力・電灯供給先一覧このように末期の時点では、電力供給について見ると総供給電力52万kW余りのうち、70%を京阪(関西)方面へ、16%を東京(関東)方面へ、7%を北陸方面へ、残りを名古屋方面および木曽方面へとそれぞれ振り向けていた。供給先の大部分は電気事業者であり、一般電力供給(直接供給とも、一般需要家への小売りを指す)は全体の14%を占めるに過ぎない。一般電灯供給も比率が小さく、kWhベースの供給電力量で見ると、1938年度では全供給量に対して電灯供給量が占める割合は0.2%である。以上のように大同電力は、電気事業者への供給(卸売り)を主体に若干の小売りを手がける電力卸売り会社であった、といえる。上記の供給先の中で、3万kW以上を供給する事業者は、五大電力のうち宇治川電気・東京電灯・東邦電力の3社に市営事業を経営する大阪市を加えた計4事業者である。これらの「四大卸売先」への供給は、1929年(昭和4年)上期末(5月末)の時点にさかのぼると総供給電力31万kW余りのうち7割以上を占めていた。大同電力発足当初の1921年(大正10年)上期の時点にさかのぼると、木曽電気興業から引き継いだ賤母・串原両発電所(出力計1万8,600kW)より名古屋・木曽方面に、日本水力から引き継いだ西勝原発電所(出力7,200kW)より北陸方面にそれぞれ電力を供給しているに過ぎなかった。しかし1922年(大正11年)に京阪、1924年(大正13年)に東京方面への送電を始開始するなど相次いで需要家を獲得し、毎年4万kW以上の供給を積み増して1926年(大正15年)下期末の電力供給は約24万kWに達した。大同電力が武器としたのは低い供給コストであった。発足当初からの相次ぐ設備投資により、1925年の発電所出力は水力15万4,800kW、火力10万500kW、合計25万5,300kWに及んでおり、短期間のうちに東京電灯に次ぐ発電力を持つ電力会社へと発展していた。これらの大容量発電所をもってする大量発電と大量送電は、大同電力の生産性を既存の企業よりも高いものとし、1kWhあたり1銭強という低コストを可能にさせた。主な販売目標とされた京阪方面においては、電力不足に加えて第一次世界大戦以来の石炭価格高騰で火力発電のコストが高騰していたことから、これも大同電力には追い風となった。如上の経緯をたどって拡大した1920年代の電力供給のうち、四大卸売先への供給動向について以下に詳述していく。四大卸売先のうち最初の供給先は名古屋方面の東邦電力である。この東邦電力というのは、大同の前身たる木曽電気製鉄(木曽電気興業)の母体にあたる名古屋電灯が、数度の再編を経て姿を変えたものである。すなわち、名古屋電灯が1921年10月に奈良県の関西水力電気と合併して関西電気となり、さらに九州地方の九州電灯鉄道を統合した上で、1922年6月に社名を変更して生じた電力会社であった。社長は名古屋電灯時代から福澤桃介で、副社長に下出民義が就いていたが、再編の途中1921年12月に辞任、後任社長は九州電灯鉄道から伊丹弥太郎が入り、同社常務取締役の松永安左エ門が関西電気(東邦電力)副社長に就任した。大同電力と東邦電力の供給関係は木曽電気製鉄設立時に遡る。このとき木曽電気製鉄は名古屋電灯との間に、優先的に電力を供給するという契約を締結していた。この契約は大同電力発足後も引き継がれ、大同電力の工事進捗に伴い名古屋電灯(東邦電力)への供給は順次増加し、最大3万3,000kWに達した。だが1924年2月、新たな供給契約が締結され、東邦電力への供給は2万8,000kW(料金は1kWhあたり2銭)に減量されることとなった。減量の背景には、東邦電力が日本電力との間に別途大量の電力購入契約を締結したことがあった。東邦電力への供給は上記の他にも同社奈良支店に対するものがあり、1923年(大正12年)より1,000kWの供給を開始し、1929年までに8,000kWに増量していた。また大同大井発電所の竣工により、その流量調整が下流にあった東邦八百津発電所の運転に影響を与えることになるため、1925年(大正14年)以降八百津発電所の出力1万800kWすべてを一括して買い取ることとなった。1922年、大阪送電線が部分的に完成し京阪方面への送電が開始された。発足の経緯に記述した通り、前身会社のうち旧大阪送電は京阪電気鉄道・京都市・大阪市の3事業者、旧日本水力は大阪電灯と京都電灯の2事業者を供給先として確保していたが、このうち最初の供給先は大阪電灯と京阪電気鉄道の2つで、同年7月より大阪電灯へ7,000kW、京阪電気鉄道へ3,000kWの電力供給が始まった。京都電灯への供給は翌1923年(大正12年)3月に開始され、大阪市への供給も同年10月に始まったが、残る京都市への供給は実現していない。初期の京阪方面における供給先のうち、大阪電灯とは旧日本水力が設立直後(1919年11月)に電力供給契約を締結しており、これを継承した大同電力が1922年より供給を始めた。大阪市が大阪電灯の買収(市営化)へと動き出すと、大阪電灯との間に他の事業者へと事業を譲渡する場合には供給契約も継承させる、という覚書きを交わしていたことから、大同電力は自社の利害を主張できる立場にあった。大阪市はこの供給契約を継承せず大同以外からも電力を購入する方針をとる構えを見せたが、最終的には契約の継承を認めた。大阪電灯と大同電力間の供給関係は大阪市にも引き継がれることとなったため、以下の内容からなる向こう5年間にわたる長期契約が改めて1923年6月に締結された。なお、この契約は大阪電灯から大同電力に継承されることを前提に、大阪市と大阪電灯の間に結ばれている。一方、大阪市と旧大阪送電の供給契約は1920年3月に締結された。1923年10月から5,000kWを供給し、その後さらに5,000kWを増量する契約で、料金などの条件は1923年に締結された上記6万kWの契約と同様である。大同電力から大阪市への電力供給は契約どおり1923年10月に開始された。実際の供給実績は契約より2割減で、当初の2万kWから順次増加して1928年(昭和3年)4月に5万kWとなり、同年12月以降は5万4,000kWとなった。大同電力最大の供給先は宇治川電気であった。同社との関係は、大阪送電線完成直後の1924年2月に電力供給契約を締結したことに始まる。契約締結に先立つ1922年9月、大同電力は一般供給の拡大を目的に、大阪府の中部から南部にかけての地域を供給区域とする一般電力供給権を獲得した(#一般供給の推移参照)。このうち大阪市・堺市とその周辺の郡部は、従来から宇治川電気の電力供給区域であり、両社の供給区域が重なることとなった。これら重複供給権の設定を宇治川電気側は事業経営上の脅威になると捉え、競合回避と引き換えに大同から大量の電力供給を受ける道を選択した。1924年に締結された電力供給契約は、以下の内容からなる、10年を期限とする長期契約であった。この電力供給契約に附帯して、京阪神地方において大同電力は一部事業者向けを除いて供給を自制する、という市場分割協定が両社の間で交わされた。供給は1924年4月に開始。実際の供給は契約高より若干縮小されて1万9,100kWの供給で始まり、3年目までこれを毎年増量、4年目の1927年(昭和2年)からは1万5,000kWの増量となったものの翌年から1割減の1万3,500kWに抑えられたため、1929年時点での供給電力は9万9,300kWである。関西方面への進出の一方で大同電力は東京方面での一般供給を計画し、供給区域の設定と送電設備の建設などにつき許可を申請、1925年5月に東京市と横浜市などを電力供給区域に追加し、東京送電線および東京変電所を新設する許可を得た。大同電力の一般供給進出は東京方面における既存事業者東京電灯にとっては脅威であったため、1924年6月大同との間に市場分割協定を結び、競争を回避し互いの事業地域に侵入しないことを約した。この協定より前の1923年6月に、東京電灯は大同との間に2万7,000kWの電力供給契約を締結し、塩尻変電所を通じて翌1924年1月より受電を始めていたが、協定締結後の1925年4月に5万kWに及ぶ電力供給契約を改めて締結している。料金は責任負荷率70%でkWあたり年間100円(1kWhあたり1銭6厘3毛余り)であった。実際の供給は1万2,000kWより始まり、逐次増加して1926年(大正15年)12月より5万kWの供給となった。大同電力や日本電力などの事業者によって1920年代前半に各地で大規模水力開発が展開されたことから、日本国内における水力発電の発電力は1921年から1926年の5年間に年平均18%の増加率を示していた。昭和に入ると、1931年(昭和6年)までの5年間の増加率は年平均9%強とペースはやや鈍るが、依然として増加傾向にあった。一方電力需要は、電力不足であった時期は高い増加率を示したが、1924年以降は鈍化する。この発電力と電力需要の増加率の差は大量の余剰電力となり、金融恐慌、世界恐慌を経て1930年・31年には余剰電力量がピークに達した。このような需要低迷による余剰電力の発生を根拠に、小売り各社は卸売り事業者に対して供給料金の値下げを強く主張したため、各地で紛争が生じるようになる。大同電力でも1929年(昭和4年)以降、四大卸売先との料金改訂期を迎えたが、いずれも供給料金の値下げを強いられる結果となった。大同電力の供給電力は1920年代を通じて上昇の一途をたどったものの1920年代後半以降増加のペースは鈍化しており、毎年の増加量は1928年以降2万kWに低落した。1930年代に入ると2万kWを割り込み、1932年(昭和7年)には過去最低の2千kWにまで落ち込んだ。翌年も1万kW以下の増加に留まったが、1934年(昭和9年)は前年比2万kW増と持ち直し、1936年(昭和11年)以降は毎年3万kW以上の増加を示して、1938年(昭和13年)には供給電力が50万kW台を突破している。以上が1930年代における供給の概要であるが、続いて四大卸売先への供給動向について卸売料金をめぐる対立とあわせて詳述する。卸売料金をめぐる対立の第1号は大阪市が相手であった。対立の契機は、供給料金が1926年10月の改訂時に1kWhあたり2銭2厘8毛(責任負荷率65%)に値下げされていたのを、1929年10月の改訂時に大阪市がさらなる値下げを主張したことにある。この交渉は難航したが、逓信大臣と財界有力者が仲裁に入り、1kWhあたり2銭8毛(責任負荷率60%)という条件で妥結した。その後1932年(昭和7年)に3度目の料金改訂期を迎え、契約を全面的に改訂した。料金は1kWhあたり2銭(負荷率60%)を基準とし、実際の使用量によって変動させる方式とした。また将来的に供給電力を最大3万5,000kW増強することになり、1929年以降5万4,000kWから増加していなかった供給電力は1932年から毎年増加、1938年には8万6,000kWとなった。東邦電力との間では、同社名古屋方面に対する2万8,000kWの供給契約と、奈良支店に対する1万kWの供給契約があり、さらに同社八百津発電所の発生電力1万800kWを大同電力が買い取る契約を結んでおり、それらの料金改訂期は1929年11月となっていた。前述の通り名古屋方面に対する供給料金は1kWhあたり2銭で、責任負荷率70%のため換算するとkWあたり年間112円64銭となり、また奈良支店に対する供給料金は同125円77銭であった。一方、八百津発電所からの買い取り料金は年額115万円を支払っていた。料金改訂交渉に際して東邦電力は、kWあたり年間91円への値下げを要求し、その後さらに年間83円(責任負荷率50%、1kWhあたりに換算すると1銭9厘)への引き下げを主張した。30%以上の値下げを求める東邦電力に対し、大同電力側は10%の料金値下げを認めたがこれ以上は譲歩しなかった。このため交渉は難航し、料金改訂期を過ぎても妥結しないばかりか1931年(昭和6年)末に至っても解決しないため、両社より財界有力者の池田成彬と各務鎌吉の2名を仲裁人に選定し、両人の仲裁を待つことになった。仲裁人の裁定は翌1932年2月に出され、1929年11月から1934年(昭和9年)10月までの料金が確定した。これにより大同電力から東邦電力への供給料金は1kWhあたり1銭9厘7毛、責任負荷率60%で換算するとkWあたり年間103円54銭とされ、16%の料金引き下げとなった。一方で東邦電力八百津発電所から大同電力への供給料金も10%引き下げられた。東京電灯とは1924年6月に市場分割協定を結んでいたが、以後徐々に関係が悪化していた。原因は、大同が1929年1月に傍系会社天竜川電力を通じて南向発電所(長野県)を完成させ、東京電灯にさらなる受電を求めたこと、また逆に東京電灯が大同の領域である名古屋方面に侵入して供給権を獲得したことなどであった。両社は対立を収めるため1929年10月に新たな市場分割協定を締結して互いの事業拡張を追認し、加えて、余剰電力に悩む東京電灯から1kWhあたり2厘の料金で大同が電力を買い戻すことになった。こうした状況の中、5万kWの供給契約(1925年締結)についての契約更新期、1929年11月を迎えた。料金交渉は難航し、1年半を経ても合意に至らないため、両社からそれぞれ仲裁人を立てて彼らの裁定を求めることとなった。1931年7月、東京電灯側の池田成彬と大同側の木村清四郎により裁定書が出され、供給料金を16%引き下げて1kWあたり年間84円とすることで決着した。2度目の契約更新期である1934年11月が迫ると、両社の対立はさらに激化した。2年前の1932年5月から交渉が始まっていたが、両社は以下の争点をめぐって対立を続けた。この時大同電力が利用しようと試みていた東京送電線は、天竜川電力南向発電所から自社東京変電所(横浜市)までの全線が1930年に竣工していたが、東京電灯との供給電力増量交渉が遅延したため、フル稼働するに至っていなかった。1934年6月、東京電灯による供給に任せていては既設設備の有効活用は不可能であるとして、大同は市場分割協定の破棄を宣言する。これに対して東京電灯が反駁するなど両社の対立は解消の見通しが立たなくなったため、同年7月電力連盟が仲裁に入った。だが、大同電力はすでに一般供給契約を1万5,000kWほど締結済みであり、もし電力連盟が一般供給を制限する裁定をなすならば連盟脱退も辞さない、と大同が宣言したことで、電力連盟の手に負える問題でもなくなった。最終的に大同電力・東京電灯間の対立には逓信省が介入することとなった。同省としては電力業界の統制強化を図るという観点から、両社による需要家争奪戦の開戦は回避せねばならなかったのである。1934年11月になって以下のような裁定が下された。この裁定に基づき翌1935年(昭和10年)2月に新協定が締結され、紛争に終止符が打たれた。新協定による供給電力は裁定よりも増量され、1934年12月より4万5,000kWの供給を開始したのち毎年1万kWずつ増量していき、1943年末には13万5,000kWを供給する、とされた。宇治川電気との間に締結していた電力供給契約は、1933年(昭和8年)11月末で期限切れとなる予定であった。この期日が迫ると、宇治川電気と大同電力の対立が表面化するようになる。宇治川電気への供給は1930年代に入っても増加を続け、1930年に1万3,500kWを加え、1931年11月には1万500kWの供給も始まり累計12万3,300kWの供給となっていた。しかし1932年(昭和7年)11月と翌年3月に予定されていた1万3,500kWずつの受電増加を、不況の影響で需要が減退して余剰電力を抱え込んでいるとして、宇治川電気が拒否する構えをみせた。1932年5月のことで、大同電力・宇治川電気の対立の発端である。宇治川電気への12万3,300kWの供給料金はkWあたり年間113円60銭(責任負荷率60%)であった。宇治川電気の姿勢に対し大同電力は受電増加取り消しを拒否し、大阪市周辺における一般供給に動き出した。契約期限の1933年に入っても交渉は続き、両社の主張は以下のように対立したままであった。対立が続くため大同電力は1933年4月、宇治川電気を電力連盟に提訴する。だが連盟は逓信省に裁決を仰ぎ、さらに同省の意向で「電気委員会」に回されここで両社間の問題は裁決されることとなった。そして同年8月、電気委員会の審議が行われ、逓信省当局が作成した裁定案を承認した。最終的な裁定は以下の通りである。この結果宇治川電気への供給は12万3,300kWで固定されたが、かわりに同社との間に締結されていた市場分割協定は破棄され、大同電力の一般供給に対する制限は消滅した。以上四大卸売先への供給動向を詳述してきたが、一般供給についても詳述する。一般供給は電気事業者への供給に比べてごくわずかで、供給区域は主に大阪府に設定された。大阪府における供給区域の設定は、大阪送電会社の時代に遡る。1919年(大正8年)10月に同社が事業許可を受けた際、まず北河内郡守口町ほか5町村に設定された。だが京阪電気鉄道の区域と重複していたため、許可を得たものの供給を開始する意図はなかった。その後1922年9月に大阪市・堺市と大阪府南部の郡部を電力供給区域に追加し、まず綿業(紡績・綿織物)が盛んな岸和田市および泉南郡・泉北郡において需要開拓に着手、1923年10月に岸和田営業所を設置して供給を始めた。続いて、大阪電灯の残余事業買収につき、同社がもつ供給区域のうち大阪市による市営化から外れた区域を自社供給区域に追加した。八尾町をはじめとする大阪市郊外の町村と、堺市一帯の地域で、すべて電灯・電力供給区域である。大阪府以外では水力発電所の地元などに供給区域を設定していた。岐阜県恵那郡串原村・愛知県東加茂郡旭村の串原・時瀬発電所周辺2か村と、王滝川流域の長野県西筑摩郡三岳村・王滝村の2か村、計4か村が該当する。ここでは電灯供給のみで、串原村・旭村では木曽電気興業時代から(木曽電気製鉄#関連会社串原電灯参照)、三岳村・王滝村では1922年秋から供給していた。大阪府内における一般供給については、大同電力が卸売り事業に集中する方針をとったため、1925年8月に新設の傍系会社大阪電力株式会社へと移された。しかしその後の環境変化により卸売り専業では不利であるという方針に反転し、この大阪電力を1934年11月に吸収した。さらに1938年(昭和13年)5月、同じ大阪府内の和泉電気と千早川水力電気を合併したため、供給区域は拡大した。最終的に、大同電力の供給区域は下表のようになった。1937年12月末時点のものだが、翌年に合併する千早川水力電気・和泉電気の供給区域も併記している。以下、発足以来の業績の推移について記述する。大同電力は1921年(大正10年)2月、資本金1億円をもって発足した。発足初期の業績をみると、発足最初の決算にあたる1921年上期(5月期)の収入は142万円余りであったが、以降累増して2年半後の1923年(大正12年)下期(11月期)にはその4倍近い551万円余りに達した。半期後の1924年(大正13年)上期になると収入は一挙に930万円余りとなり、以降も漸増傾向を示して1929年(昭和4年)上期・下期にはそれぞれ2,000万円を越える収入を挙げた。収入の拡大につれて利益金も拡大し、1921年上期に85万円余りであったものが、1929年下期には8倍以上の754万を計上するに至った。配当率は当初6分であったが、次第に上昇して1926年(大正15年)上期からは1割配当を開始した。1926年上期から1929年下期に至る4年が営業の最盛期であり、この間会社史の中でも最大の1割配当が続いた。資本金はこの間、1923年10月に大阪電気の合併により1,296万3,000円を増資し、1927年(昭和2年)4月に6,003万7,000円を加え、さらに1928年(昭和3年)10月尾三電力の合併に伴い300万円を増して、1億円から1億7,600万円へと増加した。1920年代を通じて収入を拡大した大同電力であったが、収入の増加率は供給電力量の増加率を下回っていた。したがって、収入を供給電力量で除した1kWhあたりの収入は減少したのである。1kWhあたりの収入減少の主因は電力料金の低下であった。実際に、収入のうち事業収入は1929年上期までは上昇したが、1kWhあたりの事業収入は1925年(大正14年)上期の2銭0厘をピークに減少へと転じた。これに対して1kWhあたりの支出は硬直的であったため、1kWhあたりの利益も1926年(大正15年)上期を頂点として低下していき、1931年(昭和6年)下期にはピーク時の半分以下にまで縮小した。収入の減少とともに業績低迷の要因となったのが、支出の増加、中でも支払利子と償却費の増加であった。支払利子の増加は、社債と借入金が増加したことによる。1927年に6,000万円余りの増資が行われ、翌年までに計1,800万円の払い込み徴収が行われたが、それ以降は業績低迷と配当率の低下により困難になり、その分社債と借入金、特に後者が増加していった。増加につれて利子負担も重くなり、1931年の支払利子は1925年の1.5倍となっている。償却費については元々大同電力は償却不足が指摘されており、増加したといっても望ましいと考えられていた償却率の半分程度であって、なお不十分であった。この償却費圧縮は資金調達に関連していた。というのは発足初期の大同電力は、巨額の建設資金を調達するため株式の払い込みや増資を必要としており、これらを円滑に行うには高配当の維持が必須であったのである。高配当の捻出のため犠牲にされた費用が特に減価償却費で、1932年までの10年間に本来望ましいとされる額の2割程度しか計上されていなかったので、その分固定資産の水増しとなった。その上、日本水力や大阪電灯から引き継いだ不良資産を抱え、東京送電線など建設したものの未稼働の資産があり、保有していた傍系会社の株式など有価証券も業績低迷により額面の8割程度に実価が低落しているなど、資産全体が不健全な膨張を見せていた。そして資産の膨張自体が債務の累積に繋がり、支払利子の増加をもたらしてもいた。収入減少などにより1930年以降配当率は低下し続けたが、1933年ついに無配当に転落した。その要因は対米ドル円相場の急落が引き起こした外債問題にある。そもそも外債とは、1920年代半ばに発行していた米ドル建て社債のことである。1920年代に行われた発電所の新増設など設備投資に必要な膨大な資金を調達するための発行であった。発足初期における投資額は、1922年度から1924年度までの間だけでも1億900万円に達し、大阪電灯の資産買収分を除く設備投資額だけでも7,900万円に上っていた。この時期における資金調達は、もっぱら資本金の払い込みと社債の発行によったが、関東大震災による金融逼迫など環

出典:wikipedia

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